また、「実名ブログ」に復帰したが、実名をさらしたからといってリアルの生活をネットに持ち込むのかと言えば、それはまた別の話だ。素の僕のことを知っている人ならご承知のように、ここで書いていることは僕のリアルな社会生活とはほとんど切れている。意志的に切っているというのが正しい言い方になるだろう。 だから、『雪泥狼爪』というお洒落なタイトルのブログを主宰するyukioinoさんが次のように言うとき、実名を公開しないというスタイルを貫くyukioinoさんと、実名で書いている僕とは、境界をはさんで対峙しているわけではなく、実は境界の同じ側にいるという感覚を強く持つことになる。 自分がプロフィール欄に実名や仕事について書くどころか、「なにものでもない」と記しているのはネットとリアルを遮断しているからだ。仕事から離れている今、ここに書くのは社会的に無益な個人的趣味だけだ。 (『雪泥狼爪』2008年5月8
ニューヨーク・タイムズが掲載したブロガーの現状をめぐる記事を読んで、彼の地のブログ事情に驚いた。僕はアメリカのブログはいくつかをときどき目にする程度で、ほとんどその状況を知らないに等しいので、とても勉強になった。いやはや、すさまじい話が書いてある。 ■In Web World of 24/7 Stress, Writers Blog Till They Drop (New York Times 2008年4月6日) 日本とアメリカではブログという技術的な仕組みを使いながら、世に出てくるものはかなり異なるようで、ニューヨーク・タイムズには「なかには楽しみのために書いている者もいるが、ほとんどは出版社の社員になったり、契約を結んだりして仕事として書いている」と書かれている。どうりで、その手のプロが情報を紹介するタイプのブログが多いはずだと初めて合点がいった。アメリカではブログを生活の糧にして生
昨日、ある知人に会ったら思いがけないプレゼントをもらい、そのうえに大いなる励ましの言葉を受け取った。プレゼントの方は文学的な素養が豊かで思いやりに溢れたこの人ならではのもので、このブログを読んで僕の読書傾向を知った彼が、二人の文筆家の、現在は作家自身の意向と諸般の事情によって一般には手に入らない作品を当時の文芸雑誌からコピーしてくれたものだ。予想もしていなかったことなので、彼の好意が春風のように身にしみる気がした。この人とは何となくウマが合うとは思っていたのだけれど、実はこのブログを知ってもらうまで、仕事の範疇を超えてコミュニケーションをとることはなかった。結果としてはブログの功徳と呼びたくなる、僕にとってのご褒美である。 さらにこの方が語ってくれたひとことも頂戴したコピー同様に有り難い贈り物だった。彼はこのブログについて「書き込みをしている方々とのやりとりを拝見していると、その方たちと中
有り難いことに、昨日のエントリーにも一昨日に引き続き、再度Emmausさん(id:Emmuas)、勢川びきさん(id:segawabiki)からコメントを頂いた。お二人のコメントを拝見しながら、ブログを書くということについていくつかの考えをめぐらした。 一つは心構えについて。「人は自分にとって切実なことのみを書かねばならない」と言った文人が誰だったか忘れてしまったが、ブログにせよそうした心構えとまったく無縁のところで言葉を垂れ流していてはいけないのではないかということ。いけないと書くのは語弊があるとすれば、真摯な文章にはそれに見合う反応を持って迎えられる可能性が広がっているのではないかということ。そういう意味では、一昨日のエントリーは一方に転べば見向きもされなくなるような、きわどい文章だったと思う。 二番目に、そうした表現を可能にする書く技術について。たぶん、僕の思い過ごしでは決してないだ
はてなの近藤社長がシリコンバレーから帰ってくることになった。1年半前に近藤さんが渡米を発表したときに、一ユーザーとして、また日本に生きる一市民として、近藤さんの決断に男気を感じ、そこを出発点とした感想を「はてなのアメリカ進出によせて」と題して書いた。また、去年の春には「何故、「がんばれ、はてな」か」という文章も書いた。 今回の近藤さん帰国、京都本社移転の英断に、社長渡米、米国支社設立のときと同様大いなるエールを送りたい。はてな取締役の梅田望夫さんが温かいはなむけの言葉を書いていて、実にそのとおりだと思う。梅田さんは「格好悪いけど正しい判断ができるのは、えらいことだよ」と近藤さんに言葉をかけたと紹介している。でも、梅田さんの立場とは違って、はてなから距離がある僕は、格好悪いなんて言う必要はまったくない。むしろ「格好いい」と言ってしまおうと思う。 1年半前、スターウォーズを観ているときに一念発
ブログは二日に一度は書くようにしようと、それとなく心に決めているのだが、最近はほぼ毎日何かを書くようになっている。おかげで内容の薄い文章を臆面もなく満天下にさらす恐怖感にはかなり慣れた。怖いことをしているという意識はそれなりに残っており、それだけにほぼ毎日のように何かを書きつけ、ほとんど読み返すこともせずに誤字も平気でアップすること自体相当のスリルなのだが、そちらはまだ自分に対して諦め半分、そうすることの効用半分の気持ちを携えながらの行いなので、それなりに納得はしている。 ところが未だに慣れないのは毎回の文章にタイトルをつけることだ。ブログをやり始めるまで自覚していなかったことの一つなのだが、どうやらタイトルをつけることが大いに苦手らしい。そう気がつくと、ビジネス文章でも見出しをつけるのはいつも億劫だし、電子メールのタイトル欄になんてかこうかと迷うのも日常茶飯事であることにあらためて気がつ
