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poemとbookに関するinmymemoryのブックマーク (156)

  • 中村真一郎 - Wikipedia

    中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日[1] - 1997年(平成9年)12月25日)は、日小説家・文芸評論家・詩人。旧字体の「眞一郎」名義での出版もある[注釈 1]。 加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。 東京府東京市日橋区箱崎町(現:東京都中央区)にて生まれる[2][1]。幼くして母を失い、幼少期は静岡県森町の母方の祖父母の元で育った。東京開成中学校に入学し、終生の文学的盟友であった福永武彦と知り合う。中学時代に父を亡くし、篤志家の援助もあって第一高等学校に進学する[1]。高校時代に加藤周一と知り合う。高校時代のエピソードとして、加藤たちが横光利一を一高に呼んだときに横光を怒らせて、帽

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    inmymemory 2024/01/19
    ネルヴァル等の翻訳
  • 古本の時間 | 晶文社

    内堀弘著 四六判 272頁 定価:2,420円(体2,200円) 978-4-7949-6911-8 C0095 〔2013年〕 装幀 平野甲賀 数知れない古との出会いと別れ。 多くの作家やファンとの交流の歴史。 古の醍醐味と業界の仲間たちを温かい 眼差しで描く、珠玉の古エッセイ集。 振り返ってみると、東京の郊外で詩歌専門の古書店を開いたのは三十年以上も前のことになる。最近は若い人たちから「古屋になりたい」。こんな相談がもちこまれるようになった。自分の年齢を感じるようになり、同時に、店にたどり着いた古の数々、落札できなかった多くの古の顔も浮かんでくる。テラヤマを買った日。山口昌男と歩いた神保町の夜。夭折の詩人・塩寺はるよの足跡を追った日々……。そして、やさしかった同業者の死を悼む夜が少し多くなっている。 伝説の古屋「石神井書林」の日録、第2弾!! 〈書評掲載〉 図書新聞 2

    古本の時間 | 晶文社
  • 土曜美術社出版販売 - Wikipedia

    土曜美術社出版販売株式会社(どようびじゅつしゃしゅっぱんはんばい)は、詩を主に扱う日の出版社。 概要[編集] 日全国の詩人が執筆する著名な詩の総合月刊誌『詩と思想』を主軸に、日現代詩文庫、新・日現代詩文庫などの日全国の詩人の詩業を集成した文庫、詩論・エッセー文庫、新・詩論・エッセー文庫や、世界現代詩文庫、新世界現代詩文庫など海外の詩人の詩業を集成した翻訳詩の文庫を刊行。また気鋭の詩人や新人による詩集の叢書でも知られる。 「詩と思想」新人賞による新人の発掘も行い、詩人の研鑽・交流の場として「詩と思想」研究会を開催している。 かつては「活動家集団思想運動」機関誌『社会評論』の版元でもあった。 主な刊行[編集] 雑誌[編集] 『詩と思想』‐全国の詩人による詩の総合月刊誌。 書籍[編集] 日現代詩文庫‐全国の詩人たちの詩業を集大成した文庫。 新・日現代詩文庫 詩論・エッセー文庫‐全国

  • ジェイムス・クリュス - Wikipedia

    この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。 出典検索?: "ジェイムス・クリュス" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年12月) ジェイムス・クリュス(James Krüss, 1926年5月31日 - 1997年8月2日)は、ドイツの児童文学作家。 来歴[編集] 1926年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ヘルゴラント島に生まれる。父は電気屋、母はロブスター漁師の娘。軍港だったヘルゴラント島は空襲の標的となったために、ドイツ土に移住。 1956年に処女作『ロブスター岩礁の燈台』が出版され、好評をもって迎えられる。1962年には四作目の作品で、代表作となる『笑いを売った少年』を

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    inmymemory 2021/04/11
    代表作『笑いを売った少年』。 1968年国際アンデルセン賞。エーリッヒ・ケストナー、ミヒャエル・エンデとともにドイツ3大児童文学作家。「クリュス詩集(講談社)」の翻訳により植田敏郎が1973年日本翻訳文化賞受賞
  • :G・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』 - 古本ときどき音楽

