2008年10月21日のブックマーク (11件)

  • いまから映画『自虐の詩』をみようか、どうしようか。みることにしよう。 - hituziのブログ 無料体験コース

    感傷に ひたることなんてないでしょう。自分で えらんだのでしょ。そうしたかったのでしょ。あなたが そういうことにしたのよ。だって そうでしょう。なにをそんなに。 したをむいて、おちばをけってみたって、なによ それ。いいかげんにしてよ。 春が きたようで、まだ風は つめたいから。ひんやりと、心をひやすから。でも、ひやされながらも、あったかい気がするでしょう。あったかくなるでしょう。ちょっとくらいは、あったかいのが わかるでしょう。わかりなさいよ。感じとりなさいよ。 あなたは そういう人なの。その程度で、その程度だから、その程度でも、べつに かまやしないし、全然よくないのよ。おどけてみたって いっしょよ。ごまかせない。 うわべをとりつくろったって、なにが どうして どうなのよ。意味が わからないわ。 たとえば わたしが、そういったとして。 たとえば わたしが、そういわれたとして。 納得できるは

    いまから映画『自虐の詩』をみようか、どうしようか。みることにしよう。 - hituziのブログ 無料体験コース
  • へんたいのリレー - (元)登校拒否系

    きみは ないている ぼくは わらっている きみは いかっている ぼくは わくわくしている へんたい そういわれて ぼくは ないた よわむし そういわれて ぼくは たおれた なまけもの そういわれて ぼくは たまりかねて さけんだ へんたいじゃない! よわむしじゃない! なまけものじゃない! ゆるしてくれるひとが いた ゆるしてくれないひとも いた ぼくは まえにすすもうと おもった こわいとも おもった にげだしたいとおもった にげる さきなんて ないのにね けれども ゆるしてくれたひとたちが やってきて ぼくの てを とってくれた そうして、ぼくはたちあがったんだ そうして、ぼくのなみだが かれた そうして、ぼくは さいごの おえつを ひびかせた そのいっしゅんの せいじゃくに そのいっしゅんの いっしゅんの いっしゅんの いっしゅんに ぼくは こえをきいた さけびをきいた なみだをみた

    へんたいのリレー - (元)登校拒否系
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/21
    だいすき。
  • 芸術の価値 - ectの日記

    音楽家が、CDを売って一億稼げるのが当たり前だというのなら、同じように自然界から情報を切り取る画家も同じだけの報酬を与えられるべきだ。報酬が与えられるどころか、評価されずに死んでいった画家もいる。その画家たちには才能はなかったのか。 均一な価格による評価とは、才能によるものではなく、商業的センスによるものでしかない。そんなシステムで正当な報酬なんてありえない。つまり芸術という主観的価値があるものに対して、CDなどの均一の価格という客観的価値で評価しようとすることが、そもそも間違いなのだ。

    芸術の価値 - ectの日記
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/21
    すばらしい。"均一な価格による評価とは、才能によるものではなく、商業的センスによるものでしかない。そんなシステムで正当な報酬なんてありえない。"
  • 社会が評価する芸術 - ectの日記

    著作権法というのは、芸術に無理やり「客観的価値があること」を押し付けているに等しい。芸術には主観的価値しかないのに、すべてに「平等」に権利を与えるのはおかしいのです。なぜなら、平等に権利を与えるということは、「全ての芸術(情報)に普遍的価値がある」と社会が言っているのに等しいからです。 芸術に普遍的価値なんてないです。芸術なんて受け手である個人が勝手に見て、勝手に主観的に評価すればいいのです。(勝手に評価するには、芸術がフリーでなければいけない) その主観的な評価だけが真実なのです。

    社会が評価する芸術 - ectの日記
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/21
    すばらしい。"芸術に普遍的価値なんてないです。芸術なんて受け手である個人が勝手に見て、勝手に主観的に評価すればいいのです。(勝手に評価するには、芸術がフリーでなければいけない)"
  • ほんとのことは、うそをつく - hituziのブログ 無料体験コース

    すべてが、うらがえる。どんなものでも、ひっくりかえる。 ちょっと そこの あなた。「さみしい」って いってごらんなさい。どう、いってみた? かんがえてみた? で、どうなのよ。じっさいのところ。ほんとに そうだと感じる? それとも、そうでもないかなって おもう? どっちでも あるかな? べつに なんでもいいのよ。「最近つかれた」とか、「毎日が たのしい」とか、「なにかが ちがう」とか、どんなことでもいい。なにかを感じてみて、ことばにしてみて、ふりかえってみてくださいな。どれだけ ほんとのことであっても、しっくりこない部分も のこるはずよ。そうでも ないなって ところが あるはずなのよ。そこまででもないよとか、あるいは、さっき ごはん たべたら そうでもなくなったとか。 どんなに ほんとのことでも、「ほんとの意味で」そっくりそのまま「ほんとのこと」なんかじゃないのよ。なにをいっても、うそをふく

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  • 人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。 - hituziのブログ 無料体験コース

