『存在と無』(ちくま学芸文庫)を読んでたら、こんなところがあった。 朝、鳴る目ざまし時計は、私の可能性たる私の仕事に、出かけていく可能性を指し示す。けれども、目ざまし時計の呼びかけを、呼びかけとしてとらえることは、起き上がることである。それゆえ、起き上がる行為そのものが安心を得させてくれる。なぜなら起き上がる行為は《仕事は私の可能性であるか?》といったような問いを免除してくれるからである。したがって、起き上がる行為は、クイエチスム(静寂主義)や、仕事の拒否や、ついには世界の拒否や、死などの可能性を、とらえる余裕を私に与えないからである。要するに、目ざまし時計の音の意味をとらえることが、その呼びかけに応じてすでに起き上がっていることであるかぎりにおいて、この把握は、目ざまし時計の音にその要求を付与するのは私でありしかもただ私だけである、という不安な直観から、私をまもってくれる。同様に、日常的