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2012年3月28日のブックマーク (98件)

  • ワスプ級強襲揚陸艦 - Wikipedia

    ワスプ級強襲揚陸艦(ワスプきゅうきょうしゅうようりくかん、英語: Wasp-class amphibious assault ship)は、アメリカ海軍の強襲揚陸艦 (LHD) の艦級[1][2]。 先行するタラワ級の拡大強化型として、1984年度から1996年度計画で7隻が建造された。その後、2002年度計画で更に1隻が追加されたが、こちらは大規模な設計変更がなされており[3]、続くアメリカ級のベースになった[2][4]。 来歴[編集] ヘリコプターの発達を受けて、アメリカ海兵隊では水陸両用作戦でのヘリボーン戦術の有用性に着目し、海軍もその洋上拠点となるヘリ空母についての検討に着手した。実験的に護衛空母「セティス・ベイ」を改装したのち、まず1958年度より、ヘリコプター揚陸艦(LPH)としてイオー・ジマ級7隻が建造された。またこれと並行して、ヘリコプターの運用能力は妥協しつつ、上陸用舟艇

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  • タラワ級強襲揚陸艦 - Wikipedia

    タラワ級強襲揚陸艦(タラワきゅうきょうしゅうようりくかん、英語: Tarawa-class amphibious assault ship)は、アメリカ海軍の強襲揚陸艦(LHA)の艦級[1][2]。 1969年度から1971年度で計5隻が建造され、全通飛行甲板による航空運用機能とウェルドックによる上陸用舟艇の運用機能を兼ね備えた新しい揚陸艦として活躍したが、新型舟艇・航空機に適合しにくい部分があり、2015年までに運用を終了した[3]。基計画番号はSCB-410[4][5]。 来歴[編集] LPHとLPDの誕生[編集] ヘリコプターの発達を受けて、アメリカ海兵隊では水陸両用作戦でのヘリボーン戦術の活用について模索していた。また海軍も、その洋上拠点となるヘリ空母についての検討を進めており、当初はAPA-Mと仮称されていた。実験的に護衛空母「セティス・ベイ」を改装したのち、まず1958年度か

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  • イオー・ジマ級強襲揚陸艦 - Wikipedia

    イオー・ジマ級強襲揚陸艦(イオージマきゅうきょうしゅうようりくかん、英語: Iwo Jima-class amphibious assault ship)は、アメリカ海軍の強襲揚陸艦(ヘリコプター揚陸艦: LPH)の艦級[1]。世界初の新造ヘリ空母として[2]、1958年度から1966年度で計7隻が建造された。ネームシップの建造単価は約4000万ドル[3]。基計画番号は、初期型がSCB-157、後期建造艦がSCB-157A[4]。 来歴[編集] APA-MとCVHA[編集] ヘリコプターの発達を受けて、アメリカ海兵隊では、これを水陸両用作戦で活用するための研究を進めていた。これはヘリボーンの戦術的な利点を活かすと同時に核戦争への対応策としての面もあり、部隊の集結・散開を迅速に行えるために戦術核兵器の標的になりにくいこと、また放射性物質を含んだ津波の影響も避けやすいことなどが評価された。1

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  • 強襲揚陸艦 - Wikipedia

    スペイン海軍「フアン・カルロス1世」。全通飛行甲板とウェルドックを備えている。 強襲揚陸艦(きょうしゅうようりくかん、英語: Amphibious assault ship)は、揚陸艦の一種。元々は全通飛行甲板を備えたヘリコプター揚陸艦(LPH)を指していたが、後にウェルドックを備えたLHA (Landing helicopter assault) やLHD (Landing helicopter dock) が登場すると、これらも含まれるようになった[1][2]。 大戦中の試み[編集] 大日帝国陸軍では、海軍の航空母艦とは別途に、類似した機能を備えた陸軍特殊船を建造していた。これらは上陸用舟艇と飛行機の両方を搭載する上陸戦用の特殊輸送船であり、上陸部隊を乗せた舟艇を発進させると同時に搭載機をも船上から発進させ、泊地の防空や敵陣地の偵察のほか、攻撃に使用するという構想であった[3]。 ま

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  • 北アメリカ星雲 - Wikipedia

    アメリカ星雲(きたあめりかせいうん、NGC 7000、Sh2-117、Caldwell 20)は、はくちょう座の尾部、デネブの近くに見える散光星雲である。18世紀の天文学者ウィリアム・ハーシェルによって発見された。形が北アメリカ大陸に似ているところから名づけられた。見かけの大きさは面積にして満月の十倍ほどと広大であるが、暗いため肉眼での観測は余程空の暗い場所でもなければ、ほぼ不可能である。ある程度の口径と広視界を持つ双眼鏡を使えば、しみのような星雲の姿を観測することができる。赤い星雲の姿を確認するには写真撮影する必要がある。 実際には、北アメリカ星雲とその隣にあるペリカン星雲とは、電離した水素からなる同一の星間雲の一部である。星雲と太陽系の間には別の宇宙塵を多く含む暗黒星雲の帯があり、これが星と星雲の光を吸収するため我々の知る星雲の形となっている。星雲までの距離は特定されていない。この星

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  • 網状星雲 - Wikipedia

    網状星雲(Veil Nebula 、NGC 6992-5、NGC 6960)は、はくちょう座ε星の3°から5°ほど南に東西に約3°の間隔で向かい合った半弧状の散光星雲である。 明るい東側がNGC 6992-5 (C33) 、西側がNGC 6960 (C34) であり、数万年前に爆発した超新星残骸のガスが毎秒100kmで広がっている姿だと考えられている。肉眼ではたいへん淡いがカラー写真にはよく写る。近傍のIC 1340と併せてはくちょう座ループ[4](Cygnus Loop )と呼ばれることがある。 脚注[編集] ^ 『理科年表 国立天文台編』(平成25年 第86冊)丸善出版、131頁頁。ISBN 978-4-621-08606-3。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for Veil Nebula. 2015年6月22日閲覧。 ^

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  • ω星団 - Wikipedia

    ω星団(おめがせいだん、NGC 5139、Caldwell 80、Melotte 118)は、ケンタウルス座にある大型の球状星団である。肉眼で見ることができる数少ない球状星団のうちでも最大級のものとされている。 ω星団は地球から17,000光年の距離にある。 1000万個もの恒星の集団で、中心の星は互いに0.1光年ほどしか離れていない超高密度の球状星団であると考えられている。また、他の球状星団とは違って、星生成が行われている。 それには、小型銀河が銀河系により吸収され、その中心部が銀河の周りを回り始めたためだという説がある。 観測[編集] 紀元前2世紀にトレミーが著書アルマゲストの中で、ケンタウルス座を形作る星の一つとして記録している。17世紀に入り、ヨハン・バイエルが著書ウラノメトリアの中で、この天体にω星のバイエル符号を与えたため、現在も「ω星団」と呼ばれている。 1677年、南大西洋

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  • ケンタウルス座A - Wikipedia

    ケンタウルス座A(NGC 5128、Caldwell 77)は、ケンタウルス座に位置する電波銀河である。 ジョン・ボルトンらによって、ケンタウルス座Aとして知られていた電波源がNGC5128と一致していることが確認された[1]。 2つの銀河が衝突している現場であり、また太陽が放出している光エネルギーの5,000万倍の電波エネルギーを放出している強い電波源であることが知られている[1]。 これまでの観測では、銀河の衝突によりスターバーストが起きていることや巨大な宇宙ジェットが観測されていることなどから、中心に太陽の1千万倍の質量を持つ超大質量ブラックホールがあると考えられている。 口径8cmの望遠鏡では丸い形に中央東側から黒い切れ込みが入っているように見える[1]。 画像[編集] 出典[編集] ^ a b c d e f g 藤井旭『全天星雲星団ガイドブック』誠文堂新光社 1978年。ISB

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  • 木星状星雲 - Wikipedia

    木星状星雲(もくせいじょうせいうん、NGC 3242、Caldwell 59)は、うみへび座の惑星状星雲である。うみへび座μ星の約2度南に位置している[1]。 ウィリアム・ハーシェルが1785年2月7日に発見した。「大きさといい、色といい、見え方といい、木星そっくりだ」と感想を述べたウィリアム・ヘンリー・スミスにより名付けられた[1]。 ほぼ円形であるため低倍率では恒星のように見えるので、倍率を上げて見る必要がある[1]。

