なぜにカタカナ語なのか? ついに河野太郎防衛大臣にまで言われてしまった。まあ彼は英語ができるから、これまでは堪え難きを堪えていたのだが、ついに「我慢できずに」言ってしまった――のだと推察する。だって、いくらなんでも、おかしすぎたから。 河野大臣の指摘は、こうだった。 常識的な人だったら、ほぼ全員が同じことを思っていたはずだ(河野大臣のつね日ごろの言動がいかほど常識的かについては、ここではあえて触れない)。 だって、例の「クラスター」から始まって、このコロナ禍の真っ最中に、一体なんの理由や必然性があって、次から次へと政府から「カタカナ語」の数々が「公布」されねばならないのか? しかもそれらは、一般的に見慣れない新語であるか、もしくは「なにやら新しい(&妙な)使いかた」をしているカタカナ語ばかり、なのだ。ゆえに新聞記事などでは、記事中に「新語」の説明や注釈やらがつくことになる。 でも、だったら