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ブックマーク / shogipenclublog.com (7)

  • 谷川浩司九段「そんなことはありません。森さんでよかったんですよ」

    将棋世界1999年3月号、「両親が語る・我が子、村山聖の思い出(前編)」より。インタビュー/構成は大崎善生編集長(当時)。 父 どれだけ将棋に熱中していたんでしょうか。ほとんど初心者しか相手のいない療養所のなかで、だけをたよりに勉強していったようです。小学校3年の頃に月に1日から3日程外泊が許されまして、近所の三、四段の人と指して五分五分になっていました。親戚から近所に強いのがおるからと言われては出かけて行ったりしました。そんな関係で、篠崎教室へ通うようになったのです。篠崎先生もこの子は絶対に強くなると言ってくれまして。丁度この頃、広島将棋センターが開店しまして、そこにも顔を出しました。聖がある日篠崎教室では強くなれんと言いだしましてね。子どもを相手に聖の方が駒を落として指導みたいなことをさせられたりしていたようで、それで段々と広島将棋センターに行く機会が増えていきました。それにしても、

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  • 郷田真隆棋聖(当時)「それよりも何よりも一人の人間として、私はムラヤマヒジリが好きでした」

    将棋世界1998年10月号、郷田真隆棋聖(当時)の村山聖九段追悼文「村山君との思い出」より。 八月十日、将棋連盟で滝先生より村山君の訃報を知らされて、あまりに突然のことに言葉を失くしました。一年、或いはもう一年、体調を戻して元気に復帰してくれるものだとばかり思っていました。 今年の初め、私が対局で大阪に行った時、遊びに来ていた村山君と、後輩の矢倉君と3人で麻雀を打ちました。 それが村山君との最後の思い出になりました。そのあと一度だけ会って少し会話を交わしたのですが、それがいつだったのか、どうしても憶い出せません。 村山君と初めて出会ったのは、昭和五十八年、彼が奨励会入会の二次試験で他の奨励会員と対局している時でした。 私は多分近くで対局していたのだろうと思います。あの独特の風貌に詰め襟の学生服姿が印象的でした。 付き合い出すようになったのは、多分私が二十歳前後の頃からだったと思います。凄い

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  • 山崎隆之四段(当時)「ウソダロ、ナンデダヨ」 将棋ペンクラブログ

    将棋世界1998年10月号、山崎隆之四段(当時)の村山聖九段追悼文「心に残る人」より。 「村山先生が亡くなった」突然の知らせだった。ウソダロ、ナンデダヨ。 「ずっと体調が悪かった事は、”絶対に知られたくない”との人の希望で知らせなかった」心配されるのは好きじゃないみたいだった。病気がハンディと思われるのや同情が大嫌いみたいだった。「知られたくない」か村山先生らしいなっ。 村山先生はお世辞の多いこの世界で僕が天才だのと言われ「オレが天才に見えるか天才が多い世界だなー」とやになっている時「山崎君、弱いですよ」「山崎君も終わりかな」 四段になってからも将棋を見て「山崎君、もうちょっと強かったと思ったけどな」と見たまんまを言ってくれる人でやる気も出るしうれしい気持ちにさせてくれた。歯に衣着せぬ人だったけど根がやさしいから村山先生を嫌いな人なんて聞いた事がない。 よく僕達に事をご馳走してくれた。

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  • 先崎学六段(当時)「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」

    将棋世界1998年10月号、先崎学六段(当時)の村山聖九段追悼文より。 今、僕は東北の温泉に居る。静養のためである。行く前に、三つ、誓を立てた。一、酒を飲まない。二、嫌なことを思い出さない。三、嫌なことに触れない。 そこへ、村山聖が死んだとの知らせが入って来た。死というものは常に意外なものであるが、半ば予期していたことでもあった。 一年位前、彼が、今まで指した将棋の実戦集を出したいといい出し、ついてはどうしても僕に代筆を頼みたいといっているとの噂が入った。将棋指しが将棋指しの実戦集の代文をする。それを書かねば貧窮するわけでもないので断ろうと思ったが、手術の後の微妙な時期に実戦集を出したいということに、彼の迫力を感じ、迷いに迷った。迫力というのはややこしい言葉だが、ありていにいってしまえば、彼は、死期を悟っているなと思った。 深夜の居酒屋で、郷田、中田功と激論を交わしながら、気合で書くことに

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  • 42人の棋士が語る故・村山聖九段

    今日は、村山聖九段の十七回忌の日にあたる。 別冊宝島440号(1999年4月刊行)「将棋これも一局読」より、「故村山聖九段とはどんな男、棋士だったか」。 今回の「現役棋士100人に聞きました」アンケートでは、特別に、平成10年に亡くなった村山聖九段についての設問をもうけてみた。有効回答数は42通。そのすべてをここに掲載させていただく(順不同)。読んでみると、故村山聖九段の人柄が浮かび上がり、それぞれの棋士の「思い」が伝わってきて感慨深い。 米長邦雄 純。幼少より腎機能に弱点があり、つねに死と向い合っていた男。 大内延介 将棋の虫。 青野照市 ともかく才能のあった棋士、そして最後まで勝つことに執念を燃やした男だった。彼が将棋に対するときは、病気をまったく意識しなかったはず。病気を少しでも意識すれば、早く勝とうとして無理な手が出るが、彼にはまったくそういう感じがなかった。ゆえに、病気でなかっ

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  • 真部一男八段(当時)が語る森雞二九段

    将棋世界2004年5月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。 最近一番関心した事。それは森内の二冠奪取ではない。 愛すべき先輩森雞二の驚異の復活である。詳しくは聞いていないのだが、昨年の暮れ頃、転倒した勢いで背面を強打し背骨の軟骨を潰してしまい、長期の入院を余儀なくされてしまったのだ。 順位戦はその時点で2勝4敗、痛い5敗目を不戦敗で喫してしまう破目となる。 順位も良くなく、降級点の心配もでてきた。口には出さねどモリ・ケージ危うしと誰もが思ったことだろう。 ところがである。南海の勝負師、土佐のいごっそうモリ・ケージは、そんじょそこらのヤワな男とは鍛えが違うのだ。 8戦目に気鋭の木村一基七段を175手の大激闘の末にねじ伏せた。両者持時間を使い果たし終局は深夜1時13分。 早指しの森が6時間の将棋で1分将棋になることは珍しく、これが病み上がりで腰にコルセットを装着した男の為し得る業かと感

    真部一男八段(当時)が語る森雞二九段
    maroon_lance
    maroon_lance 2016/11/22
     それから何年経った頃だろう、森さんが「真部君、実はあの時、俺ギャモンを知ってたんだよ」と白状したものだ。
  • 世の中で一番恐ろしい控え室

    YouTubeチャンネル「将棋伝説」、163目の動画は「世の中で一番恐ろしい控え室」です。 将棋会館の控え室では、棋士や奨励会員が集まり、棋譜を並べたり現在進行中の対局を検討したりしています。この控え室でのエピソードはさまざまありますが、今回は「世の中で一番恐ろしい控え室」のお話です。とにかく恐ろしいです。 * * * * * 「将棋伝説」チャンネル、今後も動画が増えていく予定ですので、よろしければ、チャンネル登録をお願いいたします。 →「将棋伝説」 * * * * * →世の中で一番恐ろしい控え室 将棋会館の控え室では、棋士や奨励会員が集まり、棋譜を並べたり現在進行中の対局を検討したりしています。この控え室でのエピソードはさまざまありますが、今回は「世の中で一番恐ろしい控え室」のお話です。とにかく恐ろしいです。将棋ペンクラブログ→→h...

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