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2008年11月11日のブックマーク (14件)

  • メーリケ「旅の日のモーツァルト」 - 両世界日誌

    モーツァルトを聴かないまま、モーツァルト・イヤーも半分近くすぎてしまった。どうもこの先、事態が好転しそうもないけれども、シュタイナー=プラークが挿絵を描いたというメーリケのを手に入れたので、これを読んでみた。といっても、当該挿絵ではなくて、古い岩波文庫だが(石川錬次訳)。 これは奇妙な小説だ。筋らしい筋もなく、たいした事件が起るわけでもないが、全体がモーツァルトの音楽を聴くように読めてしまい、なおかつふしぎにノスタルジックな読後感が残る。短い分量のなかに、モーツァルトのひととなりがみごとに浮き彫りになって示されている。全体にロココ的な幸福感が支配的だが、もうひとつの主調音たる「死」が末尾にいたってその不吉な影をじわじわと押し広げていくあたり、結構もじつにうまくできていると思わざるをえない。 マラルメの「エドガー・ポオの墓」に、「この奇妙な声においては死が勝利を占めていたことに気づかなか

    メーリケ「旅の日のモーツァルト」 - 両世界日誌
  • 「聖フランシスコ・デ・サビエル書簡抄」 - 両世界日誌

    上巻読了(アルーペ神父、井上郁二訳、岩波文庫)。和辻哲郎の「鎖国」からパジェスのをへて、同系列のの三つめだ。途中、いろいろ寄り道はしているけれども、いちおう今年の筋はキリスト教関連のことになるだろうという予感がある。といっても、べつに殊勝な発心をおこしたわけではない。ただ、いままで縁遠かった宗教というものが少しだけ身近なものに感じられるようになってきたというだけのことだ。 さて書だが、前のパジェスのと並んで、自分の生涯のベストになりそうな気がする。まず「緒論」がすばらしい。サビエルといえば、だれでも名前くらいは知っているが、さて彼がどんな人物だったかを知る人は意外に少ないのではないか。多くの宗教者と同じく、彼にも回心があった。イグナチオ・デ・ロヨラとの出会いである。その間の経緯が、この「緒論」にくわしく書かれている。 「緒論」だけでも読み物としてじゅうぶんにおもしろいが、これを読

    「聖フランシスコ・デ・サビエル書簡抄」 - 両世界日誌
  • 「三つのゴシック小説」 - 両世界日誌

    この前コメント欄にちょっと書いたペンギン・ブックスの「三つのゴシック小説」を手に入れる。この手のペーパーバックは体よりも送料のほうがずっと高い。損をしたような気がしないでもないが、所収の「オトラント城」は未読だし、なによりもマリオ・プラーツが序文を書いているので、思いきって買ってしまった。 イギリスから来る古には独特の匂いがある。つんと鼻をつくような、なんとなく化粧品くさい匂いだ。私はなぜかこの匂いが好きで、に顔をうずめるようにして嗅いでみる。そうしていると、わずか十日ばかり滞在しただけのロンドンのことが鮮明に思い出されてくる。誇張のようだがほんとうの話だ。匂いにはそれほどつよく記憶を喚起するなにかがある。 さて、このには三つのゴシック小説、すなわちウォルポールの「オトラント城」、ベックフォードの「ヴァテック」、シェリー夫人の「フランケンシュタイン」が収められている。プラーツはこれ

    「三つのゴシック小説」 - 両世界日誌
    inmymemory
    inmymemory 2008/11/11
    ウォルポール「オトラント城」、ベックフォード「ヴァテック」、シェリー夫人「フランケンシュタイン」。マリオ・プラーツは「ゴシック小説の三幅対(トリプチック)」と呼ぶ。平井呈一のそれと合致している
  • マゾッホ「聖母」 - 両世界日誌