    /// G・ルネ・ホッケ種村季弘訳『文学におけるマニエリスムⅠ―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』(現代思潮社 1971年) G・ルネ・ホッケ種村季弘訳『文学におけるマニエリスムⅡ―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』(現代思潮社 1977年) この2冊も学生時分に買って、大切に置いておいた。当時、自分の関心に沿えばどうしても読まないといけないで、とても読みたいのに、それが強すぎて、何となく敬遠してしまうというが何冊かありました。少しページをめくって見て難しそうなので、このが理解できないのではという恐怖心が先に立って読めなかったというのが当のところです。いま読んでみると、たしかに分かりにくい。 このを難しくしているのにいろいろありますが、一つの原因は、〈〉や−の符号が至る所にちりばめられていて、見た目にもページがごてごてしてその意味が判然としないところです。あちこち見まし

    :G・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』 - 古本ときどき音楽
  • ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム - Wikipedia

    20歳のヘイデンスタム ユーハン・クラウセン(英語版)によって描かれたヘイデンスタム(1931年) ヘイデンスタムの墓 カール・グスタフ・ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム[注釈 1](スウェーデン語:Carl Gustaf Verner von Heidenstam、1859年7月6日 - 1940年5月20日)は、スウェーデン・エレブルー県オルシャマル(英語版)出身の作家、詩人、小説家。 1912年からはスウェーデン・アカデミーの会員に選出され、1916年にセルマ・ラーゲルレーヴに次いでスウェーデン人二人目となるノーベル文学賞を受賞したとして知られる[注釈 2][注釈 3]。また、ヘイデンスタムが母国スウェーデンを謳った詩『スウェーデン (詩)(スウェーデン語版)』は同国の作曲家ヴィルヘルム・ステーンハンマルが曲をつけてスウェーデンの第二国歌の歌詞として使用されている[1]。 ヘイデン

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  • ヘルマン・ヘッセ - Wikipedia

    ヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日)は、ドイツ生まれのスイスの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。 南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多い。また、ヘッセは風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。 生涯[編集] 1877年にドイツ南部ヴュルテンベルク王国のカルフに生まれる。 ヘッセ家は、エストニアのバルト・ドイツ人の家系である。ヘッセの父親は、その名をカール・オットー・ヨハネスといい、スイス・バーゼルの宣教師であった。カールは、ヘッセの祖父カール・ヘルマン・ヘッセと祖母イェニー・ラスとの間に生まれた五男であった。そして、カールは、インド生ま

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  • T・S・エリオット - Wikipedia

    T・S・エリオット(トーマス・スターンズ・エリオット 英: Thomas Stearns Eliot、1888年9月26日 - 1965年1月4日)は、アメリカ合衆国出身のイギリスの詩人・文芸批評家。 5部からなる長詩『荒地』や詩劇『寺院の殺人』によって20世紀前半の英語圏で最も重要な詩人の1人と評されるほか[1][2]、創作における歴史的伝統の意味を論じた「伝統と個人の才能」[3]などの評論で批評家・保守派文人として欧米の文壇・言論に巨大な影響を残した[4]。1948年、ノーベル文学賞受賞。反ユダヤ主義者で知られた[5]。 生涯[編集] 1888年、アメリカのミズーリ州セントルイスで富裕な実業家の家に第7子として生まれる[2]。エリオット家は17世紀にイギリスのサマセット州から移住してきた家系で、祖父が牧師として赴任してきて以来、教会の建設や大学創設への貢献によってセントルイスの名家とし

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  • 【書評】沓掛良彦 著「エロスの祭司─評伝ピエール・ルイス」(文学界 2003年6月号)

