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  • ビートルズ来日公演から50年、約束を守って今年も日本にやってくるリンゴ・スター

    Home Extra便 ビートルズ来日公演から50年、約束を守って今年も日にやってくるリンゴ・スター - TAP the POP 1966年6月29日早朝。羽田空港に降り立ったビートルズの一行は、パトカーに先導されてヒルトン・ホテルに到着後、ホテルと武道館の往復以外は、警官隊によって厳重に警戒されたホテルの部屋に缶詰め状態で過ごすことになった。 この時の警備は前例がないほど厳重で、警視庁の発表ではのべ8,370人もの警官隊が動員された。会場となった武道館でもアリーナには観客を入れず、1階席から飛び降りるファンを想定して、多くの警察官が警備にあたった。 「今度の来日で、日が嫌いになったりしないでね。日中のあなたたちのファンは、当に心の底からそれを心配してると思うの。必ずまた来てくれると約束してちょうだい」 音楽誌「ミュージック・ライフ」の編集長だった星加ルミ子がそう頼んだのは、過剰な

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  • 「ジャズの魂は売らない」 日野皓正~ブームに惑わされなかった不屈のスピリット

    Ray-Banの売り場から、「Shooter」というモデルだけが根こそぎに消えた。 日野皓正がさりげなく鼻にのせていたからである。 ジャズ・メンが、ファッション誌に登場することなどこれまでなかった。 贅肉ひとつない引き締まったボディ。軽いフットワーク。身を弓なりにそりかえし、空に向かって一気に吹きあげるパフォーマンス。 日野皓正は最初からスタアとして登場した。 だがその資質は、一夜にして身についたものではない。 1955年頃、米軍キャンプで、「日野ブラザース」という名のタップダンスとトランペットの兄弟バンドが名を上げる。 兄、皓正、弟、元彦。13歳と9歳。ふたりは、父のトラ(エキストラの意)としてステージに立った。 父、日野敏は、かつて日劇で鳴らしたタップ・ダンサーでトランぺッター。 彼が少年たちに課したのは、登下校前30分のレッスン。彼らは忠実にノルマを守った。すでに家計を支えていたから

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  • ダンサー・イン・ザ・ダーク〜「ハリウッド的予算なんて必要ない」とビョークは言った

    『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(DANCER IN THE DARK/2000) 「辛いことばかりに敏感になって、喜びに鈍感になっている」。そんな経験をしたことはないだろうか。他人の祝祭生活のグレイテスト・ヒッツ的な投稿の連続によって、「まるで自分なんか」とSNS疲れに冒される人々が増殖している現在、こうした感覚に陥っている話をよく耳にする。 来なら、人はもっと些細なことに幸せを見出さなければならないし、それができるはずなのだ。“盛られた出来事”や“加工された画像”なんかに惑わされずに、しっかりと現実を直視しながら、小さな喜びを感じることの大切さ。毎日どこかで必ず訪れるささやかな時間……こんなことを考えていると、1映画が浮かび上がってくる。 幼い頃に何度も読み返した、人のために尽くす少女を描いた絵『黄金の心』からインスピレーションを得たラース・フォン・トリアー監督は、目の前の現実が

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  • アカシアの雨がやむとき〜日本の歌謡曲の潮流を変えた歌、その時代背景と誕生秘話

    1960年4月にリリースされたこの歌は、歌手・西田佐知子(関口宏の)のヒット曲である。 日では一般的に“アカシア”といえば、明治時代に輸入されたニセアカシアのことをさす。 このニセアカシアは、和名でハリエンジュ(針槐)とも呼ばれている北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で、春には白く可憐な花をつけることでも知られている。 日の歌謡曲や童謡の歌詞で“アカシア”として歌われているのは、たいていこのニセアカシアのことだという。 西田佐知子が歌ったこの「アカシアの雨がやむとき」が誕生したのは1960年(昭和35年)。 当時の日はいわゆる“60年安保闘争”の真っただ中。 アメリカとの間の相互協力や安全保障条約の調印を発端とした反対運動で世の中は騒然としていた。 「安保反対!!!」と叫ぶ学生やデモ隊が、各地で機動隊と衝突を繰り返す日々。 1960年6月15日、悲劇は起こった…。 暴力団と右

