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Literacyと言葉に関するkana321のブックマーク (2)

  • 科学への冒涜者を集団で責め、追い込んでいくことについて|Seiji Bito

    最近、市議や県議などが起こした「けしからん行い」が世の中を騒がせ、そして当事者は槍玉に挙げられた上ギリギリのところまで追い詰められるという状況が相次いでいます。 自分なりに解釈してみると、 1 「けしからん」行動をしたり、意見を発したりしている、そこそこ立派な立場にいる人物を発見 2 この立場の人がこのように「けしからん」ことをすることは「許せない」という感情が発見した人の中に浮かぶ 3 その感情はネット配信され、同じような価値観を持ち、同じように「許せない」と感じていた人の感情に着火する。 4 ネット上で「こいつけしからんぞ。許せない」という感情が爆発的に広まる。ブログなどがある場合は、「お前けしからん。許せない」という直接攻撃も進行 5 その当事者の存在価値の全否定がこの多数による集中攻撃のゴール という構成を持っているようです。 これだけならば、「こんなこと、みっともないからやめよう

    科学への冒涜者を集団で責め、追い込んでいくことについて|Seiji Bito
  • 安易な「気付き」には身構えた方がいいよなあ、という話: 不倒城

    「そうだったのか!」「今まで俺が信じていたことは間違いだったのか!」という感覚は、それが自分の根幹を揺るがすようなものでない限り、実はとっても気持ちいい。 固定観念に触れない程度の気付き、というものは快感だ。覚醒欲求、とでもいうのか。それとも真実欲求、とでもいうのか。どんなジャンルでもそうだが、大体の人は「勘違いしていた自分からの脱却」「正しい知識を得たことによるレベルアップ」という感覚にわりと弱い。 という話を、以下のようなリンクを読んで考えた。 「間髪をいれず」が殺された日 そうなんですよね。 上記の記事を乱暴に要約してしまうと、「来言葉は変化するものであって、「正しくはこう!」などということを希求することに意味などないのに、知ったかぶって「正しい日語」などというものを主張する輩によって言葉狩りが発生してしまう」という問題提起になる、と思う。 この問題提起については、私は全面的に賛

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