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  • エスキモー星雲 - Wikipedia

    エスキモー星雲(エスキモーせいうん、NGC2392、Caldwell 39)は、ふたご座の惑星状星雲である。ふたご座δ星の約2.3度南東に位置する。1787年にウィリアム・ハーシェルによって発見された。地上の望遠鏡で観測すると、毛皮のフードを被ったエスキモーのような特徴的な形をしていることからこの名が付けられている。アマチュア向けの望遠鏡ならば見ることができるが、低倍率では恒星と判別がつきにくい。100倍以上の倍率で星雲状に見える。 特徴[編集] 太陽と同程度の質量の恒星が赤色巨星に進化し、その後の質量放出段階で現在から約10,000年前に放出されたガスによって形成されたと考えられている。星雲の外側には、惑星状星雲には珍しく、オレンジ色の細長いフィラメントが放射状に存在する。このフィラメントは数光年にわたる長さを持っている。 名称[編集] 2020年8月5日、アメリカ航空宇宙局 (NASA

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  • コーン星雲 - Wikipedia

    コーン星雲[4](コーンせいうん、英:Cone Nebula )は、NGC 2264 (en) を構成する4つの天体の一つで、HII領域である。いっかくじゅう座方向にある。1785年12月26日にウィリアム・ハーシェルが発見し、ハーシェルによりH V.27と命名された。 円錐形状(コーン)をしているためこの名で呼ばれている。円錐の長さは7光年に達する[2]。主に古い年代の文献の中に「とうもろこし星雲」と呼称しているものがある[5]が、これは円錐(Cone)とトウモロコシ(Corn)を混同した誤訳である。 コーン星雲の周りはクリスマスツリー星団 (Christmas Tree Cluster) が取り囲んでいる。ニュージェネラルカタログの定義によるとNGC 2264は星雲だけではなく、クリスマスツリー星団を含んだ呼称である。 南はNGC 2264の南端から、北は3.9等級で輝くクリスマスツリ

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  • ばら星雲 - Wikipedia

    ばら星雲[3][2](ばらせいうん、英: The Rosette Nebula 、NGC 2237-9, 2246、Caldwell 49)は、いっかくじゅう座の方向にある散光星雲(HII領域)である。赤いバラの花飾り(ロゼット)のような姿であることから「ばら星雲(バラ星雲[4])」とよばれている。 概要[編集] NGC番号は 2237、2238、2239、及び 2246である[3]。ばら星雲全体はウィリアム・ハーシェルが発見した[1]が、NGC 2237と2246はスウィフト、NGC 2238はマース、NGC 2239はジョン・ハーシェルがそれぞれ個別に発見している[1]。 おおよそオリオン座α星ベテルギウスからこいぬ座α星プロキオンに向かって1/3ほど行った冬の天の川の中、いっかくじゅう座12番星を中心とする散開星団NGC 2244の周囲に広がっている。眼では感じにくいHα線の成分が強

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  • タランチュラ星雲 - Wikipedia

    ランチュラ星雲(タランチュラせいうん、Tarantula Nebula、別名かじき座30(30 Doradus)[5])は、大マゼラン雲のHII領域の輝線星雲である[5]。中心には太陽の150倍以上にもなる大質量星が複数存在しており、星形成の過程を研究するのに最適な場所と言える[5]。これまでタランチュラ星雲では、80万個以上の星の形成があったと試算されている[5]。欧州宇宙機関(ESA)の研究者Guido De Marchiは、タランチュラ星雲は多くの星々が誕生した100億年前の宇宙の特性を備えていると話しており、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の教授Tony Wongは、タランチュラ星雲が今日においても星形成活動を行えているのは天文学における大きな謎のひとつとしている[5]。 タランチュラ星雲にある恒星は莫大な量の紫外線や恒星風を放出している。 この星雲はニコラ=ルイ・ド・ラカー

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  • カリフォルニア星雲 - Wikipedia

    カリフォルニア星雲(NGC 1499)は、ペルセウス座にある散光星雲である。 長時間露光で撮影された写真で見ると、形がアメリカ合衆国のカリフォルニア州によく似ているためにこの名が付けられている。ペルセウス座ξ星のすぐ北に位置するが、表面輝度は非常に低いためにほとんど肉眼では見ることができない。写真に撮影すると赤い星雲の姿を写すことができる。 カリフォルニア星雲はエドワード・エマーソン・バーナードによって1884年に発見された。 出典[編集] ^ 藤井旭『全天星雲星団ガイドブック』誠文堂新光社 1978年。 ^ a b c d e “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NGC 1499. 2012年5月3日閲覧。 外部リンク[編集] NGC 1499 - SEDS

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  • キャッツアイ星雲 - Wikipedia

    キャッツアイ星雲[2](キャッツアイせいうん、NGC 6543、Caldwell 6)は、りゅう座にある惑星状星雲[1]である。現在知られている中で最も構造が複雑な星雲の一つであり、ハッブル宇宙望遠鏡による高解像度の観測によって、ノットやジェット、弧のような形など、注目すべき構造が明らかにされている。 キャッツアイ星雲は、ウィリアム・ハーシェルによって1786年2月15日に発見された。また、イギリスのアマチュア天文家であるウィリアム・ハギンズによって、1864年に惑星状星雲として初めてプリズム分光法によりスペクトルが詳しく調査された。 近年の研究によって、いくつかの謎が解明されている。構造が複雑なのは、中心にある連星系の星からの質量放出過程に原因の一部があるのかもしれないが、今のところは中心星が連星であるという直接的な証拠は見つかっていない。また、元素の存在量は、2つの異なる方法で測定した

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  • きょしちょう座47 - Wikipedia

    きょしちょう座47(NGC 104、Caldwell 106、、Melotte 1)は、きょしちょう座にある球状星団である。実視等級が4.0等と明るく、ケンタウルス座のω星団とともに肉眼で見ることができる球状星団の一つである[3]。 概要[編集] 1751年にニコラ・ルイ・ド・ラカーユによって星表に記されるまではヨーロッパ人には知られていなかった[3]。この星団の視直径はほぼ満月の大きさに等しい。天球上では同じきょしちょう座の小マゼラン雲のごく近くに位置するが、小マゼラン雲(距離約20万光年)に属する天体ではない。 星団の中心部に非常に明るく高密度の中心核を持つことで知られている。また、22個のミリ秒パルサーが存在することが分かっている。 名称[編集] 初めは恒星として「きょしちょう座47番」という番号が与えられて星表に記載された。これ以来、球状星団であることが分かった現在でもこの名前で呼

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  • NGC 55 - Wikipedia

    NGC 55(Caldwell 72)は、ちょうこくしつ座に位置する銀河である。1826年7月7日にジェイムズ・ダンロップによって発見された[4]。 日国内で見える銀河としてはアンドロメダ銀河、さんかく座銀河に次いで明るいが、東京での南中高度15度ほどと南に低いことから目立たない存在となっている[1]。 出典[編集] ^ a b c d 藤井旭『全天星雲星団ガイドブック』誠文堂新光社 1978年。ISBN 4-416-27800-4 ^ a b c d e “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NGC 55. 2012年5月5日閲覧。 ^ a b c “NASA/IPAC Extragalactic Database”. Results for NGC 0055. 2019年9月6日閲覧。 ^ Celestial Atlas NGC 55

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  • ニュージェネラルカタログ - Wikipedia

    ニュージェネラルカタログ[1](New General Catalogue[1] )は、ジェネラルカタログにジョン・ドレイヤーが追補して1888年に発表したもので[2]、全部で7,840個の星雲、星団や銀河などの天体が載っている天体カタログである[2]。略してNGCと呼ばれることが多い[1][2]。 新一般カタログ[1]、New General Catalogue of Nebulae and Clusters of Stars[1](星雲と星団の新一般カタログ[1])とも呼ばれる。 番号は1860年の分点に基づいた天体の赤経の小さい順に付けられている[2]。なお、ドレイヤーがNGCを補遺するために作ったカタログがインデックスカタログ (IC) である[2]。 現在用いられているものは、NGCカタログをもとに作られたRevised NGC(RNGC)、NGC 2000.0、NGC/ICであ

