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哲学と暴力に関するishikawa-kzのブックマーク (4)

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    レヴィナスにおける哲学と宗教 --レヴィナス「神と哲学」を読む (中山 元) レヴィナスにおいて、哲学と宗教がどのような関係にあるかを考えるには、『超越と知解可能性』の他に、この「神と哲学」が重要な位置をしめている。この論文は『観念に来れる神』に収められているものだが、まだ邦訳がないので、さまざまな問題を考えながら読んでみたいと思う。 ★存在論神学批判 一九七五年に発表されたこの論文は、アリストテレスを意識した「哲学しないためには、また哲学しなければならない」という文で始まっている。哲学の必要性を再確認するこの文章は、明らかにデリダのレヴィナス批判に呼応したものである。 デリダは「暴力の形而上学」の最後近くで、「一人のギリシア人」の言葉として、この「哲学しないとしても、やはり哲学しなければならない」というアリストテレスの『形而上学』の言葉を引用して、レヴィナスの「幻想」を批判した。デリダの

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/14
    「レヴィナスは哲学という営みも、この語り直すという行為の一つであると考える」
  • glocal ethos:「虜囚」「迫害」の主体とは

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/12
    「このレヴィナスの議論は、ユダヤ・キリスト教的な、ヘブライズム系の存在や価値の専横をひっくりがえす論理があるようで、面白いと同時に、それはそれでまた限界面やトラップがありそうである。」
  • 身代わりと人質 - Arisanのノート

    『存在の彼方へ』はひととおり読み終わったのだが、気になることはたくさんあるので、もう少しメモ。 存在の彼方ヘ (講談社学術文庫) 作者: エマニュエル・レヴィナス,合田正人出版社/メーカー: 講談社発売日: 1999/07/09メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 23回この商品を含むブログ (28件) を見る 一番気になる「身代わり」という語について。 こういうことが言えるのではないか。 「身代わり」には、他人に何かを分かち与えるという意味が込められている。 レヴィナスは実際、「他人の身代わりになる」ということを、「自分の口からべかけたパンを引き離して、他人に与える」ことだ、という風にも表現している。 ここで、「分かち与える」というのは、余っている分をあげる、ということではない、ということが強調される。自分が飢えているときに、最後の一切れのパンを他人に与える、それが「身代わり」とい

    身代わりと人質 - Arisanのノート
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/12
    「「身代わり」は、自分なりに少し分かってきた気もするが、レヴィナスの言う「人質」の方は、まだピンと来ない。」
  • 「つながりを生む理由」は、「紛争の理由」だ。 - Freezing Point

    強いつながりが生まれる時には、それに適応できない人・排除される人も同時に生まれている。規範意識に照準せず、「環境管理」に照準するのはだから有益でもあるが*1、管理された場所で《つながりかた》はパターン化する。 メタ的な環境管理論でつながれる人は良くても、それができない場合は? あるいは「メタ的な環境管理論」は、それ自体として関係性のパターンになる。 「頭良く考えるとはどういうことか」のパターンが、コミュニティで暗黙に決まっていく。 孤立する人は、たいてい途方に暮れているだけだから、もう一度つながりを作ろうとした時点で、陰湿な共同体主義がすぐに復活する。(「自分だけは特別」と思い込む凡庸なナルシストが作りがちな共同体のパターンがある。「自分だけは、間違ったものに帰依していないぞ」。その思い込み自体がカルトを成している。) 私は、ひきこもる子供をもつ親御さんたちに話しかけるのに、「皆さんは社会

    「つながりを生む理由」は、「紛争の理由」だ。 - Freezing Point
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/05/26
    「メタ的な環境管理論でつながれる人は良くても、それができない場合は? あるいは「メタ的な環境管理論」は、それ自体として関係性のパターンになる」優れた指摘だと思った。
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