    マゾッホの「聖母」(藤川芳朗訳、中央公論新社)読了。 訳者はこののあとがきに、「この作品は、いわゆるマゾヒズムとは無縁の作といってよいであろう」と書いているが、私の見るところ、これはマゾヒズム文学以外の何ものでもない。男が女王様に鞭打たれて屈辱と歓喜とにむせぶ話ばかりがマゾヒズム小説ではないと思うからだ。最悪の事態をはるかに遠望しつつ、それを積極的に回避するわけでもなく、むしろ周囲の状況に押し流されるままに、その最悪の事態へじりじりと巻き込まれてゆき、しかもそのような自己放棄に一種の満足と安心とをおぼえるような心性、それこそがマゾヒズムではないだろうか。 そして、このような一連の心理に触媒のような作用を及ぼすのが「嫉妬」だ。この小説では「鞭」にかわるものとして、「嫉妬」が大きくクローズアップされている。ディドロが「嫉妬深い男は陰気だ──暴君のようにね」といっているが、じっさいこの小説には

    マゾッホ「聖母」 - 両世界日誌
  • マゾッホ「魂を漁る女」 - 両世界日誌

    「聖母」につづくマゾッホの第二弾(藤川芳朗訳、中公文庫)。基的な構図は「聖母」と同じだが、作品の規模といい、内容といい、いちじるしくスケールアップされている。それに応じるかのように、藤川氏の訳文も一段と立ちまさってみえる。ほとんど文句のつけようのない出来だ。これはもう参りましたというしかない。 前にボロヴズィックに関連して、根底に暴力と背徳と官能とをひそめないようなものには真に感動しない、というようなことを書いたが、この小説ではこれら三つの要素が根底にひそむどころか、ほとんど身も蓋もない状態で全面的に展開されている。さらに背後には「聖性」があたかも十字架のように屹立しているのだからたまらない。 この小説が「聖母」と比べてすぐれている点のひとつに、登場人物が生きて動いていることがあげられる。これはロマンとしては非常に重要なことだ。主人公のドラゴミラだって、たんに組織に操られるだけの、血も涙

    マゾッホ「魂を漁る女」 - 両世界日誌
  • 今日の1冊 「金閣寺」三島由紀夫 - finalventの日記

    木村政雄さんの私の1冊「金閣寺」三島由紀夫 | NHK 私の1冊 日の100冊 木村政雄については名前くらいしかしらない。 ⇒木村政雄 - Wikipedia 今回は、ようするに、100冊のうち1冊は三島を出さなくてならないだろうということで、どう直球的にクセ弾を出すかという揚げ句の出来だったのでないだろうか。辛うじて合格ラインというか、三島の問題を際どく逃げたという印象だった。 木村政雄が三島を読めているかについては言うに野暮に思えるし、実際語るところを聞けば、あの時代の、つまり団塊世代の述懐という以上はない。 三島由紀夫については、私はまだ大きな課題を果たしていない部分があるが、ざっくりいうと、昭和という時代の特殊な心の傷ではあってもそれほどたいした文学者ではないなと思うようになった。こういうと、変な弾が飛んでくるかもしれないが、文章がうまくない。一種の美文というか、表面的にはきれい

  • 英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場

    英語の圧倒的一人勝ちで、日語は衰退してしまうから、国語を守るために、国語の時授業時間を増やし、近代日文学を読み継がせるのに主眼を置くべき」 と主張する「日語が亡びるとき」というを、梅田望夫氏と小飼弾氏が絶賛しているが、こので主張されているのは、 日文化を守るために個々人の人生を犠牲にする、愚劣な教育政策だ。 日語が亡びるとき―英語の世紀の中で 作者: 水村美苗出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/11/05メディア: 単行購入: 169人 クリック: 12,657回この商品を含むブログ (459件) を見る 今後、世界中の、あらゆる価値ある知識は英語で生産され、英語で流通する。 インターネットの普及が、その流れをますます加速している。 世界中の知的にパワフルな人々は、ますます母国語よりも英語で読み、英語で書き、 英語で議論しながら、価値ある学術的成果・文化・商品

    英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場
  • 水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

    私、餡子のためなら逆立ちだってしますよ。 こじらせている。 べたいと思ったらべたいのである。 ここが北カリフォルニアの片田舎であろうと、私があんみつがべたいと思えば、あんみつは今すぐ作ってべなくてはいけないものになる。いしん坊の思考は凄まじい。 子供が観ていたアニメで、赤ちゃんが空の…

    水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
    inmymemory
    inmymemory 2008/11/11
    追記は更にすごいことに→http://d.hatena.ne.jp/solar/20081112#p1
  • 「日本語が亡びるとき」を読んで(8) - 考えたヒント - 駒田明彦

