そのうえで、異論もあると思います、率直に書きます。(個人の意見です) 今回の一部のバッシングが、フェミニズムやジェンダーについて語ろう、学ぼうとしている男性や若者を萎縮させ、この問題から遠ざけようとしている可能性にもどうか目を向… https://t.co/Km4jcFHMaV
日本では今、経済対策として新規の補正予算を組む声が高まっている。26日には自民・公明の両党が安倍政権に経済対策の策定を求める方針を決定。では、台湾はどうか。台湾立法院(国会)は25日、600億台湾ドル(約2200億円)を上限とする経済対策の特別予算案を可決した。大きな打撃を受けている観光産業への支援などが柱になる予定だ。 そのほかにも中国へのマスク輸出禁止や厳しい渡航制限など、蔡政権が次々と打ち出す方針に当初は批判もあった。それでも、28日現在で感染者数が34人に抑えられていることから、批判は少なくなっている。台湾では、2003年に起きたSARS(重症急性呼吸器症候群)で84人の死者を出した。その時との違いも、高い評価を得ている理由だ。検査体制が異なるため単純な比較はできないが、日本の感染者数230人(クルーズ船の陽性反応者705人を除く)、韓国の2000人以上(いずれも28日現在)と比較
去る1月25日、アフガニスタンにて銃撃されて亡くなった中村哲医師のお別れ会が、福岡市の西南学院大学チャペルにて厳かに行われた。筆者も、中村医師が通った西南学院中学校の一後輩として参列した。あらためて、中村哲医師が私たちに遺したものはなんだったのかを振り返ってみたい。 午後12時40分、開場20分前の段階で私が会場に到着した頃には、すでに1000人を優に超える人が行列を作っていた。会場となっているチャペルの席はすでに満席で、モニターで同時中継される隣接の一号館の教室をフルに使ってもなお続々訪れる弔問者は入りきれず、『毎日新聞』の報道によると最終的な参列者数は5000人を超えたという。 挨拶に立ったアフガニスタン特命全権大使は、時折ハンカチを目や鼻にあて、感極まって何度も声を詰まらせながら「中村先生はアフガニスタンの偉大な友人であり英雄でした」とその死を悼んだ。その姿に、会場のあちこちではもら
2005年に開港以来、1500人以上の塾生が育ち、すでに各界で活躍している定評ある塾です。企業経営者だけでなく、あらゆる方の人生をサポートします。具体的には「実存的変容 ...
アフガニスタンで長年にわたって人道活動に取り組んできた中村哲医師が12月4日朝、アフガニスタン東部で銃撃されて死亡したことを受け、アフガニスタン国民からも中村氏を惜しむ声が上がっている。Twitter上には「#sorrynakamura」(中村さん、ごめんなさい)や「#sorryjapan」(日本、ごめんなさい)のハッシュタグをつけた投稿が相次いでいる。 中村さんは1983年、パキスタンでの医療支援をするNGO「ペシャワール会」を結成。ペシャワール会の公式サイトによると、1991年にはアフガニスタンでの活動も開始。医療支援とともに、病気の背景にある慢性的な食糧不足を解決すべく、農地回復のための灌漑(かんがい)事業などに取り組んできた。中村医師の活動はアフガニスタン国内でも高く評価され、2018年にはガニ大統領から勲章が贈られるなどした。
日本国憲法が施行されてから70年。安倍政権は、憲法改正に意欲的な姿勢を示し、国民的な議論を呼びかけています。憲法をめぐる議論のなかには、70年を経た日本国憲法はもう古いのだという意見もみられます。しかし、敗戦の残り火の中で掴みとった日本国憲法の理念は、それほど脆いものなのでしょうか。 2016年6月22日、アフガニスタンから一時帰国した中村哲さんにインタビューへ応えていただきました。中村哲さんは、今も戦乱が続くアフガニスタンで干ばつと戦う「ペシャワール会」の代表です。中村哲さんは医師として医療支援のため、1984年にアフガニスタンへ渡りました。しかし、武器や戦車ではなく農業復興こそアフガニスタンの礎となると考え、白衣を脱いで、自らブルドーザーに乗り用水路の建設に乗り出しました。 長い戦乱と干ばつのアフガニスタンに必要な支援とはなんだったのか。アフガニスタンでの支援の現場において、平和憲法の
2009年09月19日00:00 カテゴリ社会・世界情勢よもやま話 中村哲 あるいは「任侠、流行ってるんですか?」 先日、ヤクザ屋さんたちが老人施設のヘルパーになるという、荒唐無稽なテレビドラマ「任侠ヘルパー」が終わりました。エンディングクレジットの背後に流れる、格闘のスローモーション映像の美しさに驚き、「いい人キャラ」の草薙剛の鬼の形相に、いい役者だなあと惚れ惚れしました。 「ごくせん」というテレビドラマは、映画にもなりました。主演の仲間由紀恵は、非現実なほど美しいにも拘わらず、非現実な役柄をとんちんかんなテンションで演じることのできる、好きな女優さんです。ここでは、ヤクザ屋さんの娘で高校の教師という、これまたありえない設定を好演していました。 数年前には、ヤクザ屋さんが高校生になるという「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」というテレビドラマもありました。長瀬智也の漫画チックな演技が、画面から
