萩本欽一さんとのコンビ「コント55号」で活躍し、俳優としても個性的な演技を見せたコメディアン、坂上二郎さんが10日、脳血栓のため栃木県内の病院で亡くなった。76歳だった。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻瑤子(ようこ)さん。連絡先は東京都品川区東五反田5の10の18TK五反田ビル603の浅井企画。
コント55号のコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前、亡くなった。76歳だった。 昭和9年、鹿児島県生まれ。歌手を目指して19歳で上京、歌手の付き人を経て漫才師になり、東京・浅草のストリップ劇場「フランス座」のコントで共演した萩本欽一さんと昭和41年「コント55号」を結成。松竹演芸場や有楽町の日劇で「机」「帽子屋」など、舞台狭しと駆け回る勢いのあるコントを披露、萩本の全身を使った突っ込みをきっちり受け止める「チッコイ目の二郎さん」として人気者に。コントの中で始めた飛行機の手振り付きの「飛びます、飛びます」は多くのお笑いタレントが物真似のネタにし、二郎さんの代名詞ともいうべきギャグだった。 その後、テレビのバラエティー番組にも進出、お茶の間でも人気を得るが、昭和40年代後半から俳優としても活躍、TBS系「夜明けの刑事」、NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」など多くのドラマ
萩本欽一(69)主演の明治座公演「いかん どっかん あっけらかん」(28日まで)が2日、初日を迎えた。リハビリ中の坂上二郎(76)が声と等身大パネル写真で登場。萩本は「二郎さんがいないと寂しいね。また一緒にやりたい」と涙を見せた。 笑いが涙に変わった。爆笑の連続だった舞台が終わり、萩本はカーテンコールに坂上の等身大パネルとともに登場した。2年前の公演の扮装(ふんそう)パネルは大道具スタッフが用意した。萩本は「最後のコント55号の公演で一緒に踏ん張ろうと言ったけど、実現しなかった。長いことコンビやっているけど、こんなことになるとは思わなかったよ」と涙をみせた。 坂上は昨年8月に倒れた。左半身に続いて右半身も不自由になった。9月30日に萩本が見舞った時も足腰は立たなかったが、明るい声と表情は健在。病床で録音した声やビデオ映像の出演も検討したが、家族から「無理」との連絡が入り、前回舞台で収録した
萩本欽一(69)主演の明治座公演「いかん どっかん あっけらかん」が2日、初日を迎え、昨年8月に倒れ、リハビリ中の坂上二郎(76)が、声と等身大パネル写真で登場。萩本は「二郎さんがいないと寂しいね。また一緒にやりたい」と涙を見せた。 爆笑の連続だった舞台が終わり、萩本はカーテンコールに坂上のパネルとともに登場。「最後のコント55号の公演で一緒に踏ん張ろうと言ったけど、実現しなかった。長いことコンビやっているけど、こんなことになるとは」と涙をみせた。 坂上の登場シーンでは、前回の舞台で収録した声を流した。萩本は「シーンが終わるたびに、おれらしくないな、あまり動いてないと思った。二郎さんがいないんで、腹が立って張り倒すところまでいかない」と相方の不在が演技にも影響した。しかし、客席から「二郎さ~ん」の掛け声がかかると「うれしいね」と喜んだ。「この声を二郎さんに届けるよ。『またやろうぜ』が一番の
萩本欽一さんとのコンビ「コント55号」で国民的な人気を集めたコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため栃木県の病院で死去した。76歳。鹿児島県出身。通夜・告別式は行わず、近親者のみで家族葬を行う。 2003年に脳梗塞を発症。リハビリを続けながら舞台などに一時復帰したが、昨年8月に自宅で倒れ、入院していた。 中学卒業後上京し、職を転々としながら歌手を志した。歌手青木光一さんの付き人をするうち、歌謡ショーで漫才や司会を担当。東京・浅草で知り合った萩本さんと1966年にコント55号を結成、テレビ出演で注目を集めた。 舞台いっぱいに跳びはね、走り回るエネルギッシュなコントが特徴で、萩本さんの絶妙なツッコミに、坂上さんがうろたえるさまが新しい笑いを生んだ。 69年に始まった「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」では、じゃんけんに負けると服を脱ぐ「野球拳
