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近現代に関するiruremeのブックマーク (25)

  • 日本の『闇の奥』 / 齋藤一(筑波大学文芸・言語学系助手)

    ★名波弘彰他編『植民地主義とアジアの表象』(筑波大学文化批評研究会、一九九九)に収録された論文の「原稿」ですので、多少表現に異動があります。しばらくご了承願います。 日の『闇の奥』 齋藤 一 (筑波大学文芸・言語学系助手) ナイジェリアの作家チヌーア・アチュベ以来様々な批判はあるにせよ、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(Joseph Conrad, 'Heart of Darkness', 1899)は優れた西欧植民地主義批判として読まれる価値はある。しかし、当たり前のことだが、『闇の奥』を西欧植民地主義批判として読むこと自体が必然的に植民地主義批判として機能するわけではない。この小説を優れた西欧植民地主義批判として賛美する植民地主義者は存在し得るからだ。『“よろしく彼等野獣共を根絶せよ”』という優れた旅行記兼植民地主義/ホロコースト批判を書いた、スウェーデンの作家スヴェン・リンドクヴィ

  • http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/GS/GS-Project/yama/mushajiken.html

  • 朝鮮人戦時動員FAQ/朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキ

    朝鮮人戦時動員FAQ 朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。 トップページページ一覧メンバー編集 トップページ 最終更新: gurugurian 2015年01月08日(木) 06:01:13履歴 Tweet 現在、インターネットではいわゆる「朝鮮人強制連行(ここでは基的には「朝鮮人戦時動員」という呼称を用います。理由についてはこちら)」に関する様々な情報(特に否定論)があふれています。しかしそこに書かれた内容は必ずしも正しいものとは限らず、内容が一面的であったり偏っていたり、あるいは間違っているものが多くあります。また「新しい教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」など、戦前の日の誤ちを否定・正当化しようとする勢力によって「強制連行はなかった」と主張する書籍も多く発行されています。このFAQではそうした否定論に反論すると同時に、この問題についてより理解を深め、広げてい

    朝鮮人戦時動員FAQ/朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキ
  • このたびのたび・霧社抗日事件・霧社事件・日本の植民地支配に対する台湾山地住民の一斉蜂起・台湾高山族の反乱

    霧社事件について・・・台湾の植民地化を進める日に対して、「先住民族・高山族」が起こした抵抗事件。現在の南投県仁愛郷(霧社)で、1930年10月27日未明、モーナルーダオ率いるタイヤル族の約300人が、管内の警察、宿舎を襲い巡査とその家族を殺害し、武器を大量に奪った。更に日人学校と台湾人公学校合同の連合運動会を襲撃、日人134名死亡、26名が重傷を負った。これに対して日は警察、軍隊を投入、掃討作戦を行った。日軍は航空機による爆弾投下、毒ガス作戦を敢行し、50余日で鎮圧した。タイヤル族は160名戦死、自殺者は140名、400名行方不明、500名が投降した。投降者は警察に拘束されたが、警察黙認のまま「味方蕃」に襲われ198名が死亡した。(第二霧社事件)あとの生き残った「保護蕃」は、全員川中島に強制移住させられ「帰順式」を行ったが、その席上で警察は38人を逮捕し、秘密裏に処刑した。こうし

  • 豊橋・田原・新城のインターネット・テレビ|[ティーズ]豊橋ケーブルネットワーク

    作業日時 2024年8月20日(火) 午後10:00~午後11:00 対象サービス その他サービス 作業日時 2024年8月21日(水)午前1:00~午前6:00 対象サービス テレビ もっと見る

    豊橋・田原・新城のインターネット・テレビ|[ティーズ]豊橋ケーブルネットワーク
  • 『敗戦後論』とポストモダニズム

    はじめに 第一章 「敗戦後論」から『敗戦後論』へ 第二章 「コム・デ・ギャルソン」論争(埴谷 vs 吉) 第三章 「われわれ」と「語り口の問題」 結論 はじめに 加藤典洋「敗戦後論」(『群像』95年1月号) 1) は、その発表直後以来、多方面からさまざまな批判にさらされた。そのなかでも高橋哲哉 2) がその批判の急先鋒といえるだろうが、それは抽象的な「正しさ」の視点からの批判(あらかじめ立てられた「正しさ」を現実に適用することで「大衆を啓蒙しようとする」批判)にすぎない。それは、事後的な「正しさ」である。その批判は加藤の貴重な問題提起に応答できず表面的なものにとどまっているように思われる。 他方しかし、その問題意識に「感応した」西谷修との対談「世界戦争のトラウマと「日人」」(『世界』95年8月号) 3) が発表されるにおよんでさらに論争は広がっていった。それは「われわれの立ち上げ」とい