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  • ソウルの目覚め~ジェームス・ブラウンの27歳

    まったく、1960年という年は、俺のそれまでの苦労がいっきに報われはじめた年だった。(『俺がJBだ!―ジェームズ・ブラウン自叙伝』より) ジェームス・ブラウンは、名ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア、誕生日は1933年の5月3日だ。 母親のお腹から出てきたときには息をしておらず、周りにいた家族がショックで涙を流していると、ほどなくして産声を上げたという。 生まれながらにして人々の注目を集める才能を持っていたその赤ん坊は、すくすくと育って5歳頃にハーモニカを吹き始め、その後もドラムやピアノ、ギターなど次々と楽器の扱い方を覚えていく。 11歳頃には地元のアマチュアによる歌唱コンテストで優勝するなど、その音楽的才能は誰もが認めるところだった。 友人らとコーラス・グループを結成し、格的に音楽活動を始めたのは1953年のことだ。 すぐにグループは地元で人気を集め、やがて自分たちのグループを

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  • ベニー・グッドマンを偲んで〜黒人と白人を同じバンドで演奏させたスウィングジャズの立役者〜

    作家の村上春樹は著書の中でベニー・グッドマンについてこんな風に綴っている。 肌の色なんかよりは、その時代その時代の優れたミュージシャンをリクルートし、新しい息吹を迎え入れ、自分の楽団を常に第一線の刺激的な存在にしておくことがグッドマンにとって最優先事項だった。 楽器から出てくる音さえ素晴らしいものであれば、そしてそれがご機嫌にスイングさえすれば、彼は半魚人だって雇ったかもしれない。 <引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著> それは34年前の訃報だった。 1986年6月13日に“スウィングの王様”と呼ばれた男が心臓発作によりニューヨークの自宅で静かに息を引き取った。 この世を去った。享年77。 彼の名はベニー・グッドマン。 1935年から1940年代半ばにかけての約10年間、アメリカの大衆を熱狂させたスウィングジャズのムーブメントをけん引した人物である。 29

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  • オーネット・コールマンを偲んで〜新しいジャズ=フリージャズを創り出した革命家の偉業〜

    2015年の6月11日の朝、従来のジャズの演奏スタイルを覆した“ジャズの革命家”がニューヨークのマンハッタンで死去した。 家族の代理人によれば、死因は心不全。85歳だった。 その訃報を受けて、ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』、デヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』などへの出演でも知られる俳優にして音楽家のジョン・ルーリーが自身のFacebookに追悼文を綴った。 まだ私がサックスを吹き始めた頃に、オーネット・コールマンを知ったわけだけど、彼には元気づけられた。 こっちなら行けるって道を俺に示してくれたんだ。 私はウースターの公共図書館でジャズに関するものならなんでも探しまくって、彼とセシル・テイラーについてのを見つけた。 どういうわけか、オーネットが言ってたこの言葉が俺から離

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  • 喝采〜ちあきなおみが歌った“悲しみの名曲”の誕生秘話

    「喝采」は、歌手・ちあきなおみの13枚目のシングル曲として1972年9月10日に発売された楽曲である。 当時25歳だった彼女は、この曲で『第14回日レコード大賞』の大賞をはじめ、その年の賞という賞を総なめにした。 リリースから3ヶ月でのレコード大賞受賞は史上最短記録だったという。 歌詞の内容は、主人公の女性歌手のもとに大切な人の訃報が届き、心に傷を負った彼女はそれでも恋の歌を舞台で唄いつづける…というストーリーである。 当時、ちあき自身の“私小説歌謡”として売り出されたこの歌は、一体どんな経緯で作られたのだろう? 東京都板橋区で生まれた彼女は、芸事が好きだった母親の影響で、4歳の頃からタップダンスを習い、5歳で日劇の初舞台を踏んだという。 その後、米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーなどで歌うようになる。 この下積み時代に彼女は、この曲の歌詞の内容と重なるような経験をしたというのだ。 当

