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ブックマーク / imaki.hatenadiary.jp (7)

  • 「Kanon的問題」リンク集 - 八月の残りの日

    たぶん9割方は『Kanon』とは関係ない。ゲーデルとゲーデル的問題くらい。 たまにリンク切れがありますが、ウェブアーカイブに突っ込めばなんとかなることもあります。ならないこともあるけれど。 ついき。 ちなみに、論争と呼べるほどの流れがあるのは(僕が追えたのは、或は捏造できたのは)2005年までです。以降は拡散と再演の観察。「Kanon問題」とは何か、と誰も決定的なことが言えないがゆえに誰にも使える便利なツールと化した、という所見を述べておくとします。 とりあえず、 http://d.hatena.ne.jp/imaki/20051119#p1 「みんな助かる」のはもちろんKanonとは別の物語ですが、「誰かが犠牲になる」のもまたKanonとは異なる別の物語です。 最初に読むならこのへんがおすすめ。 http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061024 それ以前

    「Kanon的問題」リンク集 - 八月の残りの日
  • 『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』 - 八月の残りの日

    唐突さが足りない。いいかえれば彼女たちの不器用さが。あるいは言葉の届かなさが。随分と器用に口が回るし、人の話を聞いている。いやこいつらもっと、わけのわかんないこと口走っちゃったり人の話聞かなかったりしただろ。それに、もっと余裕なくて、切羽詰まった感じでさ。なんでこんなに誰にでも意味が通るような言語化、ができてんの。 言葉は届かない。あるいは届いても通じない。話してもきっと意味がない。ただの甘ったれた子だ、なんて言われてるうちはきっと無理。話してみなければ、言葉にしなければわからないことがきっとある、けれど、自分の気持ちだってうまく言葉にできない。ただわけもわからず、相手のことが気になって仕方ない。それこそがTV版「1st」ではなかったのか。 彼女たちはもっとこう、言いたいことがあるんだけどうまく言葉にならない、あるいは心中語や独語にとどまり相手の耳には届かない、時にきちんと順序立てて話せる

    『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』 - 八月の残りの日
  • 2009-11-17

    禁書19巻を読むにつけ、それは確かに法の書だけどラブレーにも言及しろよ、と思う今木ですこんばんわ。むしろいちいち法の書とか書くな。かまちーの付け焼刃感は異常。マスターテリオンとか言いつつクロウリーのクの字も出さないとか、そういうのがいいんじゃないか。エイワスとかいってんじゃねえ。てか俺の一通さんをよくも。 うむ、這いよりたまえ。存分に這いよるがよいぞ。と思ったが篇にクローリングする描写なんてあったっけ。ああ、アレか。夜這い。 ところでニャル様といえば「這い寄る混沌」であり間違っても「這いよる混沌」などとは表記されないのだが何故に「這いよれ」であって「這い寄れ」ではないのか、ということが気になって仕方がない。 あるいは、クローリングケイオスとはつまりろくに志向性なぞもたない「這い回る混沌」ないし「這う混沌」と訳す方が自然に思えるのだが、ハイヨルコントン、の語呂の良さは何者にも替え難い。 「

    2009-11-17
    homiya
    homiya 2009/11/19
  • 2009-07-21

    せっかくなのでお蔵出し。発売当時に書いた感想↓ 桂英澄の「箱根の太宰治」(『太宰治研究』1、昭三十七・十)によれば、昭和十七年夏、桂が太宰を訪れた折に聞いたことばとして、次の一文が草されている。 〈芭蕉は、わび、さび、しおりといっただろ。最後に、「軽み」ということをいったんだ。新しい芸術の進む方向は、この軽みだよ。剣道でいうと、りきまずにぽんときれいにお籠手をとる。あの感覚だね。苦悩が下に沈んで、澄んでるんだ。僕は音楽のことはよくわからないが音楽でいえば、モツァルトじゃないかな。〉. 柳生宗矩は「居着き」を「病」と名づけた。その『兵法家伝書』にはこう書かれている。 「病気の事。 かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習ひのたけを出さんと一筋おもふも病。かからんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋におもひかたまりたるも病也。何事も心のひと