おそらく敏感な臭覚を持っている人なら、容易にそれを嗅ぎ取るにちがいない。登山客が押し寄せる山には死の臭いが立ちこめている。一昨日、中高年登山者の事故に出会ったと書いた丹沢・大倉尾根は普通の登山客が日帰りで上り下りする場所で、決して危ないところではないのだが、それでも事故は起こる。一昨日出会った方も、まさか自分があんな場所で命の危険に遭遇するとは夢にも思っていなかったはずだが、体力や判断力を問われる山という空間、あるいは山登りという行為は、ときに取り返しのつかない気づきを人に与える装置になる。 僕のようにたまにしか登らない者でも事故に出会う機会は少なくないのだから、日本中の山でどれほど多くの事故が起こっているのか推して知るべしだと思う。個人的にも思い出す出来事がいくつかある。 高校2年生のときに山岳部の夏の合宿で飯豊連峰を一週間かけて歩いた。福島、山形、新潟の三県にまたがる飯豊は、標高は2千
スタジオで写真を撮る人にとっては光源をどうするか、どんなライトをどのように配置するかが写真の醍醐味であり、技術が宿るもっとも大きな部分だと思うのですが、私のような素人カメラマンがお散歩写真を撮る際に出来ることの最たるものは構図を決めるという行為です。些細なことには違いありませんが、その瞬間には小さな全能感とある種の責任感が自分自身に宿るような気分になります。大げさに言えば。 さらに思うのは、芸術は自然を模倣もすれば、その過程は人生をも模倣するなということです。何の話かと言えば、私の場合、優柔不断さが写真を作る作業のなかでしばしば顔を出すと感じる事実を指しています。もっともそれを感じるのは撮った写真を選び取る作業の際でしょうか。「この写真はこのフレームだ!」と一発で決まったものは別として、何枚かは似たようなカットのオンパレードという状況になります。そのときになかなか「よし、これだっ!」と決め
写真を撮って「こんなきれいな風景が撮れた」と自分自身がびっくりしてしまい、たわいもなく小さな感動を味わう。写真ブログをやり始めたおかげで毎週末写真を撮りに歩くようになり、そんな日々が続く。この感動は、今の自分の日常をしっかりと支えてくれている大きな要素なので馬鹿にはできない。生き延びるためには、あるいはもっと積極的によく生きるためには、どうしたって日々の小さなゲリラ戦をうまく戦っていかなければならないのだから。 そこでである。最近分かってきたことは、写真においてはうまく撮れたことにはあまり意味がないのではないかということだ。ここが僕自身の感じ方としては絵画と写真の決定的に違うところだという気がしている。絵画の場合、そこにフォルムを定着させる技それ自体に個性、つまり自分自身が大きく宿る。絵を完成させて、うまく描けたときには、だから自分自身の中にある未知の力を引き出せたような気がして感動する。
一般論としてではなく、私のような書き方をしていると、という話ですが、ブログを始めて文章が荒れたなあと実感するところがあります。 その理由は、 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。その癖が付くと気持ちの中に「文章はじっくり推敲して書くもの」という意識が薄れてくる。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。何かを書こうとパソコンに向かってからテーマやトピックを考えることしばしば。書きたいことがなくても惰性で書く。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。推敲しない。→ 漢字の間違い、てにをはの間違い頻出。 ・書き殴る:起承転結、それに類する文章の構造を意識しなくなってきた。これは公の文章か、それともプライベートなメモか、日記か。 ・書き殴る:書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょう
フルトヴェングラーだの、ブルーノ・タウトだの、浮き世とまるで縁のないことにこだわってここに書き付けてはいるが、私の実際の日常はタウトを考えることで成立しているわけではない。しかしブログに現れる自分は自分とは思えないような浮世離れな仕方で生きている風情があり、その意味では、本名をさらして書いてはいてもブログに表れる私は作り物の私である。 そして私は嘘つきである。だから、控えめに見ても、このブログに書いていることの何パーセントかは嘘に違いない。さらに言えば、(今現在、少々舵を切り直しているところだけれど)これまで多くのエントリーを「ブログの上でエッセイを書く実験」として綴ってきた。エッセイは、日記とは異なり、日常を素材にした創作の世界である。事実を書き連ねることそれ自体に意味はない。私が書いてきた「僕」はブログのこちら側にいる私ではないということだ。 先日東京大学で行われたワークショップ『ME