    人間は、「なるもの」とか、「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。 だから たまには人間をしないときが あったって いいし、ネコをやってみたって いいんだ。にゃああああああ。ぐーぐー。 きょうは、こういう人間をする。こんなときには、こんな人間をしてしまう。今度は、あんな人間をしてみよう。そんなかんじだ。 人間になるだって? まだ人間になれずにいる状態にいる だれかが いて、そのひとが人間になる条件をみたすことによって人間であると認定するのですか? 人間であるだって? ところでさ、植物人間ってのは、人間とは べつのカテゴリーとしての「植物人間」なの? それとも、「植物状態にある人間」ということなの? 宇宙人って いうけど、あれも なにをもって宇宙人は「ひと」だというの? その根拠となるのは、脳みそ? すがたかたち? 言語? 文明? 宇宙動物とはいわずに、宇宙人というのは、地球以外の

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  • わたしたちは、いつでも どこでも芸術家。 - hituziのブログじゃがー

    たとえば、わたしは詩人。 それなら、わたしの文章を よむ。そんな あなたは 演奏家。 なにを しようと、なにを かんがえようと、わたしたちは。いつでも どこでも芸術家。ここも あそこも舞台です。すべて、エンターテイメント。そして すべてが ドラマなの。 だから、さあ。たまには、芸術家としての こころがまえを。 わたしたちは、いつでも どこでも芸術家。なにを かたろうとも、なにを うたおうとも。 さあ!! 芸術家は、他人を 尊重しても、だれかを 尊敬したりは しないものよ。 かんたんに 自分を 他人に ゆだねたりは しないものよ。 あたしを だいてなんて、芸術家の せりふじゃないわ。 芸術家は 「いいとこどり」。 芸術家は エゴイスト。 他人は、みんな あたしが たのしむためだけに存在するの。 わたしたちが ここにいるのは、たすけあい、わかちあうため。 だって、ひとりずもうじゃ たのしくない

    わたしたちは、いつでも どこでも芸術家。 - hituziのブログじゃがー
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/21
    芸術家としての こころがまえ。/わたしなりの「不良少年とキリスト」(坂口安吾 さかぐち・あんご)http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html
  • 自己犠牲よりはエゴイズムを - hituziのブログ 無料体験コース

    『めぐりあう時間たち』という映画をみた(リンク先は公式サイト。注意:フラッシュと音楽あり)。 これを「ぼんやりとした不安」というのだろうか。くらい かげがさした かなしみ。そんな感情にとらわれたとき、ひとは なにかをみうしなう。問題なのは、みうしなったあとに、なにをみいだすのか、ということではないか。 映画全体についての感想は かかない。エゴイズムについて かきたい。ただ、ひとことで いえば すきな映画だ。 納得できない生活に けりをつけるのか、あるいは、納得できない気もちをおさえて、おしだまっていきていくのか。選択。えらぶ自由。「わたし」は自由であるのだ。 ここ数十年のうちに離婚率が たかまっているという。あるひとは、家庭の崩壊であり、ゆゆしきことだという。身勝手だという。のこされた配偶者が、こどもが、かわいそうだという。 自分のすべてをささげるほどに「いとおしい だれか」というものが、

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  • スポットライトは かげを つくる。 - hituziのブログじゃがー

    スポットライトは かげを つくる。なにかを することは、そのほかの なにかを しないことだ。 わたしは だれ? ただ、いま そのとき、していることが ある。それが わたしで、それが あなただ。 自分を 規定することで、ぶれはじめ、ぶれることで、自分を つくりなおす。 坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「人生はつくるものだ」と いった。 ただ ないているのも わたしだ。わらっているのも わたしだ。どなっているのも わたしだ。だまっているのも わたしだ。ただ、わたしは、なにかを する。そのとき そのとき、わたしの すがたが ある。その どれか ひとつを、「ほんとうの わたし」などということはできない。すべてが わたしであるに きまっているではないか。 hituziのブログ 無料体験コース - 「ほんとうの わたし」より。 「あなたって こうですね」といわれると、「そんなんじゃないのに」と、いわれ

    スポットライトは かげを つくる。 - hituziのブログじゃがー
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/21
    あたりまえすぎるなあ。まあ、いいや。/わたしなりの「私は誰?」(坂口安吾 さかぐち・あんご)
  • 「こどもあつかい」について - hituziのブログ 無料体験コース

    「こどもあつかいするな」。 こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。 けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。 おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。 おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。 でだな、「こどもあつかいされている」と どのよう

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  • 年齢差別からの解放? - hituziのブログ 無料体験コース

    上下関係による支配と服従。わたしたちは、不平等な社会をいきている。 年齢差別、年功序列、パターナリズム。「コドモはオトナのいうことをきいてれば いいのよ」。なぜ? その根拠は? 競争だの、せりあいだの、あんまり すきではないが、だれしも だれかと「勝負する」局面に たたされることがある。そこで、年齢という、固定的なもの、個々人が どうあがいても どうにもならないことを武器にされるのは、どうも苦手だ。年齢差別に「いわれある」「ごもっとも」な面も あるだろうか。 それまで いきてきたということ。なるほど、年齢をかさねるということも、努力の結晶であって、評価されるべきことではある。しかしながら、「あんたは年下なんだから」というような話は、むしろ「なにをかんがえて年齢をかさねてきたんですか?」と内心おもってしまう。分別のたりない「コドモジミタ」発想に違和感をおぼえるのだ。 コドモジミタ? はい、「

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