タグ

ブックマーク / ja.wikipedia.org (168)

  • MR.BIG (曖昧さ回避) - Wikipedia

    MR. BIG(ミスター・ビッグ) 人名 ミスター・B.I.G. - 映画監督バート・I・ゴードンのあだ名。名前の頭文字と巨大生物もの映画を得意とすることから。 架空のキャラクター Mr.ビッグ (龍虎の拳) - 対戦型格闘ゲーム『龍虎の拳』、『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズなどに登場するキャラクター。 音楽 MR. BIG (アメリカのバンド) - 1989年にデビュー、2002年に解散、2009年に再結成したアメリカのロックバンド。 MR. BIG (アルバム) - 上記のバンドのアルバム。 ミスター・ビッグ (イギリスのバンド) - 1970年代、1990年代に活動したイギリスのロックバンド。 Mr. BIG (田原俊彦の曲) - 田原俊彦のシングル曲。 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧に

  • パット・トーピー - Wikipedia

    パット・トーピー(Pat Torpey、1953年12月13日 - 2018年2月7日)は、アメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、ドラマー、ソングライター。 ハードロックバンド「MR. BIG」のメンバーとして知られ、他にもロバート・プラント、リッチー・コッツェン、マイケル・トンプソン、ザ・ナック、ジョン・パー、ベリンダ・カーライル、ジョニー・ハイランド、B'zなどセッション活動でも数多くの実績を誇る。 1953年12月13日にアメリカのオハイオ州レイク郡ペインズヴィルにて生まれる(同州クリーヴランド生まれと言われているが正確にはクリーヴランドではなく少し離れたペインズヴィルという町である)[1][2]。 7歳の頃、ポルカバンドを観た際にドラマーを観て夢中になり憧れ、2~3年後にドラムスティックを買ってもらう。庭で小枝を削るなどして、ドラムスティックを作ったりもしていた。 12歳の時に

    パット・トーピー - Wikipedia
  • 安河内哲也 - Wikipedia

    福岡県北九州市に生まれ、遠賀郡岡垣町にて育った[1]。福岡県立宗像高等学校を経て[2]、上智大学外国語学部英語学科を卒業[3]した。幼少期にアメリカ映画や洋楽など欧米作品を鑑賞したことで英語に興味を持った[1]。2021年現在、株式会社ティーシーシー取締役、一般財団法人実用英語推進機構代表理事。予備校教師であり、東進ハイスクール・東進衛星予備校英語科講師として活動する。また、大学や企業、教員研修でも英語を教える。なお、かつては船橋予備校の講師であった[要出典]。 TOEIC990点満点、TOEIC Speaking and Writing Test200/200、英検1級、国連英検特A級、通訳案内業、1級小型船舶操縦士等の資格を持つ[4]。 宗像高校在学中は同校山岳部にて活動しており、昭和59年の全国大会(インターハイ)では全国優勝を飾っている。 ホンダ・モンキーを2台所有している。 平成

  • ゲーム理論 2016年9月25日 (日) 18:37; Munasca (会話 | 投稿記録) による版( - Wikipedia

    協力ゲームと非協力ゲームの区別はジョン・ナッシュが1951年に発表した「非協力ゲーム[33]」という論文の中で初めて定義された[34][35][36]。ナッシュの定義によれば、協力ゲームにおいてプレイヤー間のコミュニケーションが可能でありその結果生じた合意が拘束力を持つのに対して、非協力ゲームにおいてはプレイヤーがコミュニケーションをとることが出来ず合意は拘束力を持たない[34]。このように当初はプレイヤー間のコミュニケーションと拘束力のある合意(英: enforceable agreement)の有無によって協力ゲームと非協力ゲームとが区別されていたが、非協力ゲームの研究が進展するにつれてこのような区別は不十分なものとなった。すなわち、1970年代に非協力ゲームを「展開形ゲーム」で表現する理論が発達したことによって、非協力ゲームにおけるプレイヤー間のコミュニケーションが情報集合として記述

    ゲーム理論 2016年9月25日 (日) 18:37; Munasca (会話 | 投稿記録) による版( - Wikipedia
  • 囚人のジレンマ - Wikipedia

