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reviewに関するm-toroiaのブックマーク (8)

  • 『東大入試 至高の国語「第二問」』竹内康浩(朝日新聞出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ずるい」 ほんとうはこの、筆者が書評に取り上げるべきでないのだろう。 竹内氏は筆者の大学時代の同級生であり、テニスのお師匠さんであり(「お、あべ~、スピンかかるようになったじゃん!」というような青春のひとコマがあった)、しかも書には著者の文章が引用されてもいる。これではいかにも、内輪褒め・提灯持ち・我田引水・利権てんこ盛り型書評の典型である。 たしかにそうかもしれないのだが、この、正直言って、いろいろ叩かれそうな気がするし、しかし、自分こそがこのの「いい感じ」をわかってもいるという妙な自信も今回はあるので、どうぞ勘弁してもらいたい。そういうインチキ書評は読まない、という正しい感覚を持っている方はどうぞ読まないでください(最近、偉い先生の書評は、そういうインチキがけっこうありますからね)。 実に変なである。タイトルからして、すばらしく格好いいけどまったく意

    『東大入試 至高の国語「第二問」』竹内康浩(朝日新聞出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    m-toroia
    m-toroia 2008/08/13
     採点むずかしそー
  • 『Architecture : A Very Short Introduction (Very Short Introductions Series) 』Ballantyne, Andrew(Oxford Univ Press) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    m-toroia
    m-toroia 2008/03/04
    「ヴァージルがエクログス」なんだこの訳は。ウェルギリウスの『牧歌』だろ
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ : 『フランス<心霊科学>考-宗教と科学のフロンティア』稲垣直樹(人文書院)

    →紀伊國屋書店で購入 フーコーの「タブロー」が降霊会の「テーブル」に化けた 科学とは何か、その終わりない発展過程を見ていると、それが拠るとされる観察や客観性そのものが時代や文化に規定された「パラダイム」や「エピステーメー」の産物である以上、特殊歴史的なものと知れる。たとえばフェミニズム的関心が急に強大になった1880年前後の性差別的科学が、実はいかに観察と客観性を口実に偏向イデオロギーによってつくりだされた「擬似科学」でしかなかったかを、理論的にはディディ=ユベルマンの『アウラ・ヒステリカ』、素材的にはブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』を通して、驚愕とともに知った。典型はチェーザレ・ロンブローゾの犯罪人類学。名からして既に「学」と呼ぶのはどうかと思われる、“こういう顔の造作の人間には窃盗犯が多い”といった類の「科学」であるが、現にユダヤ人差別や女性蔑視の根拠としてフル活用されたのは、今や

    高山宏の読んで生き、書いて死ぬ : 『フランス<心霊科学>考-宗教と科学のフロンティア』稲垣直樹(人文書院)
    m-toroia
    m-toroia 2008/02/27
    ああこの本ね~。前々から気になっていたけど、高いからなあw 「類書なし。」だと思うけど、題材的にはたとえばデボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』、津城寛文『<霊>の探求』が周辺にあると思う
  • 『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』宮澤淳一(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 これでもう一度、一からのマクルーハン 息せき切ったダミ声の大阪弁で、政財界への講演が一回で何百万という噂もあった時局コメンテータ竹村健一氏の名も姿も知らない学生たちの前で、マクルーハンのことを喋るのも妙なものだ。マクルーハンは、竹村氏のアンテナがピリピリ敏感だった絶頂期、その『マクルーハンの世界-現代文明の質とその未来像』(講談社、1967)で一挙に有名になり、同じ年の「美術手帖」12月号「マクルーハン理論と現代芸術」特集で、大学闘争がいよいよ爆発寸前という時代の、学とアートとがごっちゃになる創造的混沌の季節の代表的ヒーローとなった。1960年代末にかけての世上あげての「クレイジー・ホット・サマー」の何でもミックス、何でもありの、日と世界の知的状況の中で、マクルーハン・カルトとも「マクルーハン詣で」とも称されたメディア論の元祖を位置付けるチャートの巧さに、宮澤淳一

    『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』宮澤淳一(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    m-toroia
    m-toroia 2008/02/22
    2年くらい前M・マクルーハンを濫読していたが、やっぱ読み方間違ってたかな。高山宏、今回は松岡正剛みたいな文章だw
  • 『ドイツ文化史への招待-芸術と社会のあいだ』三谷研爾[編] (大阪大学出版会) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 ドイツ文学かて、やる人、ちゃんとおるやないの ドイツ起源の悠々たる文化史(Kulturgeschichte)を英米圏でマスターし、それをドイツ文化史の側へ恩返しし、カフカ研究を一新したマーク・アンダーソンの『カフカの衣装』(1992)は、例によって英米と独に相わたる上、完全に新しいタイプの「学際的」著作だから、邦訳が急がれるにしろ、一体誰がやるか興味津々だったところ、三谷研爾氏がおやりになり(共訳ではある)、鷲田清一リードによる大阪大学大学院文学研究科が新人文の台風の目になりつつある新しい地図の確かな拠点のひとつが、この人であるのかな、と思っていた。 「いまや若い人たちには縁遠い存在となってしまったドイツ」にもう一度関心を持ってもらおうというオーガナイザー三谷氏の言い分はわかる。ぼく自身関わっている幾つかの大学で、若い人たちの文学離れは目を覆うばかりのものがあるが、と