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  • 伝説となったクレイジーキャッツとザ・ピーナッツの番組『シャボン玉ホリデー』が始まった

    1961年6月4日に『シャボン玉ホリデー』が放送開始したときの視聴率は10,1%で、それが9月まで続いていたが、10月から急に16%前後に跳ね上がった。 その理由は明快だった。8月20日に発売されたクレイジーキャッツの植木等が歌った「スーダラ節」が、10月頃から大ヒットになり始めたのだ。 そこから3か月で20%に到達する回が出ると、その1年後には25%を超えるようにまでなっていく。 レギュラー出演者だったクレイジーキャッツの新曲が、テレビで真っ先に聴けるのは『シャボン玉ホリデー』だった。日曜日の夜6時半になると、テレビのある家では子どもたちが、この番組が始まるのを待ちかまえるようになった。 双子のデュオ、ザ・ピーナツが「シャボン玉、ラン、ラ、ラン」と歌うテーマ曲が流れてくると、もう胸が高まってくる。いったいどんな面白いものが飛び出してくるのか、わくわくしながらクレイジーキャッツの登場に期待

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  • 震災に見舞われた新潟に手を差し伸べたデューク・エリントン

    「A列車で行こう」をはじめとして数多くの名曲を残し、ジャズ創成期の20世紀前半を語る上で欠かすことのできない存在、デューク・エリントン。 「一人の人間のサウンドはそのミュージシャンの全人格」というのは彼の言葉だが、デュークは常に音楽を通じて自身の楽団のメンバーと向き合ってきた。 そうして生まれた音楽が持つ魅力について、大友良英はこう説明している。 僕らが今聴いている音楽の大部分は「打ち込み」と呼ばれている音楽で、コンピューターでオーケストラみたいな音も、デューク・エリントンみたいな音も作ることができます。ファミレスに行くと、どの店舗に行っても同じハンバーグが出てくる感じ。デューク・エリントンの音楽は、最高級のレストランで、顔がはっきりとわかるシェフが作ったアメリカ料理なんです。 デュークが待望の初来日を果たしたのは1964年の6月19日。折しもそれは新潟震災の発生から3日後のことだった。

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  • 音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツの”変な歌”①「スーダラ節」と「ドント節」|TAP the SONG|TAP the POP

    1960年代初頭からテレビで人気が沸騰したクレイジーキャッツだが、最初の爆発は植木等の歌った「スーダラ節」の大ヒットから始まった。 そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」と、加速度的にコミックソングでブームを巻き起こしていったのだ。 その快進撃を支えていたのはクレイジーキャッツというキャラクターを確立させた作詞の青島幸男と、作曲・編曲の萩原哲晶によるソングライティング・チーム、およびテレビ番組と映画とライブを組み合わせたトータルのプロデュースによるものだ。 それらを陣頭指揮していたのがゼネラル・プロデューサー、渡辺プロダクションの創始者だった渡邊晋である。 その存在と指導力はクレイジーキャッツにとって、実に大きいものであったはずだ。 クレイジーキャッツは進駐軍バンドとして活躍していたジャズメンたちが、コミックバンドを目指して結成したところに、放送作家だった青島幸男の作詞

    音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツの”変な歌”①「スーダラ節」と「ドント節」|TAP the SONG|TAP the POP
  • ヨーロッパでもアフリカでも歌われていた中村八大と永六輔のつくった「遠くへ行きたい」

