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chinaと人物に関するkanototoriのブックマーク (173)

  • 異形の叛乱 安禄山 ~前編

    異形の男が生まれた。 彼の母親は子宝に恵まれず、軋犖山(あつらくさん)にいます神に日ごと夜ごとに懐妊を祈った。すると霊験あらたかに身籠り、十月十日を経て正月一日に出産に至った。 今しも出産するという夜、あたり一面に赤光がきらめき、群れ集まった獣の遠吠えが響きわたり、妖しい星が光芒を放ちながら母親のいるゲルに向かって落ちていった。 奇怪な出来事が次々と起こるのを見た彼女は、わが子は神の申し子にちがいないと考え、Roxšan(ソグド語で光という意味)と名付けた。後に大唐国に対して叛乱を起こした安禄山の誕生である。 異民族の両親を持ち、巨漢だった安禄山は、貿易の仲介人として活躍した経歴からもうかがえるように、人心掌握に長けていたようだ。仕えていた張守珪の養子となり、また玄宗皇帝と楊貴妃にも「養子」として迎えられたというエピソードも伝えられている(イラスト/正子公也) 父親は康国(サマルカンド)を

    異形の叛乱 安禄山 ~前編
  • 中国 江沢民元国家主席 死去 96歳 新華社通信が伝える | NHK

    中国国営の新華社通信は、1989年の天安門事件のあとに共産党のトップに抜てきされ、市場経済化を推進した江沢民元国家主席が11月30日、白血病などのため、上海で死去したと伝えました。 96歳でした。 江沢民氏は、1989年6月の天安門事件のあと、当時の最高実力者の※トウ小平氏によって、中国共産党トップの総書記に抜てきされました。 同じ年の11月には、軍のトップの中央軍事委員会主席のポストを※トウ氏から引き継ぎ、1993年には国家主席にも就任して、権力基盤を固めていきました。 江氏は「社会主義市場経済」を掲げて共産党による一党支配のもとでの市場経済化を推進し、2001年にはWTO=世界貿易機関への加盟を果たすなど、のちにGDP=国内総生産で世界2位の経済大国となる基礎を築きました。 1997年には香港返還の式典に出席して中国の主権回復を国内外に宣言したほか、2001年には7年後の北京オリンピッ

    中国 江沢民元国家主席 死去 96歳 新華社通信が伝える | NHK
  • 【藤本欣也の中国探訪】劉少奇没後50年(下) 趙紫陽は第2の劉になれるか(1/4ページ)

    中国共産党から「永久除名」されながらも死後、名誉回復を果たした劉少奇元国家主席(1898~1969年)。故郷、湖南省寧郷の「劉少奇同志記念館」に、展示と撤去が繰り返された1枚の写真があった。 (「劉少奇没後50年(上) 一葉の写真が語る名誉回復の虚実」を読む) 66年、毛沢東が劉氏から実権を奪還するため発動した文化大革命で、打倒対象とされた劉氏は集会でつるし上げられ、暴行され、監禁された末に病死した。 かつて劉氏の遺体が安置されたベッドを撮ったその写真には、「1969年11月12日、劉少奇、河南省開封で逝去」との説明があるだけだ。劉氏が名誉も尊厳も踏みにじられた文革当時の写真は他にはない。 その隣に展示されている写真は、80年5月に北京の人民大会堂で盛大に挙行された追悼大会である。 「…80年に党はようやく劉少奇の名誉回復を決定しますが、それは容易ではありませんでした。劉少奇に関する資料だ

    【藤本欣也の中国探訪】劉少奇没後50年(下) 趙紫陽は第2の劉になれるか(1/4ページ)
  • 【藤本欣也の中国探訪】劉少奇没後50年(上) 一葉の写真が語る名誉回復の虚実(1/4ページ)