    この項目では、ゲーム理論について説明しています。横山秀夫原作の「囚人のジレンマ」(「第三の時効」所収)については「第三の時効」をご覧ください。 囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ。お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである[1]。各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる[2]。 1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案した[3]。ランド研究所のメリル・フラッド(英語版)とメルビン・ドレシャー(英語版)の行った実験をもとに、タッカーがゲームの状況を囚人の黙秘や自白にたとえたため、この名がついている[4]。 囚人の

    knephin_steg
    knephin_steg 2009/01/15
    ゲーム理論
  • ディキシーランド・ジャズ - Wikipedia

    ニューオーリンズのトラディショナルなディキシーランド・ジャズ・バンド。2005年、ニューオーリンズにて。 ディキシーランド・ジャズ(英語:Dixieland jazz)は、ディキシーランド、トラディショナル・ジャズとも呼ばれる、20世紀初頭にニューオーリンズを中心に発展したジャズの一分野である。ジャズの初期の例とされている。 概要[編集] ディキシーランド・ジャズは、ニューオーリンズ・ジャズと呼ばれる場合もあり、20世紀初頭にニューオーリンズで発達したジャズのスタイルである[1]。ホットジャズという呼び名もあるが、後にあまり使用されなくなった。ニューオーリンズのバンドが1910年代にシカゴやニューヨークに移動して広まった。ディキシーランド・ジャズは、ブラスバンドの行進曲、フランスのカドリーユ[2](古典的ダンスの名称)、ラグタイム、そしてブルースを融合して成立した音楽だった。 詳細[編集]

    ディキシーランド・ジャズ - Wikipedia
  • フレディ・ハバード - Wikipedia

    少年時代、フレディ・ハバードはインディアナポリスにおいて、ウェス・モンゴメリーとその兄弟を含む、数多くの音楽家たちと親交を結んだ。ハバードのジャズのキャリアが格的に始まるのは、1958年のニューヨーク進出からである。ニューヨークで彼は、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィー、スライド・ハンプトン、J・J・ジョンソン、フィリー・ジョー・ジョーンズ、クインシー・ジョーンズ、オリヴァー・ネルソンそしてソニー・ロリンズ等と共演している[2]。彼は、影響力の強いハード・バップ演奏集団であったアート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズにおける演奏によって有名になった。その演奏は『モザイク』『ブハイナズ・デライト』『フリー・フォー・オール』等のアルバムに収録されている。 1960年代初頭、ハバードはブルーノート・レコードに広範な録音を残している。ブルーノート初登場にしてバンドリーダ

    フレディ・ハバード - Wikipedia
  • テイク・ファイヴ - Wikipedia

    "テイク・ファイヴ"はポール・デスモンドが作曲し、デイヴ・ブルーベック・カルテットの1959年のアルバム『タイム・アウト(英語版)』に収録されたジャズ曲である。曲名の由来にもなった、珍しい5/4拍子の使用で有名である[1]。 解説[編集] ニューヨーク市にあるコロムビアの30丁目スタジオ(CBS 30th Street Studio)で、1959年6月25日、7月1日、8月18日に録音され[2]この曲はグループの最も有名なレコードになった。独特で覚えやすいサキソフォンのメロディと創造的で力強いドラムソロで有名である[1]。この曲の初演は、1959年、デイブ・ブルーベック・カルテットがニューヨーク市のヴィレッジ・ゲイトナイトクラブ(英語版)でライブ演奏したときである。Eフラットマイナーのキーで演奏され、Eフラットマイナーブルースのリックと、Eフラットマイナー・Bフラットマイナーの2コードによ

  • ZAZEN BOYS - Wikipedia

    ZAZEN BOYS(ザゼン・ボーイズ)は、日のロックバンド。所属レーベルはメンバーの向井が立ち上げたMATSURI STUDIO。 メンバー[編集] 現メンバー[編集] 向井 秀徳(むかい しゅうとく、) 1973年10月26日(50歳)- ) ボーカル、ギター、キーボード担当。 吉兼 聡(よしかね そう、) 1974年8月6日(49歳)- )ギター、サンプラー担当。右手に施された刺青がトレードマーク。通称「カシオマン」。 松下 敦(まつした あつし、) 1969年7月24日(54歳)- )ドラム担当。2005年1月加入。通称「柔道二段・松下敦」。 MIYA(みや、) 1979年12月30日(43歳)- )ベース担当。2018年7月加入。 元メンバー[編集] アヒト・イナザワ () 1973年6月6日(50歳)- ) ドラム担当。2004年12月脱退。 通称「アピート・イナザワンテ」。