CNET Japanの佐々木俊尚さんのコラムで「ブログ限界論」をめぐって集まりがあり、当日の会合もそれに前後するブログ界隈でもそれなりに盛り上がったのを知る。佐々木さんの文章や徳力基彦さんのブログなどでその様子を想像することができる。そもそもの発端は、ここにあるRTCカンファレンスの案内 にある一文「最近ブログつまらなくないですか?」のようだ。 片や米国などに目を向けると、従来型メディアを凌駕する勢いでユーザーを集め続けるブログが多数存在し、ブログメディアを媒体とする広告市場なども日本の数百倍の規模にまで膨れ上がっています。この差はいったいどこにあるのでしょう。 そもそもブログをマスメディアの文脈で理解しようとするこの問題設定は、問題設定自体がブログの発展を考える姿勢としては違っていると思う。僕も自分がブログを始める前、始めた当初は1対多のマス媒体を個人で始めたつもりが強かった。しかし、し
このブログを始めた最初の最初のきっかけが何だったのかは忘れてしまったが、「誰彼もすなるブログといふものを、我もしてみむとてするなり」と思ったことは確か。しかし、いったいどんなものか、やってみなければ分からないこともあるだろうからと書いてみる気にはなったものの、さて、さっぱり作法が分からない。「はてなダイアリー」を選んだこともあるだろう、最初は非公開にしてときどきほんとに日記を書いていた。誰に見せるつもりもなくである。 途中からとりあえず「公開」にして、「小エッセイを短い時間で書く練習」と目的をそんな風に定め、書き続けた。ところが最近は、エッセイやコラムのような様式に書くものをはめる意識が少々後ろに下がり気味で、ここしばらくは、むしろまた日記を書くような気分で綴り始めている。出来てくる文章には無駄も破綻も間延びもあるかもしれないが、形式を整えようとする意識妨げる別の何かがひっかかってくる時も
佐藤優の著作は多くの人が褒め、ブログでも「面白い」というコメントを多数見るが、これといった理由もなく一冊も手にしたことがなかった。『国家の罠ー外務省のラスプーチンと呼ばれて』が文庫化されたのを横浜の有隣堂で見つけてようやく読むことになった。 “外務省のラスプーチン"と呼ばれていた佐藤優が、同省をめぐる一連のトラブルに連座するかたちで役所を追われ、鈴木宗男とともに逮捕された一件は新聞が伝える範囲である程度の知識がある。その後、釈放された彼が『国家の罠』以降の著作を発表し、なんだか悪者扱いされていたはずなのに、オセロの駒をひっくり返すようにマスコミ、インテリの支持が広がっている様子もなんとなく見聞きしていた。『アエラ』に特集されているのも読んだし、この1、2年の間に、この人の書いたものが書店の棚で増殖を続けているのも知っていた。 それだけ気になっていながらも今まで読む気にならなかったのは、なん
週末の二日間、ブログを書かなかった。二日続けてここに一文字も書かないのは久しぶりのこと。不思議なもので、毎日のように、どんなに小さい文章でも、どんなくだらないことであってもなにがしかの感慨を記述していると、たったの二日間なのにそれ以上の時間不在にしていたような気分になる。毎日馬鹿のように書き続けることそれ自体に価値があるとは思わない。むしろ、たとえば一週間に一度、それなりにまとまったメッセージを掲示する方が、付加価値のある情報発信を行うという視点で考えた場合には意義がある結果を得られるのではないかと思うのだが、そうは問屋が卸さない。お脳が「何でもいいから書きたい、書きたい」と言って利かないのである。ある種の精神安定剤としてそれが機能しているのだと思う。 人間、合理的にできていないものだなと思う。困ったもんだという言い方もできるし、だから人間は面白いとも言えるだろう。
僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムをなんとかやり過ごしたあと、いわゆる「社会人」になってからである。自分が興味を持つ領域のものごとを、自分にあったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。(p55) 「好きを貫く」ことを若者に訴える梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』の一節だ。梅田さんが人生で獲得した知見が肩の力を抜いた文体でくっきりと表現されている。さすがである。というのは真っ赤な嘘で、これは村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』からの引用である。昨日のエントリーで村上春樹と梅田望夫がそれぞれの時代に果たした役回りは似ているという感想を書いたが、それとは別にこの二人は仕事への姿勢がとても似ている。村上春樹は、『風に歌を聴け』で群像の新人賞を取りしばらくしたのち、「好きを貫く」ためにそれ
いや、自分でやっておいて言うのも反則ですけれど、写真にキャプションめいた文章をつけてつないでいくブログは単調になる嫌いがありますね。 これが文章だけだと、「この一文ではこういうことを言おう」と訴えるメッセージを決めて作文にかからざるを得ないわけですが、写真があれば、そんなものがなくてもそれなりのエントリーが半ば自動的に出来てしまう。ところが「とりあえず写真を見てください」となったとたんにメッセージは写真を超えていかない。メッセージ足る瞬間を捉えた写真があれば、それでも類として優れたものが出来るかもしれませんが、しかし、どこか違う。今回の北海道旅行については、本来語るべきことを語っているという感じがあまりしません。言語化されたメッセージは、視覚が訴えるメッセージとは異なものということを、一連のエントリーを書いてみたことによって皮膚感覚で理解できたような気がします。当たり前のような話ですが。
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