    1989年の天安門事件で失脚した中国共産党の趙紫陽元総書記(1919~2005年)の命日の1月17日、当局は北京の旧宅周辺を厳戒態勢下に置き、名誉回復の道が険しいことをうかがわせた。しかし共産党歴史の中では「永遠に党から除名する」と猛批判を浴びて失脚しながらも死後、名誉回復を果たした人物がいる。今年、没後50年を迎える劉少奇元国家主席(1898~1969年)だ。趙紫陽氏は第2の劉少奇になれるだろうか。劉氏の故郷を訪ねて考えてみた。 ◇ 劉少奇氏の故郷、湖南省寧郷は省都・長沙から西に約40キロ、車で1時間もかからない距離にある。 長沙の東方、湖南省瀏陽(りゅうよう)にある胡耀邦元総書記の故郷同様、生家周辺に記念館や像、文物館が建てられ、観光地として整備されていた。 「劉少奇同志故居」。●(=登におおざと)小平が書いた額の下を通って、小さな中国国旗を手にした中年の男たちがどんどん生家に入って

    【藤本欣也の中国探訪】劉少奇没後50年(上) 一葉の写真が語る名誉回復の虚実(1/4ページ)
    kanototori
    kanototori 2022/10/24
    “2008年は胡錦濤時代で劉少奇生誕110年に当たる。18年は現在の習近平政権下だ。”
  • 習近平の「鄧小平への復讐」――禁断の華国鋒主席生誕百年記念行事挙行(遠藤誉) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    鄧小平により不当に失脚に追い込まれた華国鋒・元主席は名前さえ出すことが禁止されていたが、習近平はその禁を破った。自分の父・習仲勲を失脚させた犯人が鄧小平だからだ。 ◆毛沢東に後事を託された華国鋒 1976年9月9日、建国の父・毛沢東が他界したが、4月30日には「あなたがやれば、私は安心だ」というメモを残して、後事を華国鋒(1921年~2008年)に託している。 このメモの信憑性を疑う論調もあるが、1972年2月21日に訪中したニクソン元大統領の通訳をした章含之氏が『分厚い大紅門を乗り越えて』(2002年)というの中で証言しているので確かだろう。 しかし毛沢東亡き後、毛沢東夫人の江青(ジャン・チン)を中心とした文化大革命(文革)4人組が政権を奪取しようとしたので、華国鋒は間髪を入れずにクーデターを起こして武力で4人組を逮捕し、文革を終了させた(1976年10月6日)。 その結果、華国鋒は、

    習近平の「鄧小平への復讐」――禁断の華国鋒主席生誕百年記念行事挙行(遠藤誉) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • 日本戦略研究フォーラム(JFSS)

  • 関東軍に翻弄され続けた満州国“ラストエンペラー”・溥儀の数奇な運命とは | 文春オンライン

    狡猾な関東軍の策略に謀られて天津を脱出した宣統帝の悲劇! 筆者は当時の天津総領事 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「満洲皇帝擁立事件」(解説を読む) 家庭的にも恵まれなかった溥儀氏 溥儀氏は家庭的にも薄幸の人であった。実の母は次第溥傑氏の出産後間もなく他界したので、幼少より侍女に育てられたが年を経るに伴れて実母追慕の念は高まり屢々侍従臣に対して淋しさと物足らぬ感じを洩らしたといわれ、後年彼に接した内外人が何となく淋しい感じを受けたのもこの事情による所が大きいと思われる。 又、昭和10年満洲皇帝として日皇室への謝恩訪日中、貞明皇后の慈愛に満ちた御待遇に対し実母の愛とは斯るものならんと述懐された事があった。 尚以上の様な家庭的環境から溥儀氏の生活は皇后はいつも夫婦の間は極めて円満であったが、皇后は生来蒲柳の質で何時頃か阿片吸煙の悪癖がついた事は溥儀氏の悩みであ

    関東軍に翻弄され続けた満州国“ラストエンペラー”・溥儀の数奇な運命とは | 文春オンライン
  • 閻連科さんの手記を無料公開 | 中国新聞デジタル

  • 聖人孔子為什麼被稱為「素王」 | 奥秘网

  •  劉少奇没後50年

    切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。 中国の国家主席だった劉少奇が、文化大革命さなかの1969年11月12日、非業の死を遂げてから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます) これは、1983年に中国が発行した“劉少奇同志誕生85周年”の切手です。 劉少奇は、1898年、湖南省の寧郷県で生まました。1920年、湖南省の中国社会主義青年団(現中国共産主義青年団)に入り、翌1921年、ソ連に渡ってモスクワの東方勤労者共産大学で学びつつ、同年、中国共産党(以下、中共)に入党しました。1922年、コミンテルン主催の極東諸民族大会に参加したのち、帰国。李立三とともに江西省の安源炭鉱のストライキを指揮し、李立三らとともに指揮