  • エイフェックス・ツイン - Wikipedia

    エイフェックス・ツイン (Aphex Twin)、名リチャード・D・ジェームス(Richard David James、1971年8月18日 - )はイギリスのミュージシャン、音楽家、作曲家、DJである。その作曲ジャンルは多岐にわたり、テクノ、アンビエント、エレクトロニカ、ドラムンベース、アシッド・ハウスと多彩である。同時に複数のアーティスト名義を使うことでも知られる。 アイルランドのリムリックで生まれ、イギリスのコーンウォールで育つ。 イギリスでテクノシーンが隆盛していた時期、地元でDJをしていた。この頃からAphex Twinの名義を用いだす。1991年に自身のレーベルであるリフレックス・レコーズ(Rephlex Records)を設立。同時に他のレコード会社へもデモテープを送り、1991年にはTVTレコーズからAFX名義で、後にシリーズ化するシングル盤の「Analogue Bubb

    エイフェックス・ツイン - Wikipedia
  • SPECIAL OTHERS - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "SPECIAL OTHERS" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年7月)

    SPECIAL OTHERS - Wikipedia
  • 飯島愛 - Wikipedia

    飯島 愛(いいじま あい、1972年〈昭和47年〉10月31日[注 1] - 2008年〈平成20年〉12月17日〈死亡推定日〉[1])は、日の元AV女優、タレントである。名:大久保 松恵(おおくぼ まつえ)[注 2]。株式会社Thesis元代表取締役。東京都江東区出身。瀧野川女子学園高等学校中退。元ワタナベエンターテインメント所属。 東京都江東区の亀戸で生まれ育つ。教育熱心で躾に厳しい両親に育てられ、小学校の頃は成績が良くおとなしい子であった。中学に入学してからも成績は学年で常に10番以内を保っていたが、中学1年の頃に精神的な支えでもあった祖父が亡くなったことで精神のバランスを保てなくなり、それが原因で両親からのプレッシャーに耐え切れなくなって非行に走るようになった。 中学在学中から不良仲間と毎晩ディスコ等で夜遊びに耽るようになり、遊ぶお金の為に万引きやカツアゲを繰り返す生活をしてい

  • ドナルド・フェイゲン - Wikipedia

    ドナルド・フェイゲン(Donald Fagen、名:ドナルド・ジェイ・フェイゲン(Donald Jay Fagen)、1948年1月10日 - )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、キーボーディスト。バンド「スティーリー・ダン」の創設者として知られる。 ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーは、1971年にグループを結成した。彼らはこのバンドの中心メンバーであり、共同で作曲をおこなった。ツアーやレコーディングではフェイゲンはキーボード演奏を担当し、またレコーディング曲ほぼ全てのリードボーカルも担当している。印象的なコード転調などが彼らの楽曲の主な特徴である。 72年にはラテンの影響を受けた「ドゥ・イット・アゲイン」が初のヒットとなり、さらに1974年に「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」はアメリカだけでなく日でもヒットした。74年の

    ドナルド・フェイゲン - Wikipedia
  • ウォルター・ベッカー - Wikipedia

    ウォルター・ベッカー(英語: Walter Becker、名:ウォルター・カール・ベッカー(英語: Walter Carl Becker)、1950年2月20日 - 2017年9月3日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ロック・グループ、「スティーリー・ダン」の中心メンバー。ギタリスト(ベースも担当する)、レコードプロデューサー。ニューヨーク市クイーンズ区出身。 ベッカーとフェイゲン(2007年) ベッカーはニューヨーク市クイーンズ区でドイツ系の家庭に生まれ、NYCのスタイヴェサント高等学校(英語版)を卒業している。そして彼がバード大学に入学したときに、もう1人のスティーリー・ダンの中心メンバーであり、長きにわたる音楽のパートナーとなるドナルド・フェイゲンと出会った。ベッカーは隣人のランディ・カリフォルニア(en)[2]から、ブルースのギター・テクニックを習った。後にフェイゲンはベッカーのギタ