    テレビ系列で1970年から放送されている長寿番組が『遠くへ行きたい』、そのテーマソングとして今でも使われているのが「遠くへ行きたい」である。 NHK音楽バラエティ『夢であいましょう』の「今月の歌」として、1962年に書き下ろされた時にオリジナルを歌ったのはジェリー藤尾だった。 それ以来、デューク・エイセス、渥美清、小林旭、上條恒彦、石川さゆり、さだまさし、元ちとせ、森山良子など、実に様々な歌手たちに歌い継がれてきたスタンダード・ナンバーだ。 ところでジェリー藤尾は最初のレコーディングについて、シンプルであるがゆえに歌詞を理解して歌うのが難しかったという。 たしか「遠くへ行きたい」の時のレコーディングは、夜の七時から始まって、終わったのが朝の五時だったという覚えがありますね。この曲、全部で4分ぐらいあるわけですよ。それを途中でちょっとはずしたら、もう一回、最初からやり直しですからね。同

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  • プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才

    孤高の天才、プリンス(Prince)の足跡 1983年。マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻している頃、彼と同い年の二人のアーティストが翌年迎えることになる大ブレイクを前に、その魅力をゆっくりとポップミュージックの最前線に浸透させていた。 一人はニューヨークのダンスフロアを揺るがせていたデビューしたてのマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』やシングル「Little Red Corvette」で初のTOP10ヒットを放っていたプリンス。その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに慣れ親しんでいた若い世代ならみんなこう思ったはずだ。「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」と。 プリンス・ロジャー・ネルソンは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生ま

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  • 照れながらも忌野清志郎が佐野元春を「スルメみたいに味が出てきます」と紹介した夜

    2003年4月22日、ザ・ホーボー・キング・バンド(H.K.B.)をバックにした忌野清志郎と佐野元春のごきげんな掛け合いは、「トランジスタ・ラジオ」へと受け継がれた。 (これまでの経緯はこちらのコラムで) 演奏が終わった後、忌野清志郎と佐野元春はお互いを紹介し合ったのだが、シャイな二人が照れながら交わす会話からは、いつになっても失われない少年らしさが感じられた。(注) 清志郎「一緒にやんのは初めてだね・・・」 元春 「初めて・・・。ずっと聴いてた」 清志郎「ずっと聴いてた、おれも・・・、ラジオとか・・・」 元春 「自由に好きな曲がうたえる国に生まれて、ぼくは幸せだと思うよ」 清志郎「サンキュー、サンキュー」 「自由に好きな歌が歌える国に生まれて幸せだと思う」という佐野元春の言葉は、いささか唐突な発言にも聞こえるかもしれない。 だが忌野清志郎と主催するラジオ局TOKYO FMとの間で、放送禁

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  • 高田渡の27歳~アメリカでの初レコーディング、ソロから再びバンドへ~

    1972年、大瀧詠一のレコーディングしているスタジオへ高田渡が遊びに来たことがあった。 2人がアメリカのルーツ・ミュージックについて話し合っていると、それを聞いていたベルウッドレコードのディレクターで、制作部長だった三浦光紀がこんな話を持ちかけた。 「そんなにアメリカのルーツ・ミュージックを知りたいんだったら、1回3人でアメリカに行こうか?」 どうせアメリカに行くならレコーディングもしてみたいと大瀧が乗り気になり、すでに解散が決まっていたはっぴいえんどのレコーディングを、ロスアンゼルスで行うという方向に三浦が話をまとめたため、高田渡がアメリカに行く話はなくなった。 そのときに完成したはっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』は、レコーディング中に“音の魔術師”として知られる奇才ヴァン・ダイク・パークスが、リトル・フィートのローウェル・ジョージを連れて突然やってきて、「さよならア

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  • 永積崇が竹中直人に歌ってくれた「サヨナラCOLOR」から生まれたラブ・ストーリー