  • かごめかごめ - Wikipedia

    鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市の歌が全国へと伝わり現在に至った。野田市が発祥地といわれることから、東武野田線の清水公園駅の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。 「被差別部落を扱った歌とされ、東京では放送できるが大阪では放送できない」などと言われたこともあったようだが[3]、根拠のない俗説であり、現在そのようなことはない。 地方により歌詞が異なる。 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ? かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ? かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの

  • ジェラルド・R・フォード (空母) - Wikipedia

    ジェラルド・R・フォード(USS Gerald R. Ford, CVN-78)は、アメリカ海軍の航空母艦。ジェラルド・R・フォード級のネームシップ(第1番艦)。2009年に起工され、2016年に就役を予定して建造が進められていたが、2017年に就役した[4]。 艦の名称は第38代アメリカ合衆国大統領のジェラルド・R・フォードにちなむ[6]。 艦名[編集] 2006年10月17日、ジョージ・W・ブッシュ米大統領(当時)は、ジョン・ウォーナー2007年会計年度国防権限法(John Warner National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2007[7])署名を行い、同法案を承認した[8]。同法の1,012節において、 [it] is the sense of Congress that the nuclear-powered airc

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  • アメリカ (空母) - Wikipedia

    アメリカ (USS America, CVA/CV-66) は、アメリカ海軍のキティホーク級航空母艦(改フォレスタル級)の3番艦。その名を付けた艦艇としては3隻目。1965年に就役し、経歴の大半は大西洋と地中海で積み重ねられたが、ベトナム戦争時には太平洋に三度展開した。湾岸戦争では砂漠の盾作戦、砂漠の嵐作戦に参加している。1995年9月の最終航海では通常6日をかけて行われる大西洋横断を、3つのハリケーンといくつかの熱帯暴風雨を回避するため3日間で行い、ボスニア・ヘルツェゴビナの沖合でステーション艦任務に従事している。 アメリカは人名が名付けられなかった最後のアメリカ空母であり、1946年のクロスロード作戦後に初めて標的艦として用いられた大型空母でもある。アメリカは2005年、4週間のテストが行われた後、記念艦として保存するよう要求する元乗組員達の抗議にもかかわらずハッテラス岬沖で海没処分さ

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  • キティホーク (空母) - Wikipedia

    キティホーク(USS Kitty Hawk, CVA-63)は、アメリカ海軍のキティホーク級航空母艦(改フォレスタル級)の1番艦。艦名は、ライト兄弟が世界で初めて飛行機による有人動力飛行に成功したノースカロライナ州キルデビルヒルズに近い町「キティホーク」に因む。その名を持つ艦としては第二次世界大戦で活躍した航空機輸送艦キティホーク(英語版)に次いで2隻目。原子力ではない通常動力型空母。 2008年までフリゲート「コンスティチューション」に次ぐ古参艦(ファーストネイビージャック)であったが、2009年1月31日をもって退役した。 キティホークは1956年1月27日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1960年5月27日にニール・H・マッケルロイによって進水、1961年4月29日にフィラデルフィア海軍造船所で艦長ウィリアム・F・ブリングル大佐の指揮下就役した。 就役当時、

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  • コンステレーション (空母) - Wikipedia

    コンステレーション (USS Constellation, CV-64/CVA-64) は、アメリカ海軍のキティホーク級航空母艦の2番艦。艦名はアメリカ国旗の星 (new constellation of stars) に因む。その名を持つ艦としては3隻目。コンステレーションはアメリカ海軍史上唯一艦番号が赤、白、青の三色で表示された艦である。1985年に開催された戦闘群の速度競技において優勝し、海軍における最速艦の一隻であった。乗組員からは「コニー」の愛称で呼ばれ、公式に「アメリカの旗艦」であった。 艦歴[編集] 1956年7月1日にニューヨーク州ブルックリンのブルックリン海軍工廠が建造契約を獲得、9月14日に起工した。1960年10月8日にメアリー・ハーター(当時の国務長官、クリスティアン・ハーターの)によって命名、進水する。 建造途中の1960年12月19日に火災事故が生じ[1][2

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  • インディペンデンス (CV-62) - Wikipedia

    インディペンデンス (USS Independence, CVA/CV-62) は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦の4番艦。その名を持つ艦としては五隻目。ミッドウェイ (USS Midway, CV-41) の後任として横須賀に配備された空母であり、最後の母港も同地であった。 艦歴[編集] 1960年代[編集] インディペンデンスは1958年6月6日にニューヨーク海軍工廠で海軍長官トーマス・S・ゲイツ夫人によって進水し、1959年1月10日に初代艦長R・Y・マッケロイ大佐の指揮下就役した。 就役時最新の超大型空母であり、慣熟訓練をカリブ海で行い母港のバージニア州ノーフォークには1959年6月30日に到着した。8月25日にエド・デッカー少佐操縦のA3D スカイウォリアーが発艦試験を行った。同機は38トンの重量で、空母から発艦した最も重い航空機であった。 インディペンデンスは就

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  • レンジャー (CV-61) - Wikipedia

    レンジャー(USS Ranger, CVA/CV-61)は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦の3番艦。その名を持つ艦としては8隻目。 レンジャーはアングルド・デッキの航空母艦として建造された世界初の艦である。姉妹艦のフォレスタルとサラトガは通常デッキの空母として起工されたが、建造中にアングルド・デッキに変更された。 艦歴[編集] 1950年代[編集] レンジャーはCVA-61として1954年8月2日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工され、1956年9月29日に統合参謀部議長アーサー・W・ラドフォード提督の夫人によって進水し、1957年8月10日にノーフォーク海軍造船所で初代艦長チャールズ・T・ブース二世大佐の指揮下就役した。 レンジャーは1957年10月3日に大西洋艦隊に配属される。10月4日のキューバのグアンタナモ湾への出航に先立ち第

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  • サラトガ (CV-60) - Wikipedia

    サラトガ (USS Saratoga, CVB/CVA/CV-60) は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦の2番艦。アメリカ独立戦争におけるサラトガの戦いに因んで命名され、同名を持つ艦としては6隻目である。 艦歴[編集] 1950年代[編集] サラトガは「大型航空母艦」として1952年7月23日にニューヨーク州のニューヨーク海軍造船所に発注され、船体番号はCVB-60であった。1952年10月1日に「攻撃航空母艦」(CVA-60)に艦種変更され、1952年12月16日に起工された。1955年10月8日にチャールズ・S・トーマス夫人によって進水し、1956年4月14日に初代艦長R・J・ストロー大佐の指揮下就役した。 就役後数ヶ月にわたってサラトガは飛行、操艦、構造および砲撃とさまざまなテストを行い、8月18日にグアンタナモ湾に向かい整調巡航へ出発する。12月19日にニューヨーク

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  • フォレスタル (空母) - Wikipedia

    フォレスタル (USS Forrestal, CVA/CV-59, AVT-9) は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦のネームシップ。フォレスタルは太平洋戦争時の日海軍空母信濃の満載時の排水量を初めて超えた、アメリカ海軍の戦後第一世代の空母である。 名称[編集] 艦名は、初代アメリカ合衆国国防長官・ジェームズ・フォレスタルに由来する。フォレスタルは大型空母ユナイテッド・ステーツ建造を巡っての空軍との対立などの事情により、国防長官を辞職、そして後に病で自殺している。空母フォレスタルは、ユナイテッド・ステーツ建造中止により頓挫した大型空母建造計画が、復活した結果建造された艦である。 艦歴[編集] フォレスタルは1954年12月11日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所でフォレスタル未亡人によって進水し、1955年10月1日に初代艦長R・L・ジョン

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  • コーラル・シー (空母) - Wikipedia