    ウォルター・ベッカー - Wikipedia
  • アル・ジャロウ - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Al Jarreau|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります

    アル・ジャロウ - Wikipedia
  • キューバ序曲 - Wikipedia

    1932年にガーシュウィンがキューバへ行った際、現地の音楽と陽気な雰囲気に影響を受けて作曲した、いわば観光音楽的な側面を持つ作品。短期間の旅行であったが、この経験はガーシュウィンにエスニックな音楽のインスピレーションをもたらした。ガーシュウィンはボンゴやマラカスなどの民族楽器を買い集めてアメリカに持ち帰ったほど、ルンバの音楽に関心を抱いていた。 当初は『ルンバ』という曲名が付けられ、同年夏の野外コンサートにて初演されたが、その後メトロポリタン歌劇場での慈善演奏会において再演されたときに現在の題名に改称された。

  • パリのアメリカ人 - Wikipedia

    「パリのアメリカ人」(An American in Paris)は、ジョージ・ガーシュウィンが作曲した交響詩である。「ラプソディ・イン・ブルー」に次いで、ガーシュウィンの有名な器楽曲であり、シンフォニックジャズの一例である。 ニューヨーク・フィルの委嘱を受けて1928年に発表された。1920年代に過ごしたパリの活気に触発されて作曲された大掛かりな標題音楽であり、いわば音楽によるフランス紀行文である。特定の物語があるわけではないが、自動車のクラクションの利用に認められるように現代の都会の生活や喧騒が、ウィットを交えて楽しく描き出されている。ちなみに作のニューヨーク初演のために、ガーシュウィンはパリのタクシー用のクラクションをアメリカ合衆国に持ち帰った。初演は1928年12月13日、カーネギーホールにおいてウォルター・ダムロッシュ指揮・ニューヨーク・フィル演奏により行われた。 初稿と改訂稿(

    パリのアメリカ人 - Wikipedia
  • ラプソディ・イン・ブルー - Wikipedia

    Gershwin:Rhapsody in Blue - Aryo WicaksonoのP独奏、Julie Debordes指揮Queer Urban Orchestraによる演奏。Queer Urban Orchestra公式YouTube。 『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲、ファーディ・グローフェが編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。 『ラプソディ・イン・ブルー』というタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ラプソディ(狂詩曲)には、「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが窺える。実際この曲は、アメリカ的な芸術音楽の代

    ラプソディ・イン・ブルー - Wikipedia
  • ジョージ・ガーシュウィン - Wikipedia

    ジョージ・ガーシュウィン(ガーシュインとも、George Gershwin、1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカ合衆国の作曲家。名、ジェイコブ・ガーショウィッツ(Jacob Gershowitz)。 ジャズなどのポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍し、アメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られる[1]。 兄のアイラ・ガーシュウィンは作詞家で、兄弟で共同制作した[1]。 東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれた[2]。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民である。 初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」だったとされる。父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになり、1

    ジョージ・ガーシュウィン - Wikipedia
    knephin_steg
    knephin_steg 2008/12/15
    「ガーシュウィンはいくつかの作品が大ヒットに恵まれたためか、著作権管理はディズニー社と並ぶほど厳しい。」夢の国w
  • 大野晋 - Wikipedia

    古代日語の音韻、表記、語彙、文法、日語の起源、日人の思考様式など幅広い業績を残した。特に『岩波古語辞典』の編纂や、日語の起源を古代タミル語にあるとしたクレオールタミル語説で知られる。ほかに上代特殊仮名遣の強調、係り結びの倒置説、品詞の割合とジャンルとの関連性を指摘した大野の法則なども知られる。また、『日語の起源』『日語の文法を考える』『日語の形成』『日語練習帳』など、一般読者への啓蒙書を数多く出版した[4]。 大野はもともとアルタイ語研究者であった江実(ごうみのる)と共にウサルファ語[5]などのパプアニューギニアの言語に着目して日語との系統関係を探ろうと試みていた[6]。しかし、やがて江は日語やパプアニューギニアの言語の原点は「インド(等)のアジア」に行きつくという仮説を立て[7]、大野はドラヴィダ語と日語とを結びつけるようになった。大野はオックスフォード『ドラヴィダ