孤高のギタリスト、ゲイリー・ムーア(Gary Moore)が、休暇先のスペインはコスタ・デル・ソルのエステポナにある高級ホテル「Kempinski Resort Hotel」の一室で、現地時間2月6日(日)早朝に亡くなりました。享年は58歳(写真は遺作〈スタジオ・アルバム〉となってしまった2008年の『BAD FOR YOU BABY』) 同日夜にゲイリーの遺体はスペイン国内のマラガという都市に移され、検死が行なわれ、死因の特定を急いでいるそうですが、眠っている間に亡くなっていたとのことです。 アイルランドはベルファストに生まれたゲイリーは、シン・リジィ(Thin Lizzy)での活動後、ソロでのキャリアを積んでいく中、ブルーズへの傾倒を見せ、2010年には約21年ぶりの来日公演を行なったばかり。元シン・リジィのブライアン・ダウニー(ds)は、「本当にショックだ。ゲイリーとは、彼がPLAT
◇がんと一緒に大いに遊びたいね ◇名刺には「家事手伝い」 ちょっとそこまで、横澤彪さん(71)、足取りも軽やかに手ぶらで散歩に出た。スタコラサッサ、スタコラサッサ。東京は目黒の自宅近く、八幡さまの境内で思いっきり伸びをした。「気持ちいいねえ。ただただぼーっとして歩いてるだけなんだけど。楽しくて」 ご存じ、元フジテレビのプロデューサー。自身も「懺悔(ざんげ)室」の神父で登場した伝説のバラエティー「オレたちひょうきん族」でビートたけしさん、明石家さんまさん、そして「笑っていいとも!」でタモリさん、お笑いビッグスリーを世に送り出した。さらに腕を見込まれて吉本興業に引き抜かれ、大阪の笑芸を東京に売り込むのに東奔西走。気がついたら、がんだった。 「悪性リンパ腫。性質はおとなしく、進行も緩やかなんです。まあ、がんと一緒に生きていくかって。5年目に入りました。2カ月に1度、抗がん剤を打ち、あとは毎週の病
「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などの人気番組を手がけた元フジテレビプロデューサーの横澤彪(よこざわ・たけし)さんが8日、肺炎のため亡くなった。73歳。 東京大文学部卒業後、フジテレビに入社。漫才ブームのきっかけとなった「THE MANZAI」(80年)をはじめ、「オレたちひょうきん族」(81~89年)、現在も放送中の「笑っていいとも!」などを担当。タモリさん、ビートたけしさん、明石家さんまさんの「お笑いBIG3」を人気者へと押し上げ、フジテレビのバラエティー路線の基礎を築いた。 「オレたちひょうきん族」はパロディーやアドリブの新鮮さが好評で、横澤さんも自ら番組に登場。同じ土曜8時で対抗していた「8時だヨ!全員集合」(69~85年)を視聴率で上回ったことも話題になった。 95年にフジテレビ退社後は東京に本格進出した吉本興業に入社。東京本部長を務めるなど、若手お笑い芸人の養成に尽
映画「二十四の瞳」など数多くの名作に出演し、日本映画の黄金期を支えた女優の高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名・松山秀子=まつやま・ひでこ)さんが28日に死去したことが31日、分かった。86歳。葬儀は近親者で済ませた。喪主は夫で映画監督、松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏。 北海道函館市出身。5歳のときに松竹映画「母」の子役で銀幕デビューし、数多くの映画に天才子役として出演した。 東宝などを経て25年からはフリーに。木下惠介監督、成瀬巳喜男(みきお)監督ら多くの名匠に師事し、日本初の長編カラー映画「カルメン故郷に帰る」(26年)をはじめ、「浮雲」(30年)「無法松の一生」(33年)「名もなく貧しく美しく」(36年)「乱れる」(39年)など日本映画史に残る名作に相次いで主演。特に「二十四の瞳」(29年)「喜びも悲しみも幾歳月」(32年)などは大ヒットし、国民的スターの地位を確立した。 “デコちゃん
高校入試でトラブル相次ぐ 「英語」のリスニング中、試験会場の隣で工事開始…うまく聞けない状況に なぜか早送り再生される会場も 「社会」では地図上に、愛知と三重の県境なし
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く