    2009-07-21
  • 杉井光『さくらファミリア!』3巻 - 八月の残りの日

    神様でさえ理性には束縛される、とブラウン神父はいった。より正確には、地上においてただ教会のみが、神そのひとでさえ理性に束縛されるのだと主張しうる、と(ブラウン神父の童心)。君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね? 教会に決まってるじゃん。さて理性とはロゴスでありことばである。はじめにことばありき、のアレね。神が何者であろうと言には力と権威が宿る。でなければ「聖痕」の発動はありえない、というのはさておき。 神より金が強いとは言わない。だが、父なる神でさえ契約には束縛される。 そんなわけでこいつは正しくキリスト教的コメディである。しかも家族である。つまりホームコメディ。したがって登場人物(天使も悪魔も父なる神そのひとも)が親しみやすく欠点を備えたダメ人間揃いである、というのはまったく当然なのである。 べつのいいかたをしよう。二千年前の約束も、天と地をつなぐ契約の力も、愛も、贖いの子

    杉井光『さくらファミリア!』3巻 - 八月の残りの日
    homiya
    homiya 2009/07/28
    どっかにあると思っていたが見つけた。ラストの「契約」とか詳しく無いんで誰かがまとめてくれないかと思っていたが/キリスト教的コメディ、と
  • 冬樹忍『たま◇なま 〜キミは、何故生きている〜』 - 八月の残りの日

    最終巻。どうかお幸せに、という以外に言うべきことはないように思う。あるいは、僕は素晴らしいラノベを読んだ、と友人たちに伝えてください。 わたしはおまえに人間にしてもらった、だから感謝している、とあの鉱物娘がいう。数万年を生きる恒久を、ちっぽけな少女に。無限の叡智を、ありふれた、他者への不安に。世界征服の野望を、ただの恋に。 第一巻を読んだとき連想したのは『ベルリン・天使の詩』である。つまり色々あって「生きる」ことをやめてしまった少年と、未だ生きることを始めていない少女(という二種の天使的存在)が出会う、これはそんなボーイミーツガールだった。当然オチは、天使をやめて人間になる、ということになる。結婚式には呼んでくれ。 ところで内田樹は「邪悪なもの」について語っている。《……私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性

    冬樹忍『たま◇なま 〜キミは、何故生きている〜』 - 八月の残りの日
  • うえお久光『紫色のクオリア』 - 八月の残りの日

    とりあえずメモ。 ありえないことに、ヒジョウに真面目(と書いてハードボイルドと読む)。いや「ラブレターズ」があったか。しかし俺らのうえお久光の美質は、あのジャストボイルドな感じではなかったか。別に作風を固定すべきだとは言わないが。その意味で「×法××」のくだりはよかった。というかうえお久光の諸作のなかでとくに傑出しているわけではないよね。ぼくは『魔法カメラ』がいちばん面白いと思うけどさ。ジャンルの枠だの何だのという話なら尚更。俺らのうえお久光なら、SFというジャンルをまるで信用してない作品が書けたはずなのに、なんで「SFだ」なんて賞められるようなのを書くかな。面白いからいいけど。 一章。玩具修理者っつうより直死の魔眼かしら。そのように認識するからこそ対象をそのように処理できる。犯人との対決なんて、まんま「教えてやる。これが、モノを殺すっていうことだ」じゃん。 たまに言いたいのだが、クオリア

    うえお久光『紫色のクオリア』 - 八月の残りの日
    homiya
    homiya 2009/07/28
    そういや直死の魔眼だね。/ガクちゃんが毬井に向ける想いの源・蓄積をどこに求めるかといえば、その魔術的儀式という体裁をとった過程そのものであって、中盤の描写そのものがそれを担保している、みたいな。
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