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ブックマーク / blog.szk.cc (17)

  • 「地雷」が多すぎる

    すっかりが読めなくなっている。 忙しいからではない。自己啓発に毒されて仕事に全力を出すのが癖になっているからでもない。 原因は、現代の情報過多だ。 この社会では、どんな商品に出会うときにでも事前の評価がついて回る。であれば「新刊紹介」などのようなプロのレビューがその代表だ。リアル書店を歩いていて偶然出会うもあるだろうけれど、それすら「あの作家の最新刊」とか「屋大賞ノミネート」とか「ネットで100万人が泣いた」とかの周辺情報が、判型の3割、4割を覆うように貼り付けられている。 そうするとこちらも、あらゆるを色眼鏡で見てしまうようになる。レシピですら「味の素使ったっていいじゃん、美味しいよね」とか「丁寧にひいたお出汁は日文化だよね」という強い思想を自分の中に確認しないと手に取れない。 そう、誰が気にするでもないのに、どんなを開いても、それが事前の情報によって文脈付けられていて

    「地雷」が多すぎる
  • 退屈じゃないこともAIに任せる

    AIによる業務効率化」がブームだ。といってもAI仕事に使える、使わなければという機運が高まったのもこの1年足らずのことだし、技術動向が目まぐるしく変わっていることもあって、いまだ「定番」と呼べるスキルは生まれていない。プロンプトエンジニアリングが大事になるぞとか言われていたかと思えば、データ分析画像生成、直近では動画の生成などが話題になり、「何に使える技術なのか」というイメージすら明確ではないのが現状だ。 こういうときに、新しもの好きというか、アーリーアダプター層とマジョリティの間の「キャズム」はずいぶん大きなものになると思われる。マジョリティ層が「使い方や規制の動向がはっきりするまで待っておこう」と考えるのに対し、アーリーアダプター層は次々と新しいものを試し、それによってAI活用の「コツ」のようなものを掴んでいく。おそらくそれはかつての「検索エンジンの使い方」と一緒で、言語化しづら

    退屈じゃないこともAIに任せる
  • 続・社会学は何をしているのか

    以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。 たとえば昨年開催された日社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題

    続・社会学は何をしているのか
  • 社会学は何をしているのか

    「何をしているのか分からない」 社会学部の教員をしているとぶつかる壁のひとつに「社会学を宣伝することの難しさ」がある。社会学部の教員も学生も、「社会学部って何をするところ?」とよく聞かれるのに、それに答えられないというのだ。もっとも「じゃあ経済学部では何を勉強するか知ってる?」と聞いても「経済のことを勉強するんでしょ」という、おそらく経済学者なら間違いだと言うだろう回答しか返ってこないわけだから、「社会学は説明が難しい」というのも思い込みでしかないのだけれど。 一昔前の日の教科書では、「社会学は常識を疑う学問です」なんて書かれていた。けれどこの説明も、もう古臭いものになっている(この辺についてはこのや講義動画を参照)。最近の説明としては、日社会学会の社会学部への進学を考えている人向けのサイトで示されている「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」

    社会学は何をしているのか
  • 体感消費とは何か

    消費というものに着目したときに、この数年の間に起きている現象はとても興味深いものが多い。一方に目をやれば訪日外国人の旺盛な消費意欲やハロウィンなどのイベント消費があり、他方では「若者の消費離れ」だとか「ミニマリスト」のように、消費しないことが現代の特徴に挙がる場合もある。もちろんどちらも現代のいち側面を表しているのだろうけれど、消費するにせよしないにせよ、その背後にどのようなメカニズムがあるのかは、あまり取り上げられることがない。 自分自身はこの数年、消費社会論を軸にしながらテーマパークやショッピングセンター、観光、といった対象を扱ってきた。こうした消費は、近年「コト消費」などと呼ばれ、モノの消費ではなくて体験が消費価値の中心になっていると言われている。僕としてはその背景に、ネットで情報があふれるようになったことで、行かないと分からない、体験しないと分からないことを消費するマインドが顕在

