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仏教に関するmasakimaruのブックマーク (6)

  • [書評]砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教(金岡秀友・菅沼晃・金岡都): 極東ブログ

    私の書架に「砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教」(金岡秀友・菅沼晃・金岡都)という対談がある。一九七七年の初版だ。ネットの古書店を見ると、まだ入手可能でもあるようだ。内容は標題からわかるが、アフガニスタンの仏教を巡っての話が主軸になっている。アフガニスタンにソ連が侵攻する以前の様子もよくわかって面白い。私がこのを買ったのは、密教への関心から金岡秀友に関心を持っていたことと(参照)、仏教というのはヘレニズム宗教なのではないかという漠たる思いからだった。 世界がタリバンに関心を持つようになってから、私もアフガニスタンのことが気になり、なんとなく折に触れて読み返すことがある。昨日も自室でぼーっとしながら書架を見ていてこのに気がつき、また手に取ってみた。 アフガニスタンの仏教といっても、パキスタン領のガンダーラ地方とも関連が深いように現在の国境で区分されるものではない。パキスタン側の地域シ

  • asahi.com:宮崎哲弥「書評」一覧 - BOOK

    ニート」って言うな! [著]田由紀、内藤朝雄、後藤和智 若者を憎悪している。世の風潮を眺めていると、どうもそうとしか思えない、まったく理不尽な議論が罷(まか)り通っている。 例えば、統計的な確証もなしに、少年犯罪の増加や凶悪化が社会... [全文] [評者]宮崎哲弥 [掲載]2006年03月05日 ゴータマ・ブッダ考 [著]並川孝儀 文献学というのは一見地味だが、実は刺戟(しげき)的な学問分野だ。とくに「仏教とはどのような教えか」を考えるとき、文献学的教養は不可欠といってよい。 何故(なぜ)なら、あらゆる経... [全文] [評者]宮崎哲弥 [掲載]2006年02月05日 自由と社会的抑圧 [著]シモーヌ・ヴェイユ (1)自由と社会的抑圧(シモーヌ・ヴェイユ著、冨原真弓訳) (2)デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ(仲正昌樹著) (3)道元 自己・時間・世界はどのように成

  • 般若心経について: 極東ブログ

    長く難病に苦しんだ生命学者、柳澤桂子が般若心経の現代語訳のような「生きて死ぬ智慧」を出していたのを最近知った。堀文子の絵とリービ英雄の英訳も書籍の企画としてはすばらしいものだ。柳澤桂子の言葉を読みながら、正法眼蔵の摩訶般若波羅蜜の巻なども思い出しながら、なぜこれほど多くの人がこの短い経に心を寄せるのか、あらためて不思議に思った。 宗教学的に考察するなら、般若心経とは、一般に日で理解されているものとはかなり異なるものだ。仏教学者も実際は各教派の下に置かれるから、その教義を離れた厳密な考察はしづらいし、解釈が教義に引かれてしまいがちになる。それでもいいのだろうとも思うし、なにより、研究者には一般社会に語らなくても自明のことがあるものだ。 そうしたこともあり、私もある種自明なこととしてこの件に書くことはなかろうとも思っていた。しかし、こうしたおりについでに少し般若心経についてふれておいてもい

  • 死は別物ということ: 極東ブログ

    死についてはいろいろ考え続け、そして率直に言って自分にはほとんど結論も信念もないのだが、死の恐怖が時折無意識からこみ上げてくることがあるせいか、折に触れて考え続けている。 いくつか問題の下位の構図のようなものはあり、例えば「棺の蓋を閉じて評価が定まる」というのはどうなのだろうか。つまり死という終点が人生の意味を表現するのかということだ。もちろん私のように無名で無意味な人間にとっては、身近な人間以外に私の棺の蓋を閉じる意味もないだろうというのは当然としても。 死のことを書き出したのは、先日のエントリ「極東ブログ: [書評]よせやぃ。(吉隆明)」(参照)の関連だ。私はけっこう吉隆明のを読んできた部類に入るし、彼のアングル以外からも親鸞についてもいろいろな側面で関心を寄せてきた。吉の親鸞論はある程度理解したという感じももっていた。が、次の発言に触れたとき、虚を突かれた感じはした。 「人間

  • 死ぬことは怖いなあという話: 極東ブログ

    46歳のオヤジが言うことじゃないが、世界も宇宙も私という人間の知覚の幻なのではないかと思うことがある。私が死ねば、その意識とともにそれらはすべて崩壊するのではないかと。「我が死後に洪水あれ」と思えるほど、私はこの世界も宇宙も信頼していない。私の死後には世界も宇宙もなくなるのではないだろうか。もちろん、そんなことは常識的にはないのだが、この問題を少年期から今に至るまで問いつめて、そして哲学を学んだ。それでも常識を裏付けることはできなかった。哲学者大森荘蔵のように、世界は宇宙はただひとつだけ存在し私も私という意識も存在しないのだと言ってみたいし、実感してみたい。と、書いてみて、私がそもそも存在せず私の意識とはそのままにして世界であるなら、私の死というものは結局世界の崩壊と同義になる。それでいいのでないか。大森はそう考えていたのだろうか。彼は流れゆく時間もないと言った。つねに意識の今があるばかり

  • 恐山あれこれ日記: 輪廻と業と因果、そして善悪

    輪廻と業と因果、そして善悪 仏教で語られる教説に「輪廻」があります。これは簡単に言ってしまえば、生まれ変わり死に変わりを繰り返すことです。また、どこにどのように生まれ変わるかは、生まれ変わり死に変わりする当事者の、存命中の行いの善し悪しによることになります。この「行い」の善し悪しの「結果」という部分で、「業(=行い)」の教説と結びつき、「業・輪廻説」という具合に、同じ観念として扱われることもあります。 私が思うに、「生まれ変わり死に変わり」で「輪廻」を考えるなら、どう考えても、仏教の「無常・無我・縁起」の教説とは両立しないでしょう。なぜなら、、「生まれ変わり死に変わり」と言う以上は、それが何であれ、「生まれ変わり死に変わり」する当の何ものかの同一性を前提にしないわけにはいかないからです。 この問題は、何も私だけが感じる矛盾ではなく、「無常・無我・縁起」説と「輪廻」説をどう折り合わせるかが、

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