世良 修蔵(せら しゅうぞう)は、幕末の長州藩士。 奇兵隊士として鳥羽・伏見の戦いに参加した。その後、奥羽鎮撫総督府下参謀となり、会津藩討伐を主張した。新政府軍方への密書の内容に激怒した仙台藩士によって暗殺された。その死によって、当初受理されていた会津藩の助命嘆願が撤回され、会津戦争で徹底攻戦される原因となった。 天保6年(1835年)、 周防国大島郡椋野村の庄屋・中司家の子として誕生。 17歳の時、萩藩の藩校である明倫館に学び、後に大畠村で月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。さらに江戸で儒者・安井息軒の三計塾に学び、塾長代理をつとめた。その後、周防国阿月領主・浦靱負が開設した私塾・克己堂の兵学などの講師として仕官し浦家の家臣(陪臣)となった[注釈 1]。 下関戦争敗戦後に長州藩において奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の赤禰武人の招聘を受けて、文久3年(1863年)ごろに奇