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ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (2)

  • 愚行権とか、啓蒙の暴力とか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「問題は疑似科学ですらない」@地下生活者の手遊び 「愚行権」にせよ、「啓蒙の暴力」にせよ、実に粗雑な使われ方をしてるのをよく見かける。あまりに酷いので、当面、自分で使うのは自粛しているくらいなんだけど、またか、という感じではある。 「愚行」を支えるもの とりあえず、愚行権とはどういうものか、tikani_nemuru_M氏の記事もあるわけだが、そのまた元ネタであるところのミル『自由論』に遡って引用してみる。 ……社会が個人として強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だと言えるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を

    愚行権とか、啓蒙の暴力とか - モジモジ君のブログ。みたいな。
    kenjiro_n
    kenjiro_n 2013/07/01
    私が読みたいネット掲示板での非難中傷のような話ではなかった。
  • 「表現の自由」再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    表現規制の話で。 表現規制において踏みにじられる個人の表現の自由と表現の自由において流通するヘイトスピーチ*1に踏みにじられる個人の尊厳に関わる自由とで、どちらかを優先すべきとするアプリオリな序列づけはできない。まず、このことは大前提。このことを踏まえない議論は全部ダメ。 両方の自由に等しい重みを与えようとするなら、目指されるべきは両方の自由であり、そのためには表現の自由だけでは絶対に足りない。仮に、表現の自由自体には制限を加えないのであれば、両立のために「表現の自由」を使うこと、すなわち「ヘイトスピーチに実際に反対すること」が必要である。それも、そのターゲットになる人たちが十分な安心感と尊重が感じられる程度に大きな規模で。 つまり、(誤解したがる人が誤解するだろう表現を使うならば)、表現の自由はある種の義務を伴わざるをえない。ただし、この義務は、果たされなくても罰せられることのない義務で

    「表現の自由」再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    kenjiro_n
    kenjiro_n 2010/08/06
    ゲシュタルト崩壊しまくりで目が滑る。あとで読み返したい。
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