    竹中直人がオリジナル脚『ミセス「洋燈」へ』を初めて読んだとき、「サヨナラCOLOR」のことが頭に浮かんできたという。 普通に撮影したら30分から40分ぐらいになるその脚を長編映画にするために、竹中は脚家の馬場当に相談した上で、自身の体験やアイデアを織り込んで甘くてすっぱくて切ないラブ・ストーリーに仕上げて、そこから映画化に邁進することになる。 SUPER BUTTER DOGの永積タカシくんが僕の家に遊びにきてくれて、ギターを弾きながら「サヨナラCOLOR」を歌ってくれたんです。 その時のタカシくんの歌がほんとうに心に染みてね、「この歌をテーマに映画を撮りたい」と思ったんです。 日にはその昔、歌謡映画というジャンルがあった。 ヒット曲を題材にした映画が次々と作られていた時代のことだ。 しかし主題歌にしたいほどの歌への思いを監督が先に持っていて、そこからインスパイアされた映画が生まれ

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  • レコード・ストア・デイ2016 限定リリース作品紹介(1)──細野晴臣、村八分、かまやつひろし 他

    4月16日(土)に開催される〈レコード・ストア・デイ2016〉では、参加店舗でしか購入できないアナログレコード、カセットテープなどのリリース作品が発売されます。そこでTAP the POP編集部で厳選した作品をレビューで紹介していきます。第1弾は再発モノを中心にピックアップします。 *RECORD STORE DAY商品は予約できません。詳細はRECORD STORE DAY websiteをご確認ください。 細野晴臣 『COCHIN MOON (コチンの月)』 (HMV record shop) LP 1978年に発表された細野晴臣ソロ5作目。横尾忠則とのインド旅行で受けたインスピレーションを元に、松武秀樹や坂龍一とともにシンセサイザーを駆使して描いていった作品。YMOサウンドの前身とも言えよう、エポックメイキングな作品。

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  • イラストレーターの永井博による絵本の企画から始まった大瀧詠一の『ロング・バケイション』

    『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』というアルバムは、当初は“夏のアルバム”として企画されたものだった。 きっかけとなったのはCBSソニー出版から1979年7月25日に発売されたビジュアルブック、イラストレーターの永井博の絵である。 そこに「A LONG VACATION」と名づけたのが大瀧詠一で、絵についてこのように語っている。 後にアルバム・ジャケットとして一世を風靡したあの絵は最初は絵でした。中の文やこのタイトルを考えたのが私で、には<著書(文)大滝詠一:(絵)永井博>となっています。 デザインを担当したのが養父(やぶ)正一、このチームで80年代のナイアガラのイメージを作り上げていくのだが、絵が世の中に出ていった時点では、まだ音楽との関係はなかったという。 しかし1980年の4月13日に「君は天然色」のレコーディングが始まった時、絵の『A LON

    イラストレーターの永井博による絵本の企画から始まった大瀧詠一の『ロング・バケイション』
  • 音故知新⑤〜ジャズの源流を辿る旅

    ジャズの起源・発祥については諸説あり、現在でもはっきりとは断定されていない。 一般的に多くの文献では19世紀末から20世紀初頭が起源とされており、アメリカ・ルイジアナ州のニューオーリンズを発祥地として南部の都市を中心に発展した音楽形式と記されている。 ニューオーリンズといえば、かつてスペインやフランスから移住した人々やクレオール(欧州系白人と黒人の混血)、そして奴隷制があった時代にアフリカから労働力として強制的に連行された人々など多種多様な人種が集まった港町で、新たな文化が生まれやすい土地だった。 20世紀初頭、アメリカでは過酷な労働を強いられた黒人労働者が怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段として用いた音楽が労働歌=ブルースへと発展する。 これに加えて、ニューオーリンズでは“ストーリーヴィル”と呼ばれた歓楽街の酒場などで演奏されていた“ラグタイム”が人気を集め、アフリカ系の人

    音故知新⑤〜ジャズの源流を辿る旅
  • 何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

    隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年12

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