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さとなおとplanningに関するhiroyukisonodaのブックマーク (6)

  • www.さとなお.com(さなメモ): 「歌う」から「動く」へのシフト

    というわけで、「WorldShift Forum 2011」に参加してきた(昨日参照)。 登壇したのはセッション3『コミュニケーションと社会のシフト』。 並河進くんと上田壮一くんとの3人セッションで40分。他のセッションはスライドを使ったプレゼン込みだったが、ボクたちは3人ともスライド・プレゼンなしで、対話を重視して進めていった。 まず、規定お題として「何から何へのシフトが起こるのか(起こすのか)」をひとりずつ語った。 ボクは「歌う→動く」というテーマで、ここ十年くらい、折に触れて考えてきたことをお話しした(写真は@ikeyuさんのツイッターから拝借)。 それは「ジョン・レノンの『イマジン』は、なぜブッシュの戦争を止められなかったのか」ということ。 世界中であの美しいコンセプトを共有し、あんなに何度もみんなで歌ったのに、止められなかった。ブッシュだけでなく、ブッシュ以降のいくつもの戦争や不

  • www.さとなお.com(さなメモ): 関与する生活者とコミュニケーションする方法

    そろそろ仕事も始めないとね、ということで、講演などから手始めに受け始めたが、ちょうど世の中的に震災後の活動の検証時期に来ているようで、いろんなオファーが入り始め、あっという間に週5ペースになった。 ソーシャルメディアと絡めての講演が多い。 ボクも震災前と震災後でソーシャルメディアについての考え方が変わったので(震災前にを出版しなくて良かったw)、この辺の講演をキッカケにして考えを深める作業に入っている。 講演というアウトプットのために真剣に考えることは、インプットを呼び、考えを深めることができる。 このサイクルにスムーズに入ることができたのが良かったなぁ。おかげでようやく「明日の広告」の次のの姿形(内容的に)が見えてきた。その姿形は震災前に書いていたもの(80%完成してた)とはわりと違う。レッサーパンダとジャイアントパンダくらいは違う。 震災で、ソーシャルメディアを外から語っていただ

  • www.さとなお.com(さなメモ): エビフライのしっぽ

    「あのさぁ、エビフライのしっぽってさぁ、無駄でしょ? べないし。でも、エビフライって、しっぽがないとおいしく思えないもんなんだよ。エビフライは『無駄な存在であるしっぽ』があるからおいしいんだよ。」 これはボクの尊敬する先輩が言ってくれた言葉である。 長い映像作品を作っていたとき、サジェスチョンしてくれた。 つまり、エビフライのしっぽのような無駄な場面を入れろよ、と。観てる人がホッと息が継げる、ちょっとだらけたシークエンスを持てよ、と。あまり内容を濃く詰め込むなよ、と。 それ以来、CMを作るにしても、文章を書くにしても、講演でしゃべるにしても、なるべく「エビフライのしっぽ」を入れるように心がけている。濃くしすぎない。隙を作る。ちょっとだけ筋と関係ない話をする。 で、人間もいっしょなんだよね。 無駄な部分や隙があった方が魅力的になる。 この前、ある人を前に「あぁオレはなんでこの人のことがこ

  • www.さとなお.com(さなメモ): 企画発想の順序という「型」

    一昨日と昨日の記事の続き。 広告なんかに特に「型」はないと思うが、ボクは講義などで教えるときにあえて「型」を要求する。 それは「企画発想の順序」である。黒帯になるまではこの順序で考えろ、と「型」にはめる。 1.伝えるべき相手(伝えてもらいたがっている相手)は誰かを知る。 2.その相手が触れているメディアは何かを知る。 3.アイデア・表現を考える。 1が実は一番難しい。 こちらが一方的に決めた「伝えたい相手」(ターゲット)ではない。伝えるべき相手。もしくは潜在的に伝えてもらいたがっている相手である。調査・分析も必要だし、自分でもとことん考えなければいけない。ここで一歩目を間違えるとすべてを間違える。でもこの一歩目をおろそかにするプランナーが非常に多い。伝えるべき相手を知らずにはアイデアも表現も作れない。相手が誰かも知らずにどうやってラブレターを書くというのか。 2は「その相手と接触する方法」

  • www.さとなお.com(さなメモ): 「明日の広告」11刷です

    以前、荒川修作の講演を聴いたことがあるが、彼がこんなことを言っていた。 「ヒトは形あるものに名前をつけたが、目や手から出た力みたいなものに名前をつけず、認めない。目から力がバーッって出て壁にぶつかる。その壁に、目には見えないけど、力がちゃんと残っているんだ。それを認めない。形あるものしか認めないから死ぬんだ。身体がなくなったと同時に死ぬんだ。でも身体がなくなっても人間は死なないんだ。それがおまえらバカは誰もわからない」みたいなことを講演会で言っていた。 これって昨日まで3日かけて書いた内田樹最終講義の中の「存在しないもの」と同じことかもしれないなぁ。そういえば荒川修作も「存在しないもの」になってしまった。「存在するとは別の仕方」でボクにシグナルを送ってきてくれている。確かに荒川修作は「死んでいない」。 3日間、異様に長い文章を書いたので、今日は短めに。 ええと、拙著「明日の広告」が 11刷

  • www.さとなお.com(さなメモ): ボクたちはその萌芽の最初期に生きている

    「ソーシャルメディアが大きく変えてしまうもの」という記事にはたくさんの反応をいただいた。 お茶の間で家族に共有されていたもの。それが家族と代わる新しい「つながり」に共有されていく流れ。広告コミュニケーション的にも大きく根的な変革であるが、これはもっとたくさんのものを変えてしまうかもしれない。 極端に言ったら「国」を変える。 なぜなら、家族とは「国」という組織の最小単位だからである。国があり、県や州があり、街があり村があり、そして家族がある。国家はそうやって組織づくられ、統率されている。つまり、家族が集まり情報を共有する仕組みが崩れることは、国家のありようが根底から揺らぐことに近い。 そしてそれが人と人との新しい「つながり」に再編成され、しかもそれがネットという距離と時間を超えるインフラを通してであるとき、もうそこには国境はもちろん地域差も年齢差もない。国家という意識を持つことすら難しくな

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