    体感消費とは何か
  • 見失うほどの平和

    新しい大学は、兵庫県の山の上にある、「オサレ」としか形容のしようがない、とても瀟洒な造りのキャンパスが特徴の大学。ロケーションで言うと、ハルヒの舞台となった辺りから、山ひとつ挟んだ反対側くらいだと思えばいい。そんなわけだから当然、最寄りの駅から大学まで歩こうとすれば、 うすらぼんやりとしているうちに学区内の県立高校へと無難に進学した俺が最初に後悔したのはこの学校がえらい山の上にあることで、春だってのに大汗をかきながら延々と続く坂道を登りつつ手軽なハイキング気分をいやいや満喫している最中であった。これから三年間も毎日こんな山登りを朝っぱらからせにゃならんのかと思うと暗澹たる気分になるのだが、ひょっとしたらギリギリまで寝ていたおかげで自然と早足を強いられているのかもしれず、ならばあと十分でも早起きすればゆっくり歩けるわけだしキツイことでもないかと考えたりするものの、起きる間際の十分の睡眠がどれ

    見失うほどの平和
  • 「ポケモンGO」を社会学的に考えるためのヒント

    以前から話題になっていたポケモンのキャラクターを用いた位置情報連動ゲーム(位置ゲー)である「ポケモンGO」が欧米でリリースされて1週間ほどが過ぎた。巷ではポケモンゲットに熱中する外国人や、関連株の値上がり、いわゆる「ポケモノミクス」についての話題でもちきりだ。日でも同作がリリースされれば海外のような、あるいはそれ以上の熱狂が起きるはずだと当て込んだ人々の落ち着かない動きも、こうした話題への注目に拍車をかけているようだ。 むろん、ポケモン関連市場は国内において非常に大きいから、リリースされればなんらかの動きはあるだろう。一方でまだ同作をプレイしていない僕には、それがコロプラからイングレスまで連なる「位置ゲー」の特徴や課題を共有するものであると見えるし、やや距離を置いて見ていたい気持ちになるところがある。ひとまずこのエントリでは、「ポケモンGO」に限らず、こうした技術が社会に拡がることはどう

    「ポケモンGO」を社会学的に考えるためのヒント
  • 現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO

    ポケモンGO」ファーストインプレッション まだ2日くらいしかたっていないのだけど、各所で歩きスマホする人を見かけるようになったのは、「ポケモンGO」のリリースの影響なのだろう。他方で、既に述べていたように神社などではこのゲームのプレイを禁止するところも出てきて(記事)、それ自体は神社側も予想できていたことだとはいえ、非常に興味深い動きになっているなと思う。 勤め先の大学でも、試験期間中とはいえリリース直後は祭り状態だった。話を聞いてみると、学内を一周するとちょうどポケストップが回復するらしく、歩きスマホする学生が多数。数人のグループで「えっこれどうやるの」などと話しながら歩いていたり、サークルを作って座り込んで画面を見せ合ったり。この世代って約10年前のモンハンブーム(ポータブルの2nd〜2nd G)くらいに小学校高学年〜中学生くらいのはずなのだけど、塾の帰りとかに輪になってモンスター狩

    現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO
  • 反抗なきロックの時代

    若い時分、僕の周囲にはロックミュージシャンしかいなかった。アマチュアからベテランまでたくさんの人たちと関わって、たとえば「ミュージシャン」と「芸能人」の間にある微妙な差だとか、フリーランスの演奏家として生きていく彼らの職業意識だとか、そういうものを学ばせてもらっていた。概して彼らは低姿勢だったけど時によっては「ロック」な立ち居振る舞いで、彼らの語る70年代や80年代の武勇伝を聞きながら、さすがにビール瓶で頭を殴られて流血こそしなかったものの、これでも時代はマシになった方なのだろうな、と感じていたものだ。 いいとか悪いとかの話ではなく、それはある環境が生み出した生き方だったのだと思う。そして、産業化され、大きな市場になっていた90年代の音楽シーンにおいては、衝動的な自己表現が溢れた結果としてのロックの居場所は、かつてよりは小さくなっていた。「マス」という存在を意識できる演奏家たちは、その変化