    一八七〇年に生まれ、一九二五年に没したフランスの詩人・小説家ピエール・ルイス初の格的な評伝である。 表紙には、ルイス自身の撮影した写真が使われている。全裸の女がうつぶせに寝て尻だけ突き出しているところを上から撮った構図である。 見ようによっては、エレクトしたペニスにも見えるところが面白いし、書の内容を象徴してもいる。 カメラマニアのルイスは、関係した女性たちのあらゆる姿態の写真を撮り、それらは死後ポルノ写真として出回った。 文から察するに、この写真のモデルは、高踏派の大詩人エレディアの次女マリーだろう。永井荷風の愛した詩人、アンリ・ド・レニエのにして閨秀作家ジェラール・ドゥーヴィル。ルイスは、レニエとマリーを争って破れたものの、彼女と密通して一子をなし、エレディアの三女と結婚したのちも関係をつづけた。この方面は、ドミニク・ボナ『黒い瞳のエロス』(川瀬武夫・北村喜久子訳)に詳しい。

  • レミ・ド・グールモン - Wikipedia

    オルヌ県バゾッシェ=オ=ウルムにあるノルマンディーでも古くからの伯爵家に生まれる。10歳のころに家族が隣のマンシュ県に移ったために、クタンスのリセで学ぶ。そこを卒業後はカーン大学で法律を学ぶことにしたが生活に困らぬこともあって文学と女性との交際に明け暮れた[2]。 パリに出、1883年に国立図書館に勤める。1890年に『メルキュール・ド・フランス』に参加し、1891年に「玩具の愛国心」という詩を書いたため上司に嫌われて図書館解雇され[3]、隠遁生活を送る。 自宅を国立図書館に匹敵する豊かな書庫とすることを決意し、創作や文芸批評を精力的に執筆するのと並行して、日課としてセーヌ河岸の古屋を回っては書斎ばかりでなく廊下や客間まで天井に達するほどのの山を築いた。パリ六区のサン・ベルナール街71番地で57歳の生涯を閉じる。

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  • レニエよ甦れ――レニエと明治大正の作家たち - 須永朝彦の埴科便り

    歐羅巴の十九世紀末、遠い異邦の百數十年前のこととなると聊か杳(はるか)な思ひに捉はれるものの、其處に日人の姿を見かけるとき、其の景色が一擧に身近なものと觀ぜられてくる。たとへばルートヴィヒⅡ世がシュタルンベルク湖に於いて謎の死を遂げた當日、ほど遠からぬミュンヘンの酒鋪では森鴎外が杯を傾けてゐた。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』が刊行された頃、夏目漱石は倫敦に留學中であつた。十九世紀末の佛蘭西に輩出した多士濟々の作家の中で、私がまづアンリ・ド・レニエに關心を持つたのも、其處に日の詩人が介在したからであつた。 ☆君とゆくノオトル・ダムの塔ばかり薄桃色にのこる夕ぐれ これは、與謝野晶子が巴里で詠んだ歌である。已に廿世紀を迎へてゐたが、一九一一年(明治四十四年)の末、晶子は、『明星』廢刊後名聲が下降氣味であつた夫與謝野寬の再起を願つて巴里遊學に送り出すが、思慕の念抑へ難く、翌年自

    レニエよ甦れ――レニエと明治大正の作家たち - 須永朝彦の埴科便り
  • ジュール・ラフォルグ(Jules Laforgue)

    『ハムレット異聞』 translator:吉田健一(Yoshida Ken-ichi) Publisher:角川書店(Kadokawa Shoten) 1947 『地球のすすりなき -詩集』 translator:中江俊夫(Nakae Toshio) Publisher:双林プリント 限定版:1975 translator:中江俊夫(Nakae Toshio) Publisher:吟遊社 1976 translator:中江俊夫(Nakae Toshio) Publisher:沖積舎 限定版:1978/ 1 『ラフォルグ抄』 translator:吉田健一(Yoshida Ken-ichi) Publisher:小沢書店 新装版:1977/ 8 愛蔵版:1989/ 7 「最後の詩」 Derniers vers 「伝説的な道徳劇」 Moralités légendaires 「解題」 『ラフ

