ぼくの嫌いな言い回しにこういうタイプのものがあります。いわく、「生活保護を批判する奴は、もし自分がそれを受けざるを得ない状況になったら、ということを考えていない」。 誰か「もし自分が生活保護を受けざるを得なくなったらどうするのか? 生活保護の基準引き下げには絶対に反対しなくてはならない」 ぼく「死にます」 誰か「え」 ぼく「生活保護を受けるような事態になったら、そんなの受けないで死にます」 誰か「」 ぼくはほんとうに、そんな事態になったらまー死ぬかーと考えているんですけど。別に理解される必要もないと思ってますけど。それはそれとして、ここで"誰か"の反応パターンを3通りぐらいぼくは想定します。 「そんなことあるわけがない。そうなったらあなただって生活保護を受けるに決まっている。だから基準引き下げには反対しなくてはならないのだ」 「あなたとは対話が成立しないようだ」(打ち切って他へ行く) 「そ
私が「差別の絵画は絶対ダメ」とは感じないのは、けっきょく「差別は絶対ダメ」とは考えていないからなのだろうか? 話がややこしくなるが: そうすると、たとえば「体罰の絵画は絶対ダメ」とはまったく感じない私は、けっきょく「体罰は絶対ダメ」とは考えていないのか、というと、そうではないと思う。 というふうにして、体罰の実行と体罰を描いた絵画はまったく異なるが、差別の実行と差別を描いた絵画はけっこう似ている、ということに気付かされる! 「その行いが差別かどうか」は要するに曖昧なのではないか。「その行いが体罰かどうか」に曖昧なところがまずないのに比べて。 私は、会田誠の「犬」シリーズを見て「面白い」と思う。そしてそんな自分に曖昧な後ろめたさをおぼえる。それはきっと、「これは差別ではないんだ」と信じる気持ちと、「これは差別かもしれない」と疑う気持ちとが、混在しているせいなのだ。 絵画の専門家ではなく差別の
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く