    コーラル・シー(USS Coral Sea, CV/CVB/CVA-43)は、アメリカ海軍の航空母艦。ミッドウェイ級航空母艦の3番艦。艦名は珊瑚海海戦(Battle of the Coral Sea)にちなむ。コーラル・シーはその長期にわたる活動から「不老の勇士 Ageless Warrior」の愛称を得た。 艦歴[編集] 当初は艦番号 CV-43 として1943年6月14日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に発注されたが、1943年7月15日に「大型航空母艦」として CVB-43 に再分類された。 1944年7月10日に起工し、1946年4月2日にトーマス・C・キンケイド夫人によって進水、1947年10月1日にA・P・ストーズ三世大佐の指揮のもと就役した。 初期の活動[編集] コーラル・シーは1948年4月27日にトマス・D・デイビス大佐とジョン・P・ホイ

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  • フランクリン・D・ルーズベルト (空母) - Wikipedia

    フランクリン・D・ルーズベルト (USS Franklin D. Roosevelt, CVB/CVA/CV-42) は、アメリカ海軍の航空母艦である。この空母はミッドウェイ級航空母艦の2番艦であり、元来は1945年4月29日にコーラル・シーとしてニューヨーク海軍造船所で建造され、ジョン・H・タワーズ夫人(太平洋艦隊最高司令官の)によって進水した。しかし1945年5月8日、前大統領フランクリン・D・ルーズベルトに敬意を表してフランクリン・D・ルーズベルトと改名された。この艦は乗組員からSwanky Franky, Rosey の愛称で呼ばれたが、後者はより一般的に呼ばれた名称であった。 空母フランクリン・D・ルーズベルトは1945年10月27日、アポロ・ソウセック大佐の指揮下に就役した。 就役[編集] 建造後、「フランクリン・D・ルーズベルト」(以後、F・D・ルーズベルト)は調整航海に出

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  • ミッドウェイ (空母) - Wikipedia

    この項目では、ミッドウェイ級航空母艦1番艦(CVB-41)について説明しています。改名前「ミッドウェイ」と呼ばれていたカサブランカ級航空母艦9番艦(CVE–63)については「セント・ロー (護衛空母)」をご覧ください。

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  • フィリピン・シー (空母) - Wikipedia

    フィリピン・シー (USS Philippine Sea, CV/CVA/CVS-47, AVT-11) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。タイコンデロガ級航空母艦と分類されることも。 艦名は太平洋戦争のマリアナ沖海戦の英語名 (Battle of Philippine Sea) に因む。 艦歴[編集] 「フィリピン・シー」は1944年8月19日、マサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール株式会社で起工する。1945年9月5日、アルバート・B・チャンドラー夫人によって命名・進水し、1946年5月11日、D. S. コーンウェル艦長の指揮下就役する。 「フィリピン・シー」は6月からロードアイランド州クォンセット・ポイントで最初の整調訓練を行い、9月に第20航空団を乗艦させカリブ海での整調航海を開始する。 整調航海終了後、「フィリピン・シー」はボストンで海軍の南極探検、ハイジャン

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  • イオー・ジマ (空母) - Wikipedia

    建造中のイオー・ジマ(1945年) イオー・ジマ(Iwo Jima, CV-46)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。未成航空母艦。艦名は太平洋戦争の激戦地、硫黄島(硫黄島の戦い)に因む。 イオー・ジマはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社にて1945年1月より建造が開始された。第二次世界大戦の戦況より、終戦が間近で過剰兵力と判断され、1945年8月12日に建造が中止された。船体はスクラップとして廃棄された。 外部リンク[編集] NavSource Online:Aircraft Carrier Photo Archive IWO JIMA(CV-46) 関連項目[編集] アメリカ海軍航空母艦一覧 アメリカ海軍艦艇一覧

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  • ヴァリー・フォージ (空母) - Wikipedia

    ヴァリー・フォージ(USS Valley Forge, CV/CVA/CVS-45, LPH-8)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名はジョージ・ワシントンが1777年から78年にかけて駐留した野営地バレーフォージに因む。 艦歴[編集] ヴァリー・フォージは1943年9月14日、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で起工した。1945年7月8日、海兵隊司令官アレグサンダー・A・ヴァンデグリフトのによって命名、進水し、1946年11月3日、ジョン・W・ハリス艦長の指揮下就役する。 艤装完了後ヴァリー・フォージは1947年1月24日にノーフォークを出港しパナマ運河を経由してキューバのグアンタナモ湾に向けて整調航海を行う。3月18日に巡航を終えると、オーバーホールのためにフィラデルフィアへ帰還する。7月14日にフィラデルフィアを出港、8月5日にパナマ運河を通過し

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  • タラワ (空母) - Wikipedia

    タラワ(USS Tarawa, CV/CVA/CVS-40)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名は太平洋戦争の激戦地タラワ環礁(タラワの戦い)に因む。 艦歴[編集] 就役~予備役編入[編集] F4U-4コルセア戦闘機を発艦させるタラワ(1946年) タラワは1944年3月1日、バージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所で起工する。1945年5月12日、ジュリアン・C・スミス夫人(タラワの戦いで第2海兵師団を指揮したジュリアン・C・スミス海兵隊中将の)によって命名、進水し、1945年12月8日、アルヴィン・インガソル・マルストロム艦長の指揮下就役する[1][2]。 就役後は1946年2月15日までノーフォークに留まった後、キューバのグアンタナモ湾付近で整調航海を行い、4月16日にノーフォークに帰還する。その後ニューヨークを訪れ、4月30日に再びノーフォークに帰還する。 整調航海

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  • レイク・シャンプレイン (空母) - Wikipedia

    舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)飛行甲板:1.5インチ (38 mm)格納甲板:2.5インチ (64 mm)司令塔:1.5インチ (38 mm) レイク・シャンプレイン (USS Lake Champlain, CV/CVA/CVS-39) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては17番目に就役した。艦名は米英戦争におけるシャンプレーン湖の戦いに因み、その名を持つ艦としては二隻目。「チャンプ (Champ) 」の愛称をもつ[2]。 朝鮮戦争、第二次中東戦争やキューバ危機に伴う作戦行動、宇宙船回収任務等で活躍した。 艦歴[編集] 就役 - 予備役編入[編集] 就役直後(1945年6月23日) 「レイク・シャンプレイン」は1943年3月15日、バージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所で起工する。 1944年11月2日、バーモント州選出上院議員ウォレン・オー

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  • シャングリラ (空母) - Wikipedia

    シャングリラ(USS Shangri-La, CV/CVA/CVS-38)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては12番目に就役した。エセックス級のうち艦首延長等の改修を踏まえて建造された艦は、非公式ながら「長船体型("long-hull group")[1] [2]」「タイコンデロガ級航空母艦[3]」といった呼称・分類がなされることもあるが、艦はその中で最初に起工された。 艦名はイギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』の中に出てきた理想郷の名に因む。1942年のドーリットル空襲の際、ルーズベルト大統領が記者団からの質問に対し「(攻撃機の)発進地はシャングリラ」と答えたエピソードに関連している。 艦歴[編集] 就役[編集] シャングリラの進水式 シャングリラは1943年1月15日、バージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所で起工

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  • プリンストン (CV-37) - Wikipedia

    プリンストン(USS Princeton, CV/CVA/CVS-37, LPH-5)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名はアメリカ独立戦争のプリンストンの戦いに因む。その名を持つ艦としては5隻目。 艦歴[編集] 「プリンストン」は1943年9月14日、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で「ヴァリー・フォージ」の艦名で起工した。1944年11月21日に「プリンストン」と改名され、1945年7月8日にマーガレット・ドッド(ハロルド・ドッドプリンストン大学学長夫人)によって命名、進水。1945年11月18日、ジョン・M・ホスキンス艦長(先代「プリンストン」艦長)の指揮下で就役する。 キューバ沖での整調航海後、「プリンストン」は第81航空団を乗艦させると大西洋に残り、1946年6月まで第8艦隊と共に作戦行動を行う。その後太平洋艦隊に移動し、6月30日にサンディエ

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  • アンティータム (空母) - Wikipedia

    舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)飛行甲板:1.5インチ (38 mm)格納甲板:2.5インチ (64 mm)司令塔:1.5インチ (38 mm) アンティータム (USS Antietam, CV/CVA/CVS-36) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては15番目に就役した。艦名は南北戦争でのアンティータムの戦いに因む。その名を持つ艦としては二隻目。 艦歴[編集] 就役~第二次世界大戦[編集] 第二次世界大戦中に撮影 「アンティータム」は1943年3月15日、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で起工した。1944年8月20日、タイディングス夫人(メリーランド州選出上院議員ミラード・E・タイディングスの)によって命名・進水し、1945年1月28日にジェームズ・R・ターグ艦長の指揮下で就役する。 「アンティータム」はフィラデルフ

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  • レプライザル (空母) - Wikipedia

    建造中のレプライザル レプライザル (USS Reprisal, CV-35) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。未成航空母艦。「Reprizal(報復)」の名を持つ艦としては、アメリカ独立戦争で大陸軍が使用した帆船に続いて2隻目。 艦歴[編集] レプライザルはニューヨークのニューヨーク海軍造船所で1944年7月1日に起工したが、1945年8月12日、およそ50%の状態で建造が取りやめられた。 1946年、レプライザルの船体は式典もなく進水し、チェサピーク湾において様々な実験で使用された。1948年4月1日には爆破試験が行われた。1949年1月に攻撃空母として完成させるための検査が行われたが、計画は中止された。レプライザルは1949年8月2日にメリーランド州ボルティモアのボストン・メタル株式会社に売却され、1949年11月に解体された。 登場作品[編集] 『犯罪捜査官ネイビーファイル

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  • オリスカニー (空母) - Wikipedia

    舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)飛行甲板:1.5インチ (38 mm)格納甲板:2.5インチ (64 mm)水密隔壁:4インチ (100 mm) オリスカニー (USS Oriskany, CV/CVA-34) は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦(長船体型)。艦名はアメリカ独立戦争のオリスカニーの戦いに因んで命名された。オリスカニと表記されることもある。「マイティ・O(オー)」の愛称を持つ。後述するように建造が一時中断されていた関係で、エセックス級の中では最後の就役となった。 艦歴[編集] 就役当日 「オリスカニー」はブルックリン海軍工廠で1944年5月1日起工し、1945年10月13日にクラレンス・キャノン夫人によって進水する。艦の建造は1947年8月12日に85%の段階で中断され、SCB-27近代化計画のプロトタイプとして再設計された。新世代の艦上戦闘機を運

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  • キアサージ (空母) - Wikipedia

    キアサージ(USS Kearsarge, CV/CVA/CVS-33)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名は南北戦争時のスループ船「キアサージ」に因む。その名を持つ艦としては3隻目(なお、エセックス級の「ホーネット」も当初キアサージと命名されていたため、これも含めれば4隻目といえる)。 「マイティ・ケイ(Kay)」の愛称で親しまれたが、しばしば衝突事故を起こしたため「Krashbarge」などともあだ名された[1]。1962年には客船「オリアナ」とも衝突している。 艦歴[編集] 1940年代[編集] 就役直後(1946年4月13日) キアサージは1945年5月5日、ニューヨーク州のニューヨーク海軍造船所でオーブリー・W・フィッチ夫人によって命名、進水し、1946年3月2日、初代艦長フランシス・J・マッケンナ大佐の指揮のもと就役する[2]。マッケンナ大佐は護衛空母「セント・ロー」の艦

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  • レイテ (空母) - Wikipedia

    レイテ(USS Leyte, CV/CVA/CVS-32, AVT-10)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名は太平洋戦争でのレイテ沖海戦に因む。その名を持つ艦としては3隻目。 艦歴[編集] 1948年12月20日撮影 朝鮮戦争で作戦行動中(1950~51年の間に撮影) レイテはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社で、「クラウン・ポイント Crown Point 」の艦名で1944年2月21日起工される。1945年5月8日に「レイテ」と改名され、1945年8月23日にジェームズ・M・ミード夫人によって命名、進水し1946年4月11日にヘンリー・F・マコムジー艦長の指揮下就役する。 艦はニューポート・ニューズ造船所で建造されたエセックス級のうち最後に完成した艦となった。 レイテは1946年の秋に戦艦ウィスコンシン(USS Wisconsin

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  • ボノム・リシャール (空母) - Wikipedia

    ボノム・リシャール (USS Bon Homme Richard, CV/CVA-31) は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては14番目に就役した。エセックス級のうち後期に建造された艦は艦首を延長する等の設計変更が行われており、非公式ながら「短船体型(short-bow unit)」「長船体型(long-bow unit)」という区分がなされることがある[1][2]が、艦は短船体型のうち最後に完成した艦である。 艦名はジョン・ポール・ジョーンズの乗艦した有名なフリゲート(フランス語で「善良なリチャード Goodman Richard」の意。ベンジャミン・フランクリンが "Poor Richard" の別名で出版した著書『貧しきリチャードの暦』から。)に因む。この名を持つ艦としては二隻目。 艦は第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の三つの戦争全てに参加した唯一の航空母

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  • ボクサー (空母) - Wikipedia

    ボクサー(USS Boxer, CV/CVA/CVS-21, LPH-4)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては16番目に就役した。その名を持つ艦としては5隻目。米英戦争でエンタープライズ号が拿捕したイギリスの軍艦「ボクサー(英語版)」にちなむ。 艦歴[編集] ボクサーはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社で建造される。1944年12月14日にルース・D・オヴァートン(ルイジアナ州選出上院議員ジョン・H・オヴァートンの娘)によって命名、進水し、1945年4月16日にD・F・スミス艦長の指揮下就役した。 ボクサーはその完成が遅れ、第二次世界大戦には参加できなかった。1945年8月にサンディエゴで太平洋艦隊に加わり、1945年9月から1946年8月23日まで太平洋西部で第77機動部隊の旗艦としてグアムから展開した。この活動中にボクサ

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  • ベニントン (空母) - Wikipedia

    ベニントン (USS Bennington, CV/CVA/CVS-20) は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては11番目に就役した。艦名はアメリカ独立戦争のベニントンの戦いにちなむ。その名を持つ艦としては2隻目。「ビッグ・ベン」「ベニー」の愛称をもつ。また、当初より強力なアレスティング・ギアを装備していたので不具合の生じた艦載機の収容を任されることがあり、「"Cripple Ship"」などとも呼ばれた[1][2]。 艦歴[編集] 「ベニントン」は1942年12月15日にニューヨーク海軍造船所で起工、1944年2月26日にミネソタ州選出下院議員メルビン・J・マース(英語版)の夫人[要出典]によって進水し、1944年8月6日に初代艦長J. B. サイクス大佐の指揮下で就役した[3]。 12月15日、「ベニントン」はニューヨークを出港し、12月21日にパナマ運河を通過した。

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  • ハンコック (空母) - Wikipedia

    ハンコック(USS Hancock, CV/CVA-19)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては9番目に就役した。 エセックス級のうち艦首延長等の改修を踏まえて建造された艦は、非公式ながら「長船体型("long-hull group")[1] [2]」「タイコンデロガ級航空母艦[3]」といった呼称・分類がなされることもあるが、艦はその中で最初に竣工した。また、飛行甲板の短縮(艦首のボフォース 40mm機銃およびMk.51 射撃指揮装置の視界確保のため先端が切り詰められている)、飛行甲板左舷の切り欠き(左舷に設置するMk.37 砲射撃指揮装置の視界確保のため少しくびれた形状になっている)といった設計変更も実施された[4][5]が、この特徴は同艦と「タイコンデロガ」にのみ見られるものである[6]。 艦名はアメリカ独立の功労者ジョン・ハンコックに因み、その名を持つ艦としては4

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  • ワスプ (CV-18) - Wikipedia

    ^ “Ship Nicknames”. 2019年6月3日閲覧。 ^ a b USS Wasp Volume 2. Turner Publishing Company. (1999). p. 21. ISBN 9781563114045 (Paragraph was copied from DANFS Vol VIII and reprinted in this book.) ^ Silverstone, Paul (2015). The Navy of World War II, 1922-1947. Routledge. p. 16. ISBN 978-1138976856 ^ 加藤 2009, p. 198. ^ Friedman 1983, p.152 ^ “Report on Service Experience with Six Caliber .50 Gun Mounts,

