ブックマーク / azuryblue.blog72.fc2.com (2)

  • Gazing at the Celestial Blue 「自由」ってどういうものなのか、よく解らない

    このところ読み返している何冊かの内の一つで、遙洋子さんが男女共同参画社会基法をこんな風に表現していた。これはみんなで平等になりましょう。で、平等というのはね、という法律だった。そして気づいたことがある。それは、平等というのは、平等を定義しなければならないほど、人は平等がなにかわからないということだった。「平等はいいことだ」はわかっていても、じゃあ、なにが「平等?」と聞かれて、いったいどれぐらいの人がそれにこたえられるだろう。(略) なにが平等かを定義することとはつまり、なにが平等でないかを指摘することから始まる。 そうして、2001年の正月に、遙さんはこの法律に関するテレビ番組に出演し、旧知の番組スタッフに問われたいう。「で……どうしたらよろしいのん?」 「え?」 「いや、だから、基法の理念はわかるんですが、で、……僕らどうしたらよろしいの?」 彼らは下請けのスタッフだった。つまり、市

    lisagasu
    lisagasu 2009/07/16
    うちは母が私にも弟にも自分が当時好きだった芸能人の名前をつけたつまり名前に願いを込める知恵がなかったので結果的に男女平等でした。ある程度のお金と教育がなければ平等も自由もその発想さえ与えられないよね
  • Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか?

    (6月6日付エントリの続きである、6月8日付エントリの続き) 板坂耀子氏の「私のために戦うな(弦書房、2006年12月25日発行)」の117ページに「ありふれたパターン」と題された章に、こんな記述がある。 昔から恋愛映画のクライマックスになると、どんなに優しくおとなしい男性と強く積極的な女性のカップルでも、男性が女性を抱き寄せ、女性はそれに抵抗し、そして最後には必ず男の胸を押しのけ叩いていた女の手は男の首にからまって、二人はベッドに倒れ込み、結局のところ幸せになる、と指摘する。(略)これまでの映画は、国も時代も問わず、男女のラブシーンといえばまずはもう必ず、男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして最後に女の抵抗が終わってめでたし、という図式を踏襲しつづけてきた。(略)大抵の人間なら、繰り返し見せられれば、恋愛とはこういうものと思い、それに自分を遭わせるように学習するのが普通だろう。「現実が芸術を

    lisagasu
    lisagasu 2009/06/10
    私はエロゲ擁護派だけど表現で傷つく人の気持ちは解る。でも何が「まともな性」かは解らない。自分の性は誰も傷つけないまともな性だと胸はって言える人いるの?まともとやらを教育すれば性で傷つく人はいなくなる?
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