    吉田健一の評論に「文学が文学でなくなる時」というものがある。 いや、「日語が亡びるとき」をはじめて目にしたとき、なんだか見覚えのある題名だなと思ったのだ。それがしばらくたってからよくよく考えてみたら、うーむこれじゃないかなと思えてきた。たぶんこれであろう、とあたりをつけてみたのだ。邪推と言われそうだけれど。 「文学が文学でなくなる時」とはなにか。要は文学を「真面目に」人に教えるようになったとき、それが「文学が文学でなくなる時」だというのが吉田の意図だったと覚えている。 (わたしの偏見が入った)説明をすると、じっさい英国で文学科が大学に置かれたのは19世紀になってからで、そもそも文学という呼び方じたい、あとから付けてみたものだった。というか、日では「昔は文学のことをただ文と言った」と吉田は言う。英国で文にあたるものはそれまで「クラシックス」などと呼ばれ、英国の寄宿学校や大学で、男子学生に

    「日本語が亡びるとき」を読んで(8) - 考えたヒント - 駒田明彦
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    オーベルジーヌ実レポ べ物の鼻塩塩(未だに通じるのかな) オーベルジーヌというカレーをご存知だろうか 都内にあるデリバリー専門のカレー屋で、 ロケ弁などで大人気の格欧風カレーが楽しめるらしい いいな〜 いいな〜オブザイヤー 都内の奴らはこんな良いモンってんのか 許せねえよ………

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    inmymemory
    inmymemory 2008/11/11
    柳田國男とかを読んだ方がいいよなあとは思った←まったくもって
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    台北市立動物園と迪化街めぐり 子連れ台湾#5 年越し台湾旅行5日目、レジャーや友人との事を楽しむ日です。前日の様子はこちら www.oukakreuz.com 台北市立動物園へ パンダ館 パンダが見られるレストラン 迪化街へ 林茂森茶行でお茶を購入 小花園で刺繍グッズを購入 黒武士特色老火鍋で夕 台北市立動物園へ 松…

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  • 水村美苗「日本語が亡びるとき」 - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)

    水村美苗は、フランス文学が専門の学者なのに、文体を真似て書いた「続明暗」は、素人目にはどうも見ても夏目漱石人が書いたとしか思えないすばらしい出来栄えで、私は強い衝撃を受けたことを覚えている。イェール大学大学院仏文科博士課程修了の経歴から推測すれば、英語とフランス語にはきわめて堪能であると考えられる。彼女の言語センスからすれば、おそらくはネイティブスピーカー以上の実力があるだろう。 その水村美苗が新作のエッセイを出版した。題名は「日語が亡びるとき」。 私は、ベトナムにいるからまだ読んでいないが、梅田望夫が手放しで絶賛している。 水村美苗「日語が亡びるとき」は、すべての日人がいま読むべきだと思う。 一言だけいえば、これから私たちは「英語の世紀」を生きる。ビジネス上英語が必要だからとかそういうレベルの話ではない。英語がかつてのラテン語のように、「書き言葉」として人類の叡智を集積・蓄積し

    水村美苗「日本語が亡びるとき」 - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)
  • 水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって

    やはり水村美苗の「日語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。 さて、「日語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう。 新潮 2008年 09月号 [雑誌] 新潮社 2008-08-07 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメ

    水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって
  • 技術者としての「日本語が亡びるとき」 - stanaka's blog

    語が亡びるとき を読みました。普段は、あまり書評らしいものは書かないのですが、いろいろ確信が得られたので、熱が逃げない内に記します。 日語が亡びるとき―英語の世紀の中で 作者: 水村美苗出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/11/05メディア: 単行購入: 169人 クリック: 12,641回この商品を含むブログ (456件) を見る こので論じられている「日語はこのままだと亡びる可能性がある」ということは、僕にとっては、若干背を向けたかった現実だったりします。僕は、英語が完璧にはほど遠いエンジニアの常として、なんだかんだ言って日語をベースとした活動としています。「日語が亡びる」ということは、それらの活動が将来的に無になってしまうことと、ほぼ同義です。 技術、特に情報科学・技術を専門としている身としては、英語が普遍語である、というのは、このに教えられるまでもなく

    技術者としての「日本語が亡びるとき」 - stanaka's blog