     劉少奇没後50年
  • 文化財にでかでかとハンコを押しまくる乾隆帝

    特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」 東京都上野の東京国立博物館において 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が 2019年1月16日(水)から2月24日(日)まで開催中です! https://ganshinkei.jp/

    文化財にでかでかとハンコを押しまくる乾隆帝
    kanototori
    kanototori 2019/02/11
    月明荘
  • nix in desertis:世界史上の諸君主の出題頻度グレーディング:中国王朝編(五代〜清)

    五代から清まで。おまけとして中華民国以降。 基準はこれまでと同様に以下の通り。 A:基礎知識。センター試験世界史B以上の入試を受けるなら知ってないとダメ。 B:国立二次・MARCH以上の私大を受けるなら必要。 B-:教科書に載っていて用語集頻度もそれなりに高いが,便宜上掲載されているという色彩が強く,実際には入試にはほとんど出ない。ネルウァが好例。 C:高校世界史範囲内・外のグレーゾーン。用語集頻度が低いか掲載されていないもの,または旧課程では範囲内だったもの等,早慶上智対策としてなら見るもの。 D:高校世界史範囲外だが,早慶上智でなら見たことがある。満点が欲しいなら覚えてもいい(が当然推奨しない)。 E:完全な高校世界史範囲外で,早慶上智ですら10年に1回未満のレベルでしか見たことがない。 視認性を高めるために,グレーディングのアルファベットに沿って☆を付した。Aなら6個,Eなら1個であ

  • 「ちょっといい話」その100―毛沢東と旧日本軍―-笹川陽平ブログ(日本財団会長)

    kanototori
    kanototori 2018/10/12
    “彭徳懐国防部長と歓談する遠藤団長”
  • 皇學館大学リポジトリ

    kanototori
    kanototori 2018/05/03
    “瀧川政次郎博士と中国法制史 〔附録〕大化改新管見”
  • 胡総書記「長老引退を」 中国、鄧氏と人事で温度差 - 日本経済新聞

    外務省が20日公開した外交文書では、1987年の第13回中国共産党大会について、長老格の引退をにらんだ指導部の若返り方針を巡って、最高実力者の鄧小平氏と胡耀邦党総書記の間に「温度差」があったこともあらわになった。それぞれ86年11月に中曽根康弘首相と個別会談した際、70歳の胡氏は「年寄りを引退させる」と若返りに意欲を示した。82歳だった鄧氏は自らの進退に関して「退職を考えているが、反対する人が多

    胡総書記「長老引退を」 中国、鄧氏と人事で温度差 - 日本経済新聞
  • やる夫達で学ぶ日中戦争 第8話 張作霖爆殺事件 - だっておwwwキャンセル

    710: ◆iTt.ap/Naw :2017/07/30(日) 19:47:25 ID:QU9sqRy.0 ー=≦´.::-=≡=-‐=≦¨´⌒ヾゞ=彡三Ξニヾ:... ´⌒¨':.ヾ::;)ヽ. .:/ .:, -=ニ¨⌒`¨^´        / ´⌒` \ ;::...    ::,.::.;.:ハ .;〃 イ/              〃 . :: :: :: :: :: :ヽ从  j{ __ ヾ;::'.i} ,.:″'´                   { . :: : {M}: :: :: :: } ::j!:: "⌒ ^Y: ;从 ,.: ::'                   ∨ァ<__ >=、ノ :::》,:..     {ヽ {ヽ :;.:. 彡´                        ぃ{` ゚ヲヾ゚‐´ リ ':ヾ::.:.  {ヽ ‘, 》 }