    反抗なきロックの時代
  • 対談:鈴木謙介×東浩紀「1995/2015――いま人文知は必要か」

    鈴木謙介×東浩紀「1995/2015――いま人文知は必要か」 @hazuma 前売2600円(1ドリンク付き)/ゲンロン友の会会員証または学生証のご提示で2100円(1ドリンク付き)に! 詳細 当日券は3100円 (1ドリンク付き)です。ゲンロン友の会会員証または学生証のご提示で2600円(1ドリンク付き)になります。 友の会会員限定席を複数予約される場合は、お連れの方が会員でなくても結構です。 お席はチケットの申し込み順ではなく、当日会場にご来場頂いた順にご案内致します。 開場時間はイベント開始1時間前の18:00となります。 【イベント概要】 6月28日、東浩紀が6年ぶりに『文化系トークラジオ Life』に出演した(電話出演)。 大学における文学部の価値が問われ、人文知そのもののプレゼンスが低下するなかで、現代における人文知の役割はいったいなんなのか。そして、それは当に維持可能なのか

    対談:鈴木謙介×東浩紀「1995/2015――いま人文知は必要か」
  • 「スマホ依存」に対する誤解

    信州大学の入学式における、山沢学長のスピーチが話題になっている。先行する記事で「スマホやめるか、大学やめるか」の見出しとともに 山沢学長は、昨今の若者世代がスマートフォン偏重や依存症になっている風潮を憂慮。「スイッチを切ってを読み、友だちと話し、自分で考える習慣をつけ、物事を根から考えて全力で行動することが独創性豊かな学生を育てる」と語りかけた。 と報じられたのが原因だ。この記述だけでもちょっとまずいな、と思っていたのだけど、全文を読んでみて、その思いが確かになった。なので、この件について手短に。 まず、全文が出たことで「やっぱり言ってることはまともだった」という感想が多いことについて、僕も異論はない。最初から「大学でスマホを禁止する」などと言っているとは思わなかったし、入学式のスピーチでそんな極端なことを言うはずもないだろうと思っていたからだ。 だが問題なのは、「スマホ依存症」に対す

    「スマホ依存」に対する誤解
  • なぜ、ポエムで組織はカルト化するのか〜2014年の振り返り(3)

    いつも時代の3年先というか、みんなが気がつく頃には自分の関心は薄れているようなことにアンテナを張って生きているのだけど、今年話題になったものでいうと、いわゆる「ポエム化」の話かなと思う。ブラック労働とポエムの相性がいいというのは、自分的には周知の事実だと思っていたし、だからこそクロ現の企画も受け入れられたのだと思うけれど、それにしてもあらためて映像化されて驚いたという人も多かったのだろうか。 いまの勤め先に入ってから、学生たちの関心もあって、それまで格的に手を付けてはいなかった消費社会研究に取り組むことになったのだけど、そこで見えてきたものの中には、たとえば再魔術化やディズニー化といったショッピングモール論につながる話や、以前の自分の研究とつながる話なんかと並んで、『サブカル・ニッポンの新自由主義』で扱ったサービス労働と若者の自己意識の話の延長になる、「感情労働」などの現代的なサービスの

    なぜ、ポエムで組織はカルト化するのか〜2014年の振り返り(3)
  • “let it go”のアイロニー « SOUL for SALE

    映画評論ができるほど映画を見ているわけでもないし、その中でもディズニーなんてほぼ見たことがないわけだけれど、この2年はまったく映画なんて見る余裕もなかったわけだし、リハビリも兼ねて『アナと雪の女王』について書いてみようと思う。前評判だのYouTubeで展開されているプロモーション動画だので色々予習していったので、それほど意外ではなかったけれど、全体としてとにかくアイロニーに満ちた作品だなあというのが大枠の感想。 言われていたところだと、作で描かれているのは「王子様がお姫様を幸せにする」というテーマへのアンチテーゼということらしい。しかしながらこの解釈はあまりにも日的過ぎるという感じがする。例えば2007年の『魔法にかけられて』なんかの方が、明確にこうしたテーゼへのアンチになっているし(というより『魔法にかけられて』自体がディズニーの再帰的パロディなのだけど)、アメリカのメディア状況を考