菅原文太さん=2013年に農園で撮影(写真部・馬場岳人)この記事の写真をすべて見る 菅原文太さんが2014年11月に81歳で亡くなってから、ちょうど5年が経った。映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズで知られ、出演した映画の数は250本以上。誰もが認める戦後の日本映画界を支えた名優だが、09年に山梨県北杜市で農園を開いて農家になることを宣言。2012年に俳優業からの引退を表明した。 【写真特集】農園で作業する菅原文太さんと妻の文子さん だが、都市を離れた場所で農業をしていたからといって隠居生活を送っていたわけではない。若いスタッフを雇って無農薬農業の実践家として“土”の改良に取り組み、11年に東日本大震災が起きてからは「命」をテーマに積極的に発言した。ときには、国会議員を怒鳴りつけたこともあった。俳優を引退した後、文太さんがやろうとしたことは何だったのか。妻の文子さん(77)に話を聞
Published 2019/11/25 07:00 (JST) Updated 2019/11/26 12:43 (JST) ハンセン病の患者家族への補償を定めた法律が成立した。差別と偏見が患者・元患者だけでなく、その家族にまで及んだのは国の長期にわたる隔離政策によるが、そのような国策に利用された戦時下のベストセラーがある。 瀬戸内海の島にある長島愛生園は、かつて国立のハンセン病患者の収容施設だった。ここに医師として勤務した小川正子(まさこ)の手記『小島の春』が1938年に出版され、30万部も売れた。中四国地方の村々を定期的に巡回検診して患者を発見し、施設に収容した記録である。 小林秀雄や川端康成ら多くの作家や評論家が絶賛した。豊田四郎監督・夏川静江主演で制作された映画は、40年の『キネマ旬報』のベストテン1位になった。 同書には巡回検診の旅先での人びととの触れ合いや風景が、短歌をはさん
彼女は輝いていた。将棋界に颯爽と現れた天才少女。大人の好奇な視線を浴びながらも、けらけらと笑い、男たちをなぎ倒していった。ドラマやCMに出演し、小説を執筆すればベストセラーを連発した。 彼女は堕ちた。永世名人との不倫を告白し、将棋界と決別。孤独を埋めるかのように酒をあおった。肝硬変を患い、郷里福岡に戻った。5年前、余命1年を宣告された。 彼女は現在も生きている。 林葉直子、51才。今何を想うのか。元「将棋世界」編集長で、12才の頃から林葉を見てきた作家・大崎善生氏が彼女のもとを訪ねた──。 * * * 今から5年前のことになる。 2014年の正月。1冊の本が出版された。ワイドショーなどで話題になり、やがて私の目にも零れ落ちてきた。それが「遺言」という題名の書下ろしで、著者は林葉直子とある。治療不可能な重度の肝硬変を患い、末期の病床からのメッセージをまとめたもの。 死を間近にしたお騒がせ林葉
彼女は輝いていた。将棋界に颯爽と現れた天才少女。大人の好奇な視線を浴びながらも、けらけらと笑い、男たちをなぎ倒していった。ドラマやCMに出演し、小説を執筆すればベストセラーを連発した。 彼女は堕ちた。永世名人との不倫を告白し、将棋界と決別。孤独を埋めるかのように酒をあおった。肝硬変を患い、郷里福岡に戻った。5年前、余命1年を宣告された。その事実を『遺言』と題された本に著し、ワイドショーなどでも話題になった。 彼女は現在も生きている。 林葉直子、51才。今何を想うのか。元「将棋世界」編集長で、12才の頃から林葉を見てきた作家・大崎善生氏が彼女のもとを訪ねた──。 * * * ◆1979年──そこは女子はいちゃいけない場所だった 病の発覚に前後して福岡の父親が死んだ。将棋を教えてくれた父であったが林葉にとってはどうしようもない父親だった。警察官で外面的には生真面目なのだが、家庭内での暴力がひど
大林宣彦監督(81)は、がんの余命宣告を受けながらも、10月、最新作を完成させた。密着2年、20時間に及ぶインタビュー素材の中から、大林監督が映画に込めた「遺言」を2回にわたって読み解く特集の後編。 かつて「映画は足で作るもの」と語った監督だが、がんは確実に体をむしばみ、みずからの足で歩くこともままならなくなった。 一方、密着取材を許された私は、カメラマンであるにもかかわらず6年前から網膜の難病を抱え、視野が失われていく状況に直面している。 大林監督は、みずからの体が弱っていく中でも「今の君や僕だからこそ、撮れるものがあるはずだ」と私の病気に対して思いやりのあることばをかけ、手を差し伸べて握手してくれた。後編では、がんで身体の自由が失われていく状況の中で、大林監督が、映画作りとどう向き合うのか。長期密着取材を許され、視力が失われていくカメラマンの“私”の視点から見つめる。 (映像センターカ
小学生時代にチャップリンの『キッド』や『ライムライト』などの作品を観て映画業界を志す。中学校卒業後、明治大学付属中野高等学校定時制に進学。在学中に円谷プロで『ミラーマン』の美術部アルバイトとして携わる[2]。 1974年、明治大学付属中野高等学校全日制に転籍。 1975年、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)に入学。第一期生となる。 1976年、横浜放送映画専門学院在籍時に映画監督の森崎東に誘われ、映画『黒木太郎の愛と冒険』の脚本製作や役者として映画監督を目指す青年「銃一」役で出演。 1979年、映像プロデューサーの貞末麻哉子と共にミニシアター「クリエイティブ・スペースOM」を六本木に開設[3](2018年現在、閉鎖)。石井聰亙や山本政志と上映会を開くなどの活動を行っていた。同時期、仲代達矢の劇団無名塾の公演に演出助手や演出として関わる。 1984年、5000万円の借金をして自主映画『
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