  • 思想の科学研究会

    ◆創立同人 武田清子、武谷三男、都留重人、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山真男、渡辺慧 ◆思想の科学研究会・索引の会 19991015 『思想の科学総索引 1946-1996』思想の科学社 目次 はしがき 解説 ・安田常雄(1946年5月~72年3月) ・天野正子(1972年4月~81年3月) ・黒川 創(1981年4月~96年5月) 事項索引 凡例 著者索引 凡例 総目次 第1次思想の科学 No:1 1946.5.創刊号 No:2 1946.8.(1-2) No:3 1946.12.(1-3) No:4 1947.6.(1-4) 日に於ける哲学流行の研究 No:5 1947.10.(1-5) 言語 No:6 1947.11.(1-6) 言語 No:7 1948.1.(1-7) ひとびとの哲学 No:8 1948.2.(1-8) 大衆小説の研究 No:9 1948.3.(1-9) 言語 No:1

  • Years of Lead ( 鉛の時代 ) - SpiritualBolshevik

    Years of Lead ( 鉛の時代 ) 1969年といえば、前年のフランスに続いてイタリアでもアントニオ・ネグリ(Antonio Negri)の唱導するアウトノミア運動等の左翼運動が高揚し、「熱い秋」を迎えた年だった。その12月12日、ミラノのフォンタナ広場にある農業銀行で 時限爆弾が爆発し、死者17人、負傷者80数名の大惨事を引き起こした。この日ローマ他四か所でも爆発があり、事件は「同時多発テロ」だった。これがイタリアで初めての「無差別テロ」で、以後イタリアでは左右の武装組織によるテロが相次ぎ、「鉛の時代」(years of lead , it: anni di piombo)と呼ばれる重苦しい時代に入る。 この時代は1978年5月9日のモロ(Aldo Moro)元首相誘拐殺害事件で頂点を迎える。 1978年3月16日、キリスト教民主党総裁で元首相のアルド・モロがローマ北西のコルチ

    Years of Lead ( 鉛の時代 ) - SpiritualBolshevik
  • 台東区年表

    縄文時代(約9千年前〜紀元前二世紀頃)の貝塚が上野台(谷中領玄寺、鶯谷新坂等)で発見され、区内で人が住んでいたことが確認されている。低地部の下谷.浅草は海底であった。

  • 明治の読書文化

    永嶺重敏氏の『雑誌と読者の近代』(日エディタースクール出版部;1997)によると、明治期に日人の読書生活は大きく変化したといいます。新聞、雑誌といった新しいメディアの誕生や活版印刷の普及といった諸事情は、それまで「音読」が中心だった日人の読書という行為を「黙読」へ変化させました。また、貸屋に代わって図書館という新しい読書空間が誕生したのも日が近代化した明治以降のことです。 今回の展示では近代を迎えた日で「読書」がどのように変化していったのか。図書館ができるまでの大阪を中心に明治前期の読書文化について考察していきたいと考えています。 I 音読から黙読へ ●江戸時代の読書 『吉原はやり小歌そうまくり』 稀書複製会第 2期刊行書23回 (米山堂 1922) 228-10# 『吉原恋の道引』 稀書複製会第4期刊行書13回 -原は延宝6年の版- (米山堂 1925) 578-42# 江

    irureme
    irureme 2007/12/17
    参考文献
  • 南方熊楠資料研究会

    [「南方熊楠腹稿「虎」分析表」(『熊楠研究』第14号特集「腹稿の謎を探る」関連資料)を公開しました。 (2020年4月25日 更新)] [仮のお知らせ]当ウェブサイトは、『熊楠研究』第一期の終刊(2006年)とともにいったん更新を停止していました。「南方熊楠研究会」と第二期『熊楠研究』(ともに2015年より)に関する情報開示のため、2020年4月より更新再開の準備をしています。(2020年4月25日) [南方熊楠顕彰会のご案内 (2005年11月30日 更新)]