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  • バンカー・ヒル (空母) - Wikipedia

    バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17,AVT-9) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦の一隻で[1]、4番目に就役した。太平洋戦争ではマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)、沖縄戦など主要な戦いに参加し、「ホリデー・エクスプレス」の愛称で呼ばれた[注釈 1]。1945年(昭和20年)5月11日、沖縄方面で神風特別攻撃隊の零戦2機に突入されて大破、多数の死傷者を出す。アメリカ土で修理中に日の降伏を迎えた。 艦名はアメリカ独立戦争におけるバンカーヒルの戦い(ボストンの軍港の近くにある小さな丘をめぐる戦闘)に由来する。この名を持つ艦としては1隻目である。 艦歴[編集] 第二次世界大戦[編集] 1941~43年[編集] バンカー・ヒルの進水式 バンカー・ヒルは、1941年9月15日にマサチューセッツ州クインシーにあるベスレ

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  • レキシントン (CV-16) - Wikipedia

    舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)飛行甲板:1.5インチ (38 mm)格納甲板:2.5インチ (64 mm)水密隔壁:4インチ (100 mm) レキシントン (USS Lexington, CV/CVA/CVS/CVT/AVT-16) は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては2番目に就役した[1]。アメリカ海軍においてレキシントンの名を受け継いだ艦としては5隻目にあたり、珊瑚海海戦で戦没した四代目の名を引き継いだ正規空母である[2][3]。 大日帝国でも艦の存在を認識しており[4][5]、「新レキシントン (New Lexington) 」[6]、「レキシントン2世」と呼称された事もある[7][8]。文献によっては、「レキシントン(II)」と表記する[9][10]。 愛称は先代の愛称「レディ・レックス」を受け継いだ[11]。その他にも先代が「幽霊船」と称

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  • ランドルフ (空母) - Wikipedia

    ランドルフ (USS Randolph, CV/CVA/CVS-15) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。同級空母としては13番目に就役した。艦名はペイトン・ランドルフに因む。この名を持つ艦としては2隻目。 艦歴[編集] 「ランドルフ」の進水式 「ランドルフ」は1943年5月10日、バージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社で起工する。1944年6月28日、ローズ・ジレット(アイオワ州選出上院議員ガイ・M・ジレットの)によって命名、進水し、1944年10月9日、初代艦長フェリックス・ロック・ベイカー大佐の指揮下就役した。 第二次世界大戦[編集] 整調航海はトリニダードからパナマ運河を通って太平洋に向けて行われた。12月31日サンフランシスコに到着、87航空部隊から12航空部隊に転属され、4ヶ月の作戦行動に入った。なお、この時までに対空火器の増設等

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  • タイコンデロガ (空母) - Wikipedia

    1943年2月1日にバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工、当初「ハンコック」の艦名が予定されていたが、5月1日に「タイコンデロガ」に改名された[注釈 4]。1944年2月7日にステファニー・サラ・ペルによって進水し、5月8日にノーフォーク海軍工廠で初代艦長ディキシー・キーファー(英語版)大佐の指揮のもと就役した。 「タイコンデロガ」は第89航空団を乗艦させ、バージニア州ノーフォークで約二ヶ月間の整調航海に従事した。6月26日に英領西インド連邦へ向けて出航する。航海の途中も航空作戦及び訓練を指揮しつつ、ポートオブスペイン(現在のトリニダード・トバゴの首都)に6月30日到着する。続く15日間にわたってタイコンデロガは乗組員及び搭載航空団への集中的な訓練を行う。 7月16日に西インド連邦を出発し7月21日にノーフォークに帰還。翌日よりノーフォーク海軍工廠でオーバー

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  • フランクリン (空母) - Wikipedia

    フランクリン(USS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては8番目に就役した。艦名はベンジャミン・フランクリンに由来し、その名を持つ艦としては5隻目。 「ビッグベン(Big Ben)」の愛称で呼ばれ、第二次世界大戦で何度も損傷を受けながらも戦い抜いた艦のひとつである[1]。特に、1945年3月19日の九州沖航空戦において日海軍爆撃機の空襲により大破、辛うじて沈没を免れ、アメリカ国に帰還したエピソード(後述)は、1949年の戦争映画『機動部隊』、1956年の『不沈母艦サラトガ(英語版)』[2]でも描かれている。 「フランクリン」はバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で1942年12月7日に起工し、1943年10月14日にミルドレッド・H・マカフィー(英語版)少佐によって命名、194

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  • ホーネット (CV-12) - Wikipedia

    ホーネット(USS Hornet, CV/CVA/CVS-12)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては7番目に就役した。アメリカ海軍においてホーネットの名を受け継いだ艦としては8隻目にあたる。 「The Grey Ghost」の愛称で呼ばれた。この由来については、同型艦の「レキシントン」に付けられた「The Blue Ghost」との対比という説がある[1]。 艦歴[編集] 「ホーネット」の進水式 「ホーネット」は当初「キアサージ」という艦名で1940年9月9日に建造契約が行われた。1942年8月3日にバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工。1942年10月26日に空母「ホーネット (CV-8)」が南太平洋海戦で沈められ、「キアサージ」は「ホーネット」と改名された。1943年8月30日に進水し、1943年11月29日に初代艦長マイルズ・M・ブ

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  • イントレピッド (空母) - Wikipedia

    イントレピッド(USS Intrepid, CV/CVA/CVS-11)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては5番目に就役した。その名を持つ艦としては4隻目。太平洋戦争(大東亜戦争)ではレイテ沖海戦などに参加、その後マーキュリー計画やジェミニ計画で宇宙船の回収母艦を務め、ベトナム戦争にも参加した。2021年現在はニューヨーク市で博物館船(イントレピッド海上航空宇宙博物館)として公開されている。 幾度も損傷して「Dry "I"」と揶揄されるほどドック入りも多く、「Evil (不吉な) "I"」「Decrepit(よぼよぼ)」などとも呼ばれていた[1]が、これは激戦をくぐり抜けてきた証でもあり、「Fighting "I"」と讃えられた武勲艦である[2]。 イントレピッドはバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で建造され、第二次世界大戦真っ只中の1943

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  • ヨークタウン (CV-10) - Wikipedia

    ヨークタウン(USS Yorktown, CV/CVA/CVS-10)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦としては3番目に就役した[注釈 1]。アメリカ海軍においてヨークタウンの名を受け継いだ艦としては、4代目。先代は、第二次世界大戦のミッドウェー海戦で[2]、大日帝国海軍に撃沈されたヨークタウン級航空母艦のネームシップ[3]。日においては「ヨークタウン2世」や[4][5][注釈 2]「ヨークタウン(II)」と表記した事例もある[7]。 坊ノ岬沖海戦では、各艦と協同して戦艦「大和」を撃沈した[8]。アポロ計画では、1968年12月下旬のアポロ8号の回収任務に従事した[9]。現在は、サウスカロライナ州マウントプレザントで博物館船として公開されている。 艦歴[編集] 1940年7月3日、「ボノム・リシャール」の艦名でバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船

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  • エセックス (空母) - Wikipedia

    舷側:2.5–4インチ (64–102 mm)飛行甲板:1.5インチ (38 mm)格納甲板:2.5インチ (64 mm)水密隔壁:4インチ (100 mm) エセックス(USS Essex, CV/CVA/CVS-9)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦のネームシップ。艦名はマサチューセッツ州エセックス郡に因み、この名前の艦としては4隻目である。 1943年以降の太平洋における主要な海戦全てに参加し活躍したことから「海軍の最奮闘艦」(Fightingest Ship in Navy)の愛称をもつ[1]。 艦歴[編集] 「エセックス」は1942年7月31日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社でアーテムス・L・ゲート夫人(海軍航空次官の)によって命名、進水し、1942年12月31日にドナルド・B・ダンカン(英語版)大佐の指揮下で就役した。訓練航

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  • ホーネット (CV-8) - Wikipedia

