弥生時代に拠点的な集落があった市田斉当坊遺跡や、集落で作られていた勾玉などを紹介する山本館長(久御山町役場) 巨椋池周辺で発掘調査された先史や古代の遺跡について、京都市考古資料館の山本雅和館長が京都府久御山町役場で講演した。巨椋池の範囲が伸び縮みしていたことや、弥生時代では多くの住居に加え、未完成の勾玉(まがたま)や石包丁が確認された南岸の市田斉当坊(さいとうぼう)遺跡(同町市田)が「拠点的な集落だった」と語った。 山本館長は、巨椋池の面積は1941年の干拓直前で約800ヘクタールだったが、歴史上は一定でなかったと解説。北、東、西岸は丘陵や断層があり標高が上がるが、傾斜が緩やかな南岸では水域が伸縮していたという。 証拠に南岸の春日森遺跡(宇治市小倉町)を挙げ、平安時代後期―鎌倉時代の遺跡のさらに下で泥の堆積が確認されたため「南岸は時代によって移動している」と述べた。 南岸の著名な遺跡として