  • ロシア象徴主義 - Wikipedia

    ミハイル・ネステロフの絵画 「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」 (1890年) しばしばロシア象徴主義の幕開けを告げたと見なされている美術作品の1つ。 ロシア象徴主義(ロシア語: Русский символизм)とは、19世紀末から20世紀初頭のロシア帝国において支配的だった芸術運動。ヨーロッパの芸術界における象徴主義運動のロシア版であるが、その美学や思想が文学や詩に限らず、美術や音楽、舞踏にまで波及した点において、他国にはない特異性が見られる。 ロシア象徴主義運動への根的な影響は、フョードル・チュッチェフの詩やヴラディーミル・ソロヴィヨフの哲学における非合理主義(反理性主義)の美学や神秘主義であり、これらにリヒャルト・ワーグナーの楽劇や、アルトゥール・ショーペンハウアーとフリードリヒ・ニーチェの思想、フランスの象徴主義や頽廃主義の詩人たち(ステファーヌ・マラルメやポール・ヴェルレ

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  • 【ロサリオ・カステリャノス】フェミニスト文学の旗手【Doodle】 - Unread

    どうも、ジョンです! 日2016年の5月25日はロサリオ・カステリャノスの生誕91周年ですね。それを記念してGoogleのロゴがロサリオ・カステリャノス仕様に変更されましたよ! 満月と女性ですね。この女性がロサリオ・カステリャノスでしょうか?これだけじゃわからないのでロサリオ・カステリャノスについて詳しく見ていきましょう。 ロサリオ・カステリャノスってだれ? 愛された弟と愛されなかったロサリオ・カステリャノス 研究対象としてのロサリオ・カステリャノス さいごに ロサリオ・カステリャノスってだれ? ロサリオ・カステリャノスが誰かを調べるためにまずはみんな大好きWikipediaを……ってない!ロサリオ・カステリャノスの項目が日Wikipediaには存在しませんね。他のサイトで調べてみましょう。 ロサリオ・カステリャノス(Rosario Castellanos)はメキシコの女性で小説家及

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  • ホセ・エミリオ・パチェーコ - Wikipedia

    ホセ・エミリオ・パチェーコ(スペイン語: José Emilio Pacheco Berny, 1939年6月30日 – 2014年1月26日)は、メキシコ人随筆家、小説家、詩人である。 1939年、メキシコメキシコシティ生まれ。 メキシコ国立自治大学、メリーランド大学カレッジパーク校、エセックス大学の他、アメリカ・カナダ・イギリスで教員を勤めた。 受賞歴[編集] セルバンテス賞 2009年 ストルガ詩の夕べ金冠賞 2013年 主な作品[編集] 詩[編集] Los elementos de la noche El reposo del fuego La arena errante Siglo pasado No me preguntes cómo pasa el tiempo El silencio de la luna Tarde o temprano La fábula del tie

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  • ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスという女性 - まいにち、まちこち

    暇だったので、メキシコの紙幣をぢっと見ていたら、唯一、200ペソ紙幣に女性が描かれていて、とても気になりました。 美しさの中に、知性を感じさせる眼差しがすごく魅力的です。 肖像画の下の方に”JUANA DE ASBAJE"とあり、これを元に検索してみたところ、ソル・フアナと呼ばれている女性だとわかりました。 彼女は17世紀後半のメキシコの詩人であり、詩が最高の文学であった時代に、世界で最も広く愛された作家だそう。 そもそも平民生まれであった彼女は、文学の道を志すためにあえて戦略的に修道女になるという道を選んだのであって、その作風はまったく世俗的なテーマ(恋愛や抑圧的な社会への抗議など)でした。 以下簡単に、フアナの生涯を。(参考:旦敬介 訳『知への讃歌修道女フアナの手紙』) フアナの父親はスペイン人でしたが、母イサベルと正式に結婚はしておらず、実父をほとんど知ることなく育ったとされています

    ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスという女性 - まいにち、まちこち
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    inmymemory 2016/05/25
    ソル・フアナ=イネス・デ・ラ・クルス [1651−1695] メキシコの詩人、修道女。世界に版図を広げたスペイン・ハプスブルク帝国の末期、植民地に生まれた、同時代のスペイン文学最大の作家
  • さいきん読んだ本とか同人活動とか - がらくた銀河