    ホーネット (USS Hornet, CV-8) は、アメリカ海軍の航空母艦。ヨークタウン級航空母艦の3番艦。艦名はスズメバチの英語名に因む。アメリカ海軍においてホーネットの名を受け継いだ艦としては7隻目にあたる。"Happy Hornet" "Horny Maru" といった愛称をもつ[2]。 ミッドウェー海戦に繋がるドーリットル空襲を行ったドーリットル隊の母艦として有名であるが、1942年10月、南太平洋海戦にて沈没した。 艦歴[編集] 計画[編集] ワシントン海軍軍縮条約が1938年に失効したことからアメリカにおいても新たな海軍増強計画が立てられたが、建造を急ぐためにまずは条約型空母のヨークタウン級の設計を使って一隻新造することを決定した。こうしてヨークタウン級3番艦「ホーネット」が誕生したが、条約の制限がなくなったため排水量を約100トン、全長も約8m拡大する等の修正が加えられ、改

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  • M50 (天体) - Wikipedia

    座標: 07h 02m 47.5s, −08° 20′ 16″ M50 (NGC 2323) はいっかくじゅう座にある散開星団。 概要[編集] おおいぬ座との境界にちかく、シリウスからおおいぬ座θ星の方に伸ばした線をたどると見つけやすい。 条件がよければ、肉眼でぼんやりとした光に見える。双眼鏡でも微星がぽつぽつみえる。口径5cmの望遠鏡では倍率を上げると星に分かれてくる。口径8cmの望遠鏡では、20個程度の星が見えてくる。小さい散開星団だがそれほど密集はしていない。口径10cmの望遠鏡では50個ほどの星が見えてくる。口径30cmの望遠鏡ではおびただしい星が見え全体で150個ほどの星が見える。散開星団なのに、口径30cmの望遠鏡でも完全に星に分離できない。分離するには口径40cm程度の望遠鏡を必要とする。 全体の形はマラスはハート型、ジョーンズはY型であるとした。マラスは、ウェッブらが記した

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  • プレアデス星団 - Wikipedia

    プレアデス星団[3](プレアデスせいだん、Pleiades)、またはプレヤデス星団[4]は、おうし座の散開星団である。メシエカタログでの名称はM45。和名はすばる[3]。 冬を中心に秋から春先にかけて観測できる。肉眼でも輝く5–7個の星の集まりを見ることができ、双眼鏡で観測すると数十個の青白い星が集まっているのが見える。比較的近距離にある散開星団であるため狭い範囲に小さな星が密集した特異な景観を呈しており、このため昔から多くの記録に登場し、各民族で星座神話が作られてきた。 1769年にメシエカタログの45番に加えられた。メシエカタログは3回に分けて刊行されたが、M45は1回目のカタログに記載された最後の天体である。 約6千万-1億歳と若い年齢の青白い(高温の)星の集団である。核融合の反応速度が速いため寿命は比較的短いと予想されている。星団を構成する星の周囲に広がるガスが青白く輝いているのは

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  • プレセペ星団 - Wikipedia

    座標: 08h 40m 24s, +19° 40′ 00″ プレセペ星団[1](プレセペせいだん、Praesepe 、M44、NGC 2632)はかに座にある散開星団である。 概要[編集] プレセペ星団はかに座の中心、γ、η、θ、δ の各星で作られる四辺形の中心にある。属する星は577個で、揃っていっかくじゅう座の方向に41km/秒の速度で移動している[4]。 名称[編集] プレセペ[4](Praesepe )はラテン語で「飼い葉桶[4]」を意味し、γとδが飼い葉桶の餌をべる2頭のロバに見立てられていたことに由来する[4]。γの固有名アセルス・ボレアリス[4](Asellus Borealis)は「北のロバ」、δの固有名アセルス・アウストラリス(Asellus Australis )は「南のロバ」という意味である[4]。 英語では「ビーハイブ」(Beehive 、蜂の巣の意)と呼ばれる[

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  • M41 (天体) - Wikipedia

    座標: 06h 46m 01.0s, −20° 45′ 24″ M41 (NGC 2287) はおおいぬ座にある散開星団。 概要[編集] シリウスの南4度にあり、見つけやすい[2]。月がない晴れた夜には肉眼でもぼんやりとかすんで見ることができる。双眼鏡ではシリウスと同じ視野に見えて、ぼんやりとした丸い光の中に明るい星がくずれたX型にならんでいるのがわかる。星の配置は円形だが、中心部には星列を見る人が多い。X型に見る人も多いがV字型に見る人もいる。 アメリカのアマチュア天文家ジョン・マラスは「蝶のような印象」と記している[3]。また、イギリスの天文家ケネス・グリン・ジョーンズは「外側はほぼ円形で、中心から放射された星が曲線を作っているのがよく目立ち、ややオレンジ色の星が北と東にある」と記している[3]。ステファン・ジェームス・オメーラは、M41の中心部にある赤い星の二重星の片方の星(暗い方)

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  • M40 (天体) - Wikipedia

    他のカタログでの名称 Wnc 4[1], BD+56 1372, HD 238108 + HD 238107, SAO 28355 + SAO 28353 座標: 12h 22m 12.53s, +58° 04′ 58.6″ M40は、おおぐま座の離角51.7秒角の二重星である。WNC 4と同定され、その説が支持されている。 概要[編集] 1764年にシャルル・メシエが、17世紀にヨハネス・ヘヴェリウスによって星雲があるとされた領域を観測した際に発見した二重星である[2]。1966年、アメリカのアマチュア天文家ジョン・マラスによって、このM40は、1863年にフリードリヒ・ヴィネッケによって発見されたウィンネッケ4[4]であるとされ[2]、現在はSIMBADでもその見解が支持されている[1]。 観測史[編集] 1660年に初めてヨハネス・ヘヴェリウスが記録し、続いて1733年にウィリアム・

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  • M39 (天体) - Wikipedia

    座標: 21h 31m 48s, +48° 28′ 00″ M39 (NGC 7092) ははくちょう座にある散開星団である。 概要[編集] デネブの北東7.5度に位置している[3]。星一つ一つが明るく、肉眼でぼんやりかすんで見える。双眼鏡では天の川の中に明るい星が見え、全体の形は三角形を示しているが、乱雑であるとも言える。星の数は10個ほど見える[3]。口径10cmの望遠鏡では約25個の星が見える。多くの星が対になっている[3]。望遠鏡で倍率をかけすぎると星が視野からはみだしてしまうため、できるだけ低倍率で見た方が良い[3]。 観測史[編集] 1764年10月24日にシャルル・メシエが発見し「星雲状のものは何一つなく、1°ほどの範囲に広がっている」と記録を残している[4]。 紀元前350年頃にアリストテレスによって彗星のような天体として発見されていたとする説がある[2]。また、1750年

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  • M38 (天体) - Wikipedia

    座標: 05h 28m 43.0s, +35° 51′ 18″ M38 (NGC 1912) はぎょしゃ座にある散開星団。 概要[編集] ぎょしゃ座の中で、北からM38、M36、M37の順に並んでいる。双眼鏡では星団を交えた星雲のように見える。小口径の望遠鏡でも星に分解でき[3]、ギリシャ文字のπの形に並んでいるのを確認できる[2]。 観測史[編集] 1654年以前にジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって発見されているが、彼の発見は世に知られず、後の1749年にギヨーム・ル・ジャンティによって独立発見されている[2]。ル・ジャンティは「18フィートの望遠鏡で見て星団に見える」と記している[4]。1764年にシャルル・メシエは「小さい星からできた星団。σ星に近く、先行する2個の星団に近い。四角形で、注意すれば星雲状のものを含んでいないことが分かる」と記している[4]。 関連項目[編

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  • M35 (天体) - Wikipedia

    座標: 06h 08m 54.0s, +24° 20′ 00″ M35 (NGC 2168) はふたご座にある散開星団。 概要[編集] 星が多く、見ごたえのある散開星団の一つである。肉眼ではぼんやりと輝き、銀河の一部のように見える。双眼鏡では丸い星雲状のかたまりの上に、明るい星が少しばかり見え始める。北東にある二重星の主星が赤く、この星団のアクセントになっている。写真の右側にある星雲状のかたまりが散開星団NGC 2158である。NGC 2158はM35よりも5倍ほど遠方にあり、10倍ほど年月を経た星団である[2]。このような特徴から、かつては球状星団に分類されていたこともあった[2]。 観測史[編集] 1745年から46年にかけてジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーが発見した[2]。シェゾーは「ふたごの北の足の上にある星団」と記録を残している[3]。また、1750年以前にジョン・ベヴィス