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    m-toroia
    m-toroia 2008/02/18
    高山宏の文章、最近、毒が抜けている感じがする。ちなみにドイツ語圏では文化人類学は盛んでないらしい(ナチスの反動)。「民族・民俗」学はやや盛り返しつつあるが……
  • 平凡社 改訂新版世界大百科事典

    『改訂新版 世界大百科事典』について 佐藤優 平凡社『世界大百科事典』に対して、私は特別の思いがある。私が中学校一年生のとき、一九七二年のことと記憶している。ある晩、午後一〇時半頃、学習塾から帰ってきた私がテラスハウス型団地二階の三畳間で机に向かっていると、父が帰ってきた。父はブ・ブーとモールス信号のAに相当するようにブザーを鳴らす。普段は、一階の居間でくつろいで、ビールを一杯飲むのだが、この日は、すぐに階段を上がって、私の部屋にやってきた。外の居酒屋で一杯飲んできたのか、少し酒臭い。「優君。百科事典を注文した。二〜三日後に着くから、自由に使いなさい」と言う。 私はそのときは特に嬉しいと思わなかった。私は、小学校六年生のときにアマチュア無線の国家試験に合格し、当時は、通信機の値段がもっとも安い短波の五〇メガヘルツ(六メーターバンド)の通信に熱中していた。五〇メガヘルツでは近距離通信しか

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    m-toroia 2008/01/18
    佐藤優による文章。Wikipediaより優れている点は……「人間は基本的にケチな動物なので、自分でカネを出した書物に書かれている内容は、タダの情報よりも身につく」
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ�:�『都市の詩学―場所の記憶と徴候』田中純(東京大学出版会)

    →紀伊國屋書店で購入 エイデティック(直観像素質者)のみに書ける 人文科学はもはや過去のものという貧血病の負け歌、恨み節は何も今に始まったものではないが、大体済度しがたい語学オンチや無教養人とぼくが見ている連中に限ってそういうことを言っているので、気で聞かない。なに、人文科学はこの四半世紀、かつて見ない自由度と結実の豊穣を見、しかも昔なら何の関係がと思われていたディシプリンの境界あたりで他の知の領域と生産的に混じり合って何とも形容しようのない快と愉悦をうみつつある、ということをぼくなど、浅学の者なりにしたたかに予感し続け、そして現に今、天才田中純による一大スケールの新人文学マニフェストを見て、この予感が的中していたことを改めて心強く実感している。 例えば記憶術が面白いらしいといろいろ「紹介」しても、ハナで嗤われた。ヴンダーカンマーをやらないでどうすると主張しても、渋・種小僧の暇つぶしと

    高山宏の読んで生き、書いて死ぬ�:�『都市の詩学―場所の記憶と徴候』田中純(東京大学出版会)
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    m-toroia 2008/01/17
    「並べるならやはり中沢新一氏だが、田中氏にはこの好敵手にない「精緻な考証」もある」(笑)。現在読書中だが、これは読みやすい上に面白い。高山宏のレビューの的確さを確認する。
  • 『芥川龍之介と腸詰め(ソーセージ)-「鼻」をめぐる明治・大正期のモノと性の文化誌』荒木正純(悠書館) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 鼻で笑えない新歴史学の芥川論 副題を見ると「鼻」白むしかない(何をしようとしているか即わかってしまうからだ)が、メインタイトルを近刊案内で見た時には、あの怪物的大著『ホモ・テキステュアリス』の荒木氏がついに気で「日回帰」の企てに!とワクワクしたのである。荒木正純氏はぼくよりひとつ上。ぼくより少しだけ上の英文学者はどうもろくでもない者ばかりで意に介すこともほとんどないが、唯一の例外が荒木氏である。ポスト構造主義と一括りされる批評全体のトータルに見てそうたいしたこともできなかった動きを代表する論客でありながら、その幼稚な自己満足に陥ることのなかった珍しい才物である。 大変素直な人で、「あとがき」でも「わたしが文学理論に強い関心を抱き・・・テキスト論的読みの実践活動に従事し、地道な個別作家の研究をしてこなかった」とし、表象論および新歴史学によって芥川の『鼻』を切ってみる

    『芥川龍之介と腸詰め(ソーセージ)-「鼻」をめぐる明治・大正期のモノと性の文化誌』荒木正純(悠書館) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    m-toroia
    m-toroia 2008/01/15
    「ウィキペディアなど含めネット検索による情報獲得については、学生たちのレポートの劣化・均質化といったネガティヴ面が危惧されているが、戦略的に使われると凄いもので」
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