森友学園の問題から出てきた、公文書改竄(かいざん)という事態を文学的に見ると、言葉がかつてなく軽くなっていると感じる。なぜなら現政権が折に触れて示しているのは、言葉は事実でも真実でもなくてよいという言語観だからである。それでも政治の現場では、これまでの常識にしたがって言葉を「事実らしい」「真実らしい」ものにするという力が働くので、事実や真実の方をねじ曲げるようなことも起きる。 しかし居心地が悪いのは、この言語観を「言葉では事実も真実も語れない」と言い換えると、多くの文学者が同意するものになることだ。実際、作家同士の対談などで「言葉は事実も真実も語れない」し、だから「作品の意図を聞かれてもわからない」といった発言を見つけることは難しくない。これは事実や真実を描こうとしてきた近代文学を批判した、一九八〇年代以降のポストモダン文学的な考え方がもたらしたものである。