相良 前頼(さがら さきより、生年不詳)は、南北朝時代の武将。相良氏の第7代当主。第6代当主相良定頼の長男。幼名は伊井之助、通称は近江守。法名は立阿。 応安元年/正平23年(1368年)に父の隠居により家督を継いだとも、応安5年/文中元年(1372年)の父の死により家督を継いだとも言われており、その詳細や経緯は定かではない。 当時南九州はほぼ全域で南朝方が優勢で、前頼も父存命時にすでに南朝側と内通して離反の準備をしていた。しかし建徳2年/応安4年(1371年)、九州探題として今川了俊(貞世)が新たに下向して来て、情勢に大きな変化があった。応安5年/文中元年、了俊は大宰府を奪還し、さらに肥後国に攻め入ろうとして筑後川で菊池氏と対峙した。了俊は相良家の一族に軍忠状を出して褒美を与えて繋ぎ止めることに成功し、相良左近将監、相良美作守などを服属させた。そのため、家督を相続してまもない頃の前頼も、北
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く