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書評に関するmasakimaruのブックマーク (138)

  • [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー): 極東ブログ

    「プロテスタンティズムの倫理と資主義の精神」(参照)、通称「プロ倫」についてなにかを書こうと思うような日が来ようとは思いもかけなかった。「プロ倫」はただ百遍読めばいいのである。 しかし、馬鹿につける薬はないな、プロ倫を百遍読めとばかりも言えないかもしれないご時世でもある。ま、かく言う私自身がその馬鹿の部類でもあろうから、たまに恥をさらしておくのもいいだろう。 とはいえ、このがなんであるかについてはさすがに省略する。ブログを書く手間はあるが、プロ倫を解説する手間はさすがにない。なので、いくつかティピカルなポイントだけ簡単に記しておく。 カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは何か これを、「神が現世における人間の努力やその成果によって人間を選別し、勝利者を救済し、弱者を地獄に落とす」と理解している人は、およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない。昔なら、岩波文庫で

  • [書評]女と別れた男たち(林秀彦): 極東ブログ

    一九八三年に創林社から出た林秀彦の短編集「女と別れた男たち」だがすでに絶版で現在入手は難しいかもしれない。他にも林秀彦の出していた創林社自体すでに無くなったとも聞く。この短編集は現代に読んでもそれなりに面白い。「生きるための情熱としての殺人」の現代版の映像(参照)も人気になったようだが、こちらも原作は絶版のままではなかったか。林秀彦の主要作品は、中公文庫あたりで復刻されてもよさそうに思うが、どうだろうか。 林秀彦は一九三四年の生まれ。五五年から六〇年にかけてドイツ、フランスで哲学を学ぶ。がその後、テレビ界に入り「七人の刑事」「鳩子の海」などの脚家として時代の寵児となる。と書きながらふと山田太一の生年を見ると同じく三四年だった。山田の場合は一度教師となりそれから三十歳過ぎての脚家。そのせいか、私の記憶では林と山田ではテレビ界で脚光を浴びていた時期は五年から一〇年のずれがあるようにも思う

  • [書評] 自死という生き方 / 須原一秀

    が好き」から頂いた。読んで戸惑う。人間とは「自らの死」にまで、主体性を発揮するものなのだろうかと。 縁の遠い人が、書に書かれていたような理由で死んだ。一昨年の夏の終わりだったか。自殺と聞き、その「死因」となる嫌な話を聞きたくないなと眉を顰めたが、死因はあっけらかんとしたものであった。――人生の楽しみは十分に味わった。後は老けるだけで、自分も嫌だし、人にも迷惑をかける。だから、まだしっかりとしたうちに死にたい。こういう書き置きが、首を吊った自室の机に置かれていたらしい。享年は七十に届くか届かぬかという頃であった。 健康的にも経済的にも人間関係的にも問題はなかったという。話に陰は微塵もない。からりとしている。それ故であろうか、ご家族の立ち直りも早かったらしい。この話を伝えた私の恋人もその死を是とする。このあっけらかんとした感じに、気持ちの悪さを私ははっきりと感じた。が、元より会ったこと

  • 夢かうつつか フジモトマサルが贈る世にも奇妙なウェブ漫画『夢みごこち』

    いきなり私事で恐縮でありますが、筆者は「牧場で太ったプロレスラーのような女性に羽交い絞めにされ、毒物を注射される」という夢をよく見ます。別段そのようなことはされたくないのですが、一体何の意味をもっているのでしょうか。フロイトによると、夢は無意識の顕れで、性衝動の象徴であるとのことですが、余計なお世話です。 夢とは得てして謎めいていたもの。『夢みごこち』(平凡社)は、人気イラストレーター・フジモトマサル氏がオンラインマガジン「ウェブ平凡」で連載していた作品をまとめたものだ。18の夢にまつわるオムニバス・ストーリーで構成されており、それぞれの話は奇妙に連なり、絡まりあい、時間空間を飛び越えて展開されてゆく不思議な漫画だ。登場人物はすべて犬・・羊・獏・ハリネズミ・カンガルーなどの動物で、特に冒頭第一話のひきこもりカモノハシはラブリーでキュート。イラストレーターならではのブレのない筆致で、絵