    “let it go”のアイロニー « SOUL for SALE
  • うろ覚えの”J”ポップ時評 第4回(from『エクス・ポ』第一期)

    第04回:「アキバから渋谷へ」 この連載も折り返し地点を越えました。当初の依頼では「最近面白い日音楽」について思うところを述べるはずだったこの企画、どんどん「日のポップカルチャーの現在」を分析するという方向に向かっています。あらかじめ「J」を丸囲いするという逃げを打っておいて正解でした。 さて、前回の最後で僕は、連載の後半では主題をオタク系カルチャーへシフトしていくと書きました。ただ、この点については少し言い訳をしておく必要があるかもしれません。ストリートに対してオタク、という対立図式は、僕の師匠である宮台真司の影響で生まれたものであり、僕自身の90年代を生きた経験からもたらされたある種のリアリティに基づいたものでもあります。ですが00年代の現在においても、その対立図式は有効なのか、という問いは、十分に検討される必要があると思うのです。 ストリート:オタク=強い:弱い=イケてる:イケ

    うろ覚えの”J”ポップ時評 第4回(from『エクス・ポ』第一期)
    laislanopira
    laislanopira 2014/02/21
    “いまではむしろ秋葉原こそがコミュニカティブなオタクの街であり、真に非コミュなオタクは、アキバからもこそこそと逃れて、誰も自分に関心を持たない渋谷へと流浪するのです”
  • 喧嘩に勝つな、勝負に勝て

    一年の終わりにその年を振り返るというのは、そこが休みだからできることなんだろうけど、残念なことに今年は(今年も)ど年末のぎりぎりまで仕事なもんで、噛みしめるように振り返るわけにもいかない。2012年は主に研究活動で「どこに出しても恥ずかしくない激務イヤー」だったのだけど、今年はほぼ学務に追われた一年だった。 一応、1月から3月までは新刊『ウェブ社会のゆくえ』の執筆に集中していて、これはこれで心身ともに限界まですり減らしたり、夏にその新刊が出てからはプロモーションで取材やイベントにと慌ただしくしてたのだけど、それらはほとんど学務の隙間を縫ってのお仕事だった。 そこで何をしてたのかはおいおい書くとして、そうした組織の仕事に関わってあらためて感じるのは、その場限りの喧嘩にこだわることが、いつも意味があるとは限らないってことだ。巨大な組織となれば、内部の構成員もそれぞれの目標や思惑も多様で、それら

    喧嘩に勝つな、勝負に勝て
  • 「うちらの世界」論の系譜

    どうも夏になるとツイッターで不用意なことを書く人が増えるのか、ネット憲兵のみなさまが活動しやすくなるのか、この夏はバイト先で不適切な行為に及んだ若者の問題がブームになっている。その数が増えたように見えるのは単に注目を集めているからで、いつぞやの飲酒・喫煙告白が目立ってたときと同じだと思うけど、じゃあどうしてそんなことを書いてしまうのかという点についても、あまり話に進展はないように思える。 彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されてい

    「うちらの世界」論の系譜
  • 選挙の後こそ、民主主義が問われる

    選挙が終わった。というよりは新しい体制での政治が始まるという方が正しいのだけど、ともあれその結果を見て、予想通りだという人もあれば、意外だという人もあるだろう。特に第三極の政策や政権公約に興味があった人の中には、結局のところ自民党大勝という結果に失望した人も多いのかもしれない。みんな党の名前しか見てないんじゃないか、と。 ところで、それよりも気になっていたのは、選挙直前になってネットのあちこちからあがった「選挙に行こう」の声だった。それ自体はとても大事なことだし、勢い余って「選挙に行かない人に政治に口を出す権利はない」とか「選挙に行かない男と付き合うな」なんて話が飛び出すのもまあ仕方ない(どちらも間違った意見だと僕は思うけど)。ただ若年層に関して言えば、近年むしろ政治への関心は高まっているし、昨今の調査ではネットを熱心に見ているのはむしろ30代から40代らしいので、どこまで的に当っているの

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