  • 京都精華大学 人文学部 Web授業公開:岩本真一の「日本文学論 II」

    真一の日文学論 II この授業は 「近代日の批評」批評とは小説の解説にすぎない、ととらえられる傾向が強い。しかし、優れた批評家は、ひとつひとつの批評の中に自らの思想を込めて単独で自立しているものである。この講義では、「近代日」を生きた批評家たちが、現実をどのようにとらえ、そこからどのような思想を築くに至ったのかを考察する。それにより、私たちが生きている時代や社会について考えていきたい。 なお,このサイトは現在旧サイトからの移行中ですので画像などが揃っていなかったりします。ご了承ください。 シラバスはこちら >> 岩真一の紹介はこちら >> ノートテイクをした学生の紹介はこちら>> 授業のレジュメとノート ■ 第一回 授業計画・ガイダンス(2001.9.20) 文学を通して「思想空間を描く」という目標を提示し,それがなかなか難しいこと,そもそも日では定着していない方法論であるこ

    irureme
    irureme 2007/10/13
    ノートとレジュメ
  • 戦時共産主義・ネップ経済政策

    irureme
    irureme 2007/05/27
    ネップ政策は「失敗で終わったロシアをBol’shevik型社会主義から西側型社会主義へ切り替える政策の試み」→海外資本の導入失敗。のちにスターリンによって非難?
  • 明治維新 - Wikipedia

    維新は詩経大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新(周は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から御一新・御維ヰッ新(ごいっしん)ともいわれた[2][9]。 周󠄀雖舊邦󠄁、其命維新 (周󠄀は舊邦󠄁と雖(いえど)も、其(そ)の命(めい)は維(これ)新(あらた)なり) (周は旧い国であるが、その天命は新しいものである) — 詩経大雅・文王[2] 幕末変革期から明治初期における「復古」「維新」「一新」の用例[編集] 「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、水戸学の思想家藤田東湖の日記『庚寅日録』天保元年(1830年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあり[10]、幕府側の公文書

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  • 第一次世界大戦下の日本 - Wikipedia

    サラエボ事件後の外交交渉を経て、ドイツ陸軍がシュリーフェン・プランに基づきベルギー領内に侵入したことを確認したイギリスは、1914年(大正3年)8月4日にドイツに宣戦布告した。 日はイギリスと同盟を結んでいたが、これには自動参戦条項は付随しておらず、また同盟の適用範囲はインドを西端としたアジア地域に限定されていた。8月1日にイギリスのエドワード・グレイ外相は駐英大使の井上勝之助に「(第一次世界大戦へ参戦する上では)日英同盟は適用されない」と伝え、3日にこの趣旨の覚書が受領された。これを受けて日政府は4日に中立を宣言した。 日の参戦をめぐるイギリス政府の対応は二転三転した。膠州湾租借地を拠地としていたドイツ東洋艦隊による通商破壊作戦の危険性に関する海軍の報告を受けたグレイ外相は、8月7日になり、「日ドイツに対する正式な宣戦布告を伴わぬままで、極東におけるドイツの仮装巡洋艦を攻撃」

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  • 第一次世界大戦 - Wikipedia

    この項目では、実際に行われた第一次世界大戦について説明しています。その他の名称については「第一次世界大戦 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この項目「第一次世界大戦」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:ドイツ語版&oldid=173272248、英語版&oldid=821659949) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2018年5月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "第一次世界大戦" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.j

    第一次世界大戦 - Wikipedia
  • 日中戦争 - Wikipedia

    この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論はノートを参照してください。(2019年4月) この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2022年8月) 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2019年4月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2022年8月)

    日中戦争 - Wikipedia
  • 第二次世界大戦 - Wikipedia

    9.1 満洲事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日の参戦までの経緯(1937年-1941年)

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  • 十五年戦争 - Wikipedia

    十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月[1])にわたる日の対外戦争、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと[2]。中国では田中上奏文が史実の公式文書として扱われているので「十四年抗戦」の呼称が使われる[3]。 概要[編集] 「十五年戦争」の呼称は、鶴見俊輔が1956年に「知識人の戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかで使用したのが最初とされ、昭和40年以降、一部で使用されるようになり[2]、1980年代に江口圭一が広めるのに大きな役割を果たした[4]。その後、昭和50年代頃からアジア・太平洋戦争の名称の使用が増加した[2]。 段階[編集] 鶴見俊輔は、1. 満洲事変:1931年9月18日 〜、2. 日中戦争:1937年7月7日 〜、3.

  • 日露戦争 - Wikipedia

    日露戦争(にちろせんそう、旧字体:日露戰爭/日魯戰爭、ロシア語: Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月[注釈 3]から1905年9月にかけて大日帝国(日)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた[7]。陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日に割譲された。また日ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するに

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