    夢かうつつか フジモトマサルが贈る世にも奇妙なウェブ漫画『夢みごこち』
  • [書評]内臓が生みだす心(西原克成): 極東ブログ

    このの内容は、とりあえずと限定するのだが、「内臓が生みだす心」(参照)という標題がよく表現している。人の心というものは内臓が生み出すのだというのだ。 現代の医学では人の心は脳が生み出すということになっているから、当然このの主張はトンデモナイといったことになる。実際、書を読まれるとわかるが、あちこちにトンデモナイ話がごろごろとしている。だが、これがそれぞれの端となるトンデモナイ主張をあちこちプチプチとビニールの気泡緩衝材のように潰したところで意味はない。というのは、このトンデモナイ説の背景には、巨大な一つの思想が横たわっており体系となっているからだ。…その話はこのエントリでは、まだ、触れない。なお、書をアマゾンでみたらすでに事実上絶版になっていた。古書では購入できる。追記(2005.10.18):訂正。現時点で「内臓が生みだす心」は絶版にはなっておらず、版元に在庫が十分にあるとの連絡

  • [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他): 極東ブログ

    このところ思うところあって「記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)を読み返した。訳書は一九九八年に発売されたもので、もう七年も前になる。その後読み継がれているふうもないので事実上絶版になったようだが、アマゾンの古書では安価に手に入る。文庫で復刻されるかもしれない。 話は、実記の体裁をとっているが奇譚と言っていいだろう。クレア・シルヴィアというユダヤ人中年女性が脳死の若い男性の心臓と肺を受けて同時移植手術を受けたところ、術後に、移植元の若い男性の性格が乗り移ったり、また睡眠中の夢のなかでその若者にあったり、その若者の記憶が乗り移ったりしたというのだ。通常、移植手術を受けた人はもとの脳死者の情報を得ることができないが、彼女は夢で知った若者の名前を手がかりに人を突き止め、その家族に出会うことになる。 そんな話がありえるだろうか、臓器にそれ自身の記憶が宿り、移植手

  • 書評|和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

    和田秀樹さんのブログテーマ、「書評」の記事一覧ページです。

  • ブックワン BK1

  • オンライン書店ビーケーワン:エイリアンズ 論壇外知性体による「侵犯」的時評’03−’04 M2 3「社会問題に関心のない二人の時事放談」

  • 宮崎哲弥08.flv

  • 宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風舎 - kanjinaiのブログ

    限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 作者: 宮台真司,北田暁大出版社/メーカー: 双風舎発売日: 2005/10/22メディア: 単行購入: 2人 クリック: 82回この商品を含むブログ (128件) を見る 2005年12月4日岐阜新聞ほか(共同通信)掲載 評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/) トリッキーな言論で話題を振りまく社会学者の宮台真司と、新進気鋭の北田暁大が、がっぷりと四つに組んでしゃべりまくった対談である。二人は、互いの発言を横目で見ながら、自説を怒濤のように展開する。このドライブ感を楽しめるかどうかが分かれ目だが、評者は多くの知的刺激を受けながら読み進めることができた。 まず北田が、宮台の思想的転向はほんとうにそれでよいのか、と詰め寄る。宮台は、かつてはブルセラ制服少女の生き方を称揚し、意味なんか求めずに、今をまったり

    宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風舎 - kanjinaiのブログ
  • 心情倫理と責任倫理 : 池田信夫 blog

    2010年11月23日22:31 カテゴリ法/政治 心情倫理と責任倫理 北朝鮮韓国を砲撃した。今のところ局地戦にとどまるようだが、政権移行にともなう不安定な状況は予断を許さない。まさに国家が暴力装置に他ならないことを示す事件である。思い出して、学生時代以来ひさしぶりにウェーバーを読み返してみた。問題の記述は、岩波文庫版では次のようになっている:国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲でしか物理的暴力行使の権利が認められない[・・・](p.9 強調は原文)ここでウェーバーが「物理的」と書いているように、このGewaltは殺傷能力であり、間接的な「強制力」ではない。念のためいうと、彼は「暴力装置」という言葉は使っておらず、これはレーニンが『国家と革命』(1917)で使った