    三島由紀夫の「詩を書く少年」に出逢ってしまったことは、ある種の「不幸」だったかもしらんなあと思いつつ。いや、今日はってるは和歌だったり詩だったり韻文なので。 まあしかし、小説書いて発表するなんてのもホント「しゅうち☆ぷれい」以外の何ものでもないと思ってるので、あんまり変わらないか、うん。 読んだはあとでぺたりとはるね、まず同人活動とか。 ひとりサークル「唐草銀河」としてのオフライン活動はすっかりお休みしちゃってるんですが、ありがたいことにお誘いをいただいて、アンソロとか合同誌とかホイホイ参加させてもらってます。 じぶんで手をあげるのって正直ちょっと不安なのでしないのですが(だって手をあげるってなんかおっかないんだもん!)、誘われたら断らないあたりがこう、わたしのコミュ障ぷりというか、自信のなさがうかがえますなw(だって、誘ってもらえた時点で世の中にひとりはわたしの小説読みたいっておもっ

    さいきん読んだ本とか同人活動とか - がらくた銀河
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    inmymemory 2016/05/03
    思った以上に嗜好が被ってます
  • 島崎藤村 - Wikipedia

    卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、1892年9月、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後は関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)に女学校へ復職したが、透谷が自殺。さらに兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没[3]。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『春』で描かれる。 1896年(明治29年)9月8日、東北学院の教師となって宮城県仙台市に1年間ほど赴任[4]。同年10月25日に母の死に直面し、当時住んでいた広瀬川を見下ろす崖上の支倉町の住居で詩作を始め、仙台駅近くの三浦屋に移って第一詩集『若菜集』を執筆、これを発表して文壇に登場した[

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  • アンナ・ド・ノアイユ - Wikipedia

    フィリップ・ド・ラースローによる肖像画(1913年、オルセー美術館所蔵) アンナ・ド・ノアイユ(Anna de Noailles)ことアンナ=エリザベート・ド・ノアイユ伯爵夫人(フランス語:La comtesse Anna-Élisabeth de Noailles、1876年11月15日 - 1933年4月30日)は、フランスの詩人、小説家。フェミナ賞の創設者、提唱者。 出生名はアンナ=エリザベート・ビベスコ・ド・ブランコヴァン(Anna-Élisabeth Bibesco de Brancovan)で、ルーマニアの貴族の血を引く家系に生まれた[2][3]。1897年にノアイユ公爵(英語版)マチュー・フェルナン・フレデリック・パスカル・ド・ノアイユと結婚してからは、アンナ=エリザベート・ド・ノアイユ伯爵夫人(通称:アンナ・ド・ノアイユ)と名乗るようになった[4][5]。 生涯[編集] 1

    アンナ・ド・ノアイユ - Wikipedia
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    inmymemory 2015/10/13
    日本でも堀辰雄の訳詩によって知られる。エミール・ガレの作品でも引用された
  • 本棚の10冊で自分を表現する<究極の選択編> - 心揺々として戸惑ひ易く

    twitterにて@Artssoyさんが発案したhashtag「#棚の10冊で自分を表現する」。 10冊のみという理由。棚のを50冊挙げると為人が相当見えてくるような気がしますが、あえて見せない部分を作るからこそ面白い。#棚の10冊で自分を表現する @Artssoy— Artssoy (@Artssoy) 2015, 9月 5 twitter.com 「あなたはどんな人なのか」の問いに答える代わりとなり得るは何か。 純粋にそれだけを条件に選り抜いた結果、次のような十冊になった(順不同)。 1.『寺山修司幻想劇集』 寺山修司幻想劇集 (平凡社ライブラリー) 作者: 寺山修司出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2005/09メディア: 単行購入: 2人 クリック: 2回この商品を含むブログ (7件) を見るテラヤマだけで10冊選べるくらいに自分を如実に表現してくれるので困った。僕の

    本棚の10冊で自分を表現する<究極の選択編> - 心揺々として戸惑ひ易く