聖福寺(しょうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」として知られる。境内は国の史跡に指定されており、主に江戸時代に再建された伽藍がある。山号は安国山(通称は安山)。 歴史[編集] 寺に伝わる『栄西言上状』によると、建久6年(1195年)に日本の臨済宗開祖の栄西が宋より帰国後、鎌倉幕府・源頼朝より八町四方(約900m四方)を賜り[2][3]、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した[3][4]。元久元年(1204年)に落成し、「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰を賜り、山門には後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる[3]。これが日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場である[3]。最盛期は、京都五山十刹制の第3位に列する名刹であり[3]、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・
寛延3年(1750年)農民井藤甚八の子として美濃国武儀郡で生まれた。11歳の頃清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚(1704-1784)について得度し、臨済宗の僧となった[1]。19歳の時、武蔵国久良岐郡永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗(1702-1781)のもとで修行をはじめ、その後印可を受け、月船が示寂した天明1年(1781年)32歳のとき同寺を出て行脚の旅に出る。[2]39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す[3]。 本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている[4]。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている[5][6]。 昭和初期に「仙厓ブー
※「中山森彦と仙厓展」のページの公開に伴い、本ページは2022年3月をもってクローズする予定です。 仙厓義梵(せんがいぎぼん)は、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧です。 寛延3年(1750)、美濃国武儀郡の井藤甚八の子として生まれました。 宝暦10年(1760)に美濃清泰寺の僧侶となり、明和5年(1768)に武蔵東輝庵の月船禅彗に師事しました。 そして、寛政元年(1789)から文化8年(1811)に至る22年間を筑前博多聖福寺の第123世住持としてすごし、天保8年(1837)に88歳の生涯を閉じました。 仙厓和尚は多くの絵画を遺したことで有名です。 ここでは、九州大学文学部で所有している仙厓和尚の書画26点を紹介します。 サムネイル タイトル 点数 形態 法量(縦×横) 解説
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