ブックマーク / mmmmmmmm.hatenablog.jp (2)

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    四世井上八千代が亡くなった時のNHKの特別番組を、VHSの3倍録画からまず一度デジカメに移し、それをPCでキャプチャーしてDVDに落として宝物にする作業にようやく手をつけ、それで何となくTVをつけたら立花隆がアメリカのサイボーグ技術の最先端をレポートするドキュメンタリーをやっていた(2005年に制作されたやつの再放送)。もうかなり終わりに近かったのだが、今や脳に電極を埋め込んで電気信号を直接取り出し、それによって義手を動かせるばかりか、脳からケーブルをコンピューターにつないで画面に線を描いたり、TVのスイッチを入れてチャンネルを変えたりできていて、目が釘付けだった。何やら相当にヤバい、しかしこの「ヤバい」って気持ちは一体何なんだろうと思ったりしていたら、追い討ちをかけるかの如く、今度は逆に、脳の電極に直接電気信号を送り込んでマウスを自由自在に操っている映像が出てきた。運動を司る脳の一部分に

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    matterhorn
    matterhorn 2006/11/05
    価値の価値
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    「スター」システムをはじめとするスペクタクルは、それ自体と「観客」との関係を固定し再生産しようとする。いいかえれば、ある「対象」を「見る」ことが人々にとって自明で疑う余地のないものになった時、スペクタクルと「観客」が同時に生まれるのだといえる。だからスペクタクルへの批判は、何よりまず、それを見ることが人々にとって自明でない状況下で始められる。つまり観照(theoria)と実践(praxis)が分化する前の、もっぱら実践が支配する、生活という文脈から、ということになる。劇場とは基的に、観照と実践の分断を固定する制度であり、舞台に立つ人は観客の集中的な関心にさらされるリスクを負うけれども、その一方で、全く見向きもされないという危険からは免れている点では最高度に安全ともいえる。劇場を選ぶかどうかとは必ずしも同じことではないが、ともかく「生活」にさらされない表現は、多かれ少なかれスペクタクルに守

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