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  • サンデルの政治哲学 : 池田信夫 blog

    2010年12月14日08:10 カテゴリ法/政治 サンデルの政治哲学 先週、自由が丘の屋に行ったら、入口のところに『ハーバード白熱教室講義録』と書が山のように積まれていて驚いた。日人の感覚に合うとは思えないアメリカ的な政治哲学がこんなに受けるのは不思議な現象だが、『講義録』は『これからの「正義」の話をしよう』と内容がほとんど同じで、前著を読んだ人が買う価値はない。 サンデルを格的に勉強しようと思う人は『リベラリズムと正義の限界』を読むかもしれないが、これは細密なロールズ批判なので、『正義論』を読んでいないと何を論じているのかわからないと思う。またロールズもサンデルもその後、立場を変えたので、最近の議論までコンパクトに紹介している書が便利だ。 わかりやすいのは、サンデルの立場を師匠のテイラーまでさかのぼって整理し、ヘーゲリアンであるテイラーの思想から説明している点だ。テイラーを

    サンデルの政治哲学 : 池田信夫 blog
  • 今年のベスト10(本) : 池田信夫 blog

    2010年12月18日13:10 カテゴリ 今年のベスト10() 今年のベストワンは、文句なしに1。研究者はみんな原著で読んでいるだろうが、契約理論の古典が15年ぶりに翻訳されたのはめでたい。不完備契約とか残余請求権といった訳語は日語としてはまずいが、現代の企業組織やガバナンスを理解する上で不可欠の概念である。 2は2008年の金融危機をグローバルな視野から分析するもので、今のところこの種ののベスト。3は昨年のだが、Northが経済史を「暴力」の概念で再構築しようという意欲作。4は教科書だが、生産性を技術よりも人的資源の観点からとらえている。5は知的財産権を全面的に否定する問題作。企業 契約 金融構造 Fault Lines Violence and Social Orders 経済成長 <反>知的独占 自我の源泉 The Microtheory of Innovative En

    今年のベスト10(本) : 池田信夫 blog
  • 市民社会とは何か : 池田信夫 blog

    2010年12月28日18:56 カテゴリ経済 市民社会とは何か 民主党政権が迷走するのは、自民党のように既得権保護という一貫した方針がないためで、必ずしも悪いことではない。問題は、既得権に代わる理念を彼らがもっていないことだ。しかしそのヒントは、菅首相や仙谷官房長官の学生時代にあるかもしれない。 彼らが所属した構造改革派は、全共闘の主流だったマルクス=レーニン主義とは違い、議会主義によって権力を取る穏健派だった。特に菅氏が創立に参加した社会市民連合(のちの社会民主連合)は、その名のとおり、プロレタリアートではなく市民を変革の主体とする新しい党だった。書は、こうした「市民派」の依拠する市民社会の概念をアリストテレスにさかのぼって検証し、その日的なバイアスを明らかにしている。 市民社会(societas civitas)という言葉は、古代ギリシャではポリスの「国家共同体」という意味で、

    市民社会とは何か : 池田信夫 blog
  • モダニティの神学的起源 : 池田信夫 blog

    2011年01月03日14:40 カテゴリ科学/文化 モダニティの神学的起源 サンデルの流行が、日人があらためて個人主義や自由主義を勉強しなおさなければならないと自覚したことを示しているのだとすれば、とてもいいことだ。しかし問題は、こうした啓蒙的な価値が普遍的なものかどうかということである。書はこの問題について「否」という答を出して論議を呼んだ。 啓蒙主義は、一般にはキリスト教を否定して出てきたと考えられているが、著者もいうようにこれは逆である。むしろ啓蒙的無神論は、キリスト教の論理的帰結なのだ。これはウェーバーが『古代ユダヤ教』で論じたテーマである。不可視の神のみが真の実在で他はすべて虚妄だという世界観は、神を疑うと全面的なニヒリズムになってしまう。 この点を数百年に及ぶ論争で明らかにしたのが、普遍論争である。著者によれば、それは唯名論と実在論の論争ではなく、スコラ神学に対する論理