  • 劉暁波氏の海葬について - 黒色中国BLOG

    の報道を読むと、劉氏の墓が民主化運動の「聖地」となるのを恐れて中国共産党が海葬(海上での散骨)を親族に要求している…との内容が見られる 確かにそれは中国共産党にとって回避したいことであろうけど、よくよく考えてみると、かつての国家指導者である劉少奇、周恩来、鄧小平も、死後に海葬されている。 そこで、今回の「海葬」がどのような意義を持つのかを、歴史的に考察してみたい。 【目次】 劉少奇の場合 汪兆銘の場合 周恩来の場合 鄧小平の場合 毛沢東の場合 そして、劉暁波氏 劉少奇の場合 劉少奇は、毛沢東が大躍進政策で失敗した後に国家主席となった人物で、毛沢東に敵視され、文化大革命で迫害を受け、中共から除名させられ、失脚後に自宅で監禁状態となり、その後に河南省で倉庫部屋に幽閉されている。 劉少奇 - Wikipedia 1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬ

    劉暁波氏の海葬について - 黒色中国BLOG
  • 劉暁波氏が死去 中国の民主化訴え、獄中でノーベル賞:朝日新聞デジタル

    中国の民主化を訴えて投獄されたまま、ノーベル平和賞を受賞した著名な人権活動家で作家の劉暁波(リウシアオポー)氏(61)が13日、入院先の病院で死去した。遼寧省瀋陽市の司法局が発表した。今年6月に末期の肝臓がんと判明。刑務所外の病院で治療を受けていた。 劉氏は北京師範大講師だった1989年、全国の学生らが北京の天安門広場で民主化を求める運動を始めると、研究のため滞在していた米国から戻ってデモに加わり、ハンストを指揮。軍による介入と弾圧の危険が高まると、友人3人と軍幹部との交渉に臨み、学生らを広場から撤退させた。軍が学生らに発砲した天安門事件の犠牲を減らした「四君子」とも称されたが、事件後は反革命罪で1年7カ月投獄された。 出所後も国内にとどまって事件の犠牲者の名誉回復や民主化を求める運動に関わり、当局に繰り返し拘束されながら、政府や党の批判を続けた。 北京五輪が開かれた2008年、中国共産党

    劉暁波氏が死去 中国の民主化訴え、獄中でノーベル賞:朝日新聞デジタル
  • ノーベル平和賞の劉暁波氏、末期の肝臓がんと診断

    【北京=西見由章】2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家、劉暁波氏(61)が5月に肝臓がんと診断され、遼寧省錦州の刑務所から出て病院で治療を受けていることが26日わかった。劉氏の弁護人を務める莫少平氏が産経新聞に明らかにした。劉氏は中国における民主化運動の象徴的な存在で、活動家らの間では動揺と不安が広がっている。 莫氏によると、劉氏は5月23日に末期の肝臓がんと診断された。現在、同省瀋陽の中国医科大付属病院で治療を受けているという。 劉氏は2008年12月に中国共産党一党独裁の廃止などを求めた「08憲章」を起草したため逮捕され、国家政権転覆扇動罪に問われて09年12月、懲役11年の判決を受けた。 獄中でのノーベル賞の受賞理由は「中国での基的人権を求める非暴力の闘い」。劉氏は国内外の民主化運動を統合する存在であり、将来の国家指導者として期待も集めていた。 文学博士の劉氏は米コ

    ノーベル平和賞の劉暁波氏、末期の肝臓がんと診断
  • 新世界読書放浪 |辛亥革命とG・E・モリソン

    G・E・モリソンという人は全く知らなかったのだが、東洋文庫が誕生するきっかけとなったコレクションを岩崎家に売った人なのか。とはいえ、学者でも経済人でもなく、オーストラリア出身で、ロンドン・タイムズ記者として中国の反日工作を画策し、辛亥革命後に中華民国総統顧問も務めた人らしい。ということで、WIKIも英語中国語はあるが日語はなかった。この著者はオーストラリアに長く住み、現地の大学で修論を提出し、それを元にG・E・モリソン2部作を日で刊行。今回は博論も仕上げたので、20年ぶりの3部作目ということになった様だ。実際、英語で提出した博論とは方向性が違うのかもしれないが、このモリソンが親日から反日に転じ、それが袁世凱を始め、清朝、民国の政権に如何に影響を与えていたかを詳細に綴っている。元々は雲南省を横断した冒険家として知られた人だそうで、オーストラリアへの愛国心も強かったそうなので、オーストラ