2006年10月14日のブックマーク (4件)

  • 10月13日 - PLAYWORKS岸井大輔ブログ:楽天ブログ

  • i feel-ブックレビュー:北田暁大「万博なき日常を生きろ」

    愛知万博(愛・地球博)が二〇〇五年九月末に閉幕した。筑波万博の微妙な失敗など素知らぬ顔で、予想をはるかに越える興業的成功を収めた。入場者数は総計二二〇〇万人、一〇回以上会場に足を運んだというリピーターも少なからずいたようで、モリゾー、キッコロというファンシーなキャラクターは、閉幕後の今もなお根強い人気を集めている。 最先端の科学技術のありようを無邪気に肯定するでもなく、それでいて「人類と自然との調和」などというお題目を現象化させているとも言いがたい。なんというか、そう、政府が関与した巨大な物産展――デパ地下と表現したほうがいいかもしれない――のような面持ちであった。 伝え聞く大阪博の国民的な熱狂や、沖縄海洋博の国土システムへの野心、筑波万博の科学への欲望などはうかがえず、名古屋に企画限定で設置されたテーマパークのようなものとして、ディズニーランドなき周辺地域の人びとに愛されていたように映る

  • 北田暁大(『国家とはなにか』萱野稔人)

    政治哲学の根問題は、苟も何らかの国家がなければならないのかどうかにあり、この問題は国家がいかに組織されるべきかの問題に先行する」とロバート・ノージックは言った。それは、国家なるものの存在を与件としたうえで、その組織の仕方や機能のあり方を検討する政治哲学への異議申し立て、政治哲学の「心理学化」「社会学化」に対する警鐘であったといえる。 現実の国家状態を前提としつつ、その機能を抽出し、機能の円滑な実現を目指したり、国家をとり巻く環境と照らしあわせることによって、「よりましな」国家のあり方を模索したりするタイプの国家論。ノージックは、そうした国家論が見えにくくしている根問題を掘り下げ、独自のリバタリアニズムを構築していった。このノージックの方法論的なラディカリズムは今なお理論的な魅力を失ってはいない。 しかし、ノージックの問題提起から三十年たった、私たちをとり巻く言説環境において、国家は奇

  • i feel-ブックレビュー 北田暁大(『カーニバル化する社会』鈴木謙介)

    若者――と世代的利害を共有する語り手――による若者論というのは、「論壇」と呼ばれる奇妙な言説空間のなかで、つねにある種の特権性を与えられ続けてきた。先行世代の実感主義、体験主義に対して、それには回収されない若者のリアリティを突き付け、自らの言説の説得力と信憑性を担保していく……。小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』が詳らかにしたように、戦争体験の有無、濃度の世代的差異が「戦後思想」の磁場を形成してきたわけだし、「ポスト戦後思想」に位置づく(はずの)全共闘もまた、たとえば大塚英志のような後続世代によって、その世代的イデオロギーを糾弾されることとなった。 古代エジプトからあったといわれる世代語りだが、それは、社会が社会自身をたえず自己言及的に観察し続ける再帰的な近代社会において、加速されていく。世代論とは、不透明で複雑な社会のなかで「存在論的安心」(ギデンズ)を得るための、社会的装置なのである。 鈴