    モダニティの神学的起源 : 池田信夫 blog
  • 美徳なき時代 : 池田信夫 blog

    2011年01月06日11:07 カテゴリ科学/文化 美徳なき時代 日がいま直面している問題は、大きくいえば「啓蒙なき近代化」の挫折だろう。経済発展のためには、自由主義よりも国家資主義のほうが効率的な場合もあるが、経済が成熟すると行き詰まる。社会を自律的に軌道修正するメカニズムを内蔵していないからだ。会社という「家族」で人々を統合する日型コーポラティズムも、残念ながらもはや持続可能ではない。 だとすれば、あらためて啓蒙とは何かを考え直すことは避けられない。書は道徳哲学の観点から啓蒙の失敗を批判し、その現代版としてロールズとノージックを批判して、その後の論争の出発点になったコミュニタリアニズムの原典である(第1版は1981年)。サンデルの議論は書の焼き直しであり、彼のに出てくるアリストテレスの話も書がネタ元だ。 著者(マッキンタイア)によれば、啓蒙は倫理思想としては破産してい

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  • 新しい重商主義 : 池田信夫 blog

    2011年01月14日00:21 カテゴリ経済 新しい重商主義 アゴラ連続セミナーで、今週は『国富論』を読んだ。私は学生時代に買った中央公論社の「世界の名著」が全訳だと思っていたのだが、今回はじめてそれが抄訳だと知り、この山岡訳を最後まで読んだ。 これまでのスミス論は、堂目卓生氏のように、大部分が「見えざる手」の解釈論に費やされているが、これは書に1ヶ所しか出てこないし、その意味もまったく説明されていない。それをどう解釈するかが「スミス問題」として知られているが、私の印象では、これは的はずれな問題設定だと思う。 最初から最後まで読めばわかるように、山岡訳で上下巻1000ページの半分以上は重商主義批判である。これは常識的にはもう終わった話で、現代の先進国で重商主義を標榜している国はなく、WTOに代表される自由貿易主義が原則である。その元祖がもちろんスミスで、書はその通説的な立場からの過

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  • 資本主義の不安 : 池田信夫 blog

    2011年01月19日13:19 カテゴリ経済 資主義の不安 きのうのアゴラ連続セミナーでは『資論』を読んだ。この準備のために、10年ぶりぐらいに訳を読んだが、あらためてすごいだと思った。といっても、昨今のマルクスのように「プレカリアートの味方」だとか「人間疎外を告発した」とかいう話ではない。マルクスは、そういう凡庸な平等主義を否定していた。 一般には、マルクスの価値論はリカードの焼き直しだと思われているが、廣松渉も指摘するように、彼は価値実体論を疑い、あと一歩で労働価値説を否定するところまで行っている。たとえば等価形態を説明する部分には、有名な次のような叙述がある:この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが彼らは反対に、彼が王だから自分たちは臣下だと思うのである。これは「価値は距離のようなもので、一物の価値というのはありえない」と

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  • 戦後知の可能性 : 池田信夫 blog

    2011年01月24日22:24 カテゴリ科学/文化 戦後知の可能性 タイトルの「戦後知」とは、編者によれば「敗戦直後から日社会の現実に向き合って、社会の変革にかかわろうとしてきた啓蒙的知識人の系譜」だという。この自己規定にもあらわれているように、書は丸山眞男や竹内好など10人の「進歩的知識人」を取り上げて、その再評価を試みたものだ。 論文集としては成功しているとはいいがたいが、ざっと読んで印象的なのは、対象となる「啓蒙的知識人」が共通にマルクス主義の強い影響を受けていることだ。もっともその影響の希薄な丸山でさえ、「講座派的近代主義」の一種ともいえる。吉隆明や網野善彦はマルクス主義者であり、村上重良は共産党員だった。もっとも若い世代の柄谷行人でさえ、マルクスの影響を脱却できていない。 もう一つの共通点は、「西欧近代」に対するあこがれと反発のアンビヴァレンスだ。丸山のようにもっともモ

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