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  • M30 (天体) - Wikipedia

    座標: 21h 40m 22.12s, −23° 10′ 47.5″ M30 (NGC 7099) は、やぎ座にある球状星団。 概要[編集] 明るく双眼鏡でまるく小さな星雲状に見える。中心部が明るく密集しており、周辺が5'ほど拡散している。周辺の微星の見え方は、フェーレンベルクは「10cmの160倍で周辺の微星が見える」としたが、マラスは「10cm屈折望遠鏡で外側が不規則で微星が見えるが、条件が悪いと見えない。12.5cmならばいつでも見える」とした。口径20cmからは周辺にかなりの微星と星の流れが見えてくる。中心部が南にかたよっていて、北側に3の角のような星の流れが見えるが、その星の流れは長時間露出をした写真では、はっきりとは確認できないという。 M15と同様に、中心部分が密集して、星の重力の相互作用で中心部が崩壊しているとも思われている。 観測史[編集] 1764年8月3日にシャルル

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  • M29 (天体) - Wikipedia

    座標: 20h 23m 56.0s, +38° 31′ 24″ M29(NGC 6913)は、はくちょう座にある散開星団。 概要[編集] はくちょう座γ星から南に1.7度、わずかに東に位置している[2]。双眼鏡を使っても見ることができる。小望遠鏡では4つの星が四辺形に、3つの星が三角形に並んでいるのが見える[2]。 M29はうすい星雲状物質につつまれている。写真で撮影すると赤い散光星雲が浮かび上がってくるが、肉眼ではとらえることは難しい。生まれてまもない若く重い星の集まりで、星の周りを星間ガスがとりかこんでいると思われている。 観測史[編集] 1764年7月29日にシャルル・メシエにより発見された。メシエは「7~8個の星からできている星団で、3.5フィートの望遠鏡では彗星のようにみえる」と記している[3]。 出典[編集] ^ a b c d e f g h i j k “SIMBAD As

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  • 亜鈴状星雲 - Wikipedia

    亜鈴状星雲(あれいじょうせいうん、M27, NGC 6853、Dumbbell Nebula[3])は、こぎつね座にある惑星状星雲である。地球からの距離は約1,235光年。その形が鉄亜鈴に似ていることから名づけられている。 特徴[編集] 双眼鏡でも容易に見ることができ、アマチュア天文ファンの観測対象として非常に人気がある。口径5cmの望遠鏡に高倍率をかけると円を両側から少し円で削った形に見える。口径8cmでは銀行の地図記号のように見え、15cmでは微星の群がる中で、亜鈴の形がくっきりと浮かび上がってくる。口径30cmでは星雲が欠けたように淡くなっている部分も見え始める。また星雲の前景にある微星や微かな中心星も見えてくる。口径40cmでは、星雲の濃淡や前景の微星もよりはっきり見えて見事な眺めになる。 100年間で6.8秒の割合で広がりつつあり、逆算するとこの星雲が膨張を始めたのは3000年~

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  • M26 (天体) - Wikipedia

    座標: 18h 45m 18.0s, −09° 23′ 00″ M26 (NGC 6694) は、たて座にある散開星団。 概要[編集] δ星の50' ほど東に位置する。天の川の濃い領域の中にある星団で、あまり目立たない。星の数は少なく口径5cmの望遠鏡では数個の星が見える。10cm程度では見え方は明るくはなるが大差はない。星団の周囲には暗黒星雲が入り込んでいるため、他の天の川の中にある散開星団と比べると明るくよく見える。 観測史[編集] 1764年6月20日にシャルル・メシエによって発見された[3]。メシエは「明るいが口径1.7フィートの望遠鏡でははっきりしない。星雲状ではない」と記している[3]。ジョン・ハーシェルは「個々の星の光度は12~15等。明るくきれいで星数が多い」としている[3]。 出典[編集] ^ a b c d e f g h “SIMBAD Astronomical Da

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  • M24 (天体) - Wikipedia

    座標: 18h 16m 8s, −18° 33′ 00″ M24は、いて座にある天の川の一部。他のメシエ天体と異なり、特定の天体ではない。NGC 6603はその領域に含まれる小さな散開星団である。 概要[編集] 昔から「スタークラウド」と呼ばれ、いろいろな観測者が記録を残している。肉眼でも見えるすばらしい光の塊である。双眼鏡でもすばらしい光の塊が見え、小口径でも面白い対象である。ただ、双眼鏡ではスタークラウドしか見えない。口径20cmになると視野一杯に微星がまるで洪水のように充満している姿を見ることができる。NGC 6603はスタークラウド内部の赤い星のすぐ北にある。NGC 6603を見るためには口径8cmの望遠鏡が必要であるが、口径6cmでは星雲状にしか見えない。分離して見るためには口径15cmの望遠鏡を必要とする。また周囲をよく見ると、暗黒帯がいくつも広がっている部分も確認することがで

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  • M21 (天体) - Wikipedia

    座標: 18h 04m 13.0s, −22° 29′ 24″ M21 (NGC 6531) は、いて座にある散開星団。 概要[編集] 青い星を多く含む若い星団である。8等級の星が1個、9等級が4個と明るい星が少ない星団である。 条件が良ければ肉眼でも発見できる。双眼鏡では数個の星がコンパクトにまとまっていて、M20やM8と同じ視野に見える。口径10cm程度の望遠鏡から星団らしい姿を楽しむことができる。小望遠鏡で約50個の星を楽に見ることができる。中心部に三角形の星の集まりがあり、そこから星団の渦巻き構造を見る人もいる。 M20を土台として、M21を北端とする「十字形の群れ」は「ウェッブの十字架」と呼ばれている。腕の曲がった十字形の星の一団である[3]。 観測史[編集] 1764年6月5日にシャルル・メシエが発見した[4]。メシエは「前のもの(M20)の近くにある星団。知られている星でこの

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  • M19 (天体) - Wikipedia

    座標: 17h 02m 37.69s, −26° 16′ 04.6″ M19 (NGC 6273) は、へびつかい座にある球状星団。 概要[編集] 明るいが、銀河系の中心に近く太陽系からは遠い場所に位置する[2]ので小さくまとまって見える。球状星団の中では最も扁平率が高く、望遠鏡を通してもそのいびつな楕円形をした形が分かる[2]。幾つかの渦状腕のような構造があり、北側にあるものは時計回りなのに対して、南側にあるものは反時計回りに見える。 この星団はカラフルであることが指摘されている。ステファン・ジェームス・オメーラはトパーズ色の中心部を青い煙が取り巻いているように見えると表現している。スミスは星団の中心部では星はクリーム色に近い白で、少し光沢があると表現している。また、泥がはねたように沢山の暗い斑点が星団にかかっているように見える。M19はさそり座周囲の銀河帯を分断している暗黒帯の付近にあ

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  • オメガ星雲 - Wikipedia

    他のカタログでの名称 白鳥星雲[1], 馬蹄形星雲[1], ロブスター星雲[4], Omega Nebula[2], Swan Nebula[2], Horseshoe Nebula[3], Lobster Nebula[2], Checkmark Nebula[2], NGC 6618[2] 座標: 18h 20m 47s, −16° 10′ 0.3″ オメガ星雲[1] (M17、NGC 6618) は、いて座に位置する散光星雲である。 概要[編集] 星雲の中にループ状の構造が見えることから、これをいろいろな物に見立てて、「オメガ星雲」「白鳥星雲」などいろいろな呼び名を持つ散光星雲である。すぐ北にあるわし星雲 (M16) と同様の星形成領域で、距離はM16よりもやや地球に近い。この両者の星雲は銀河系内で同じ渦巻腕に乗っており、おそらくは同じ巨大分子雲複合体の一部をなしているものと考えられ

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  • わし星雲 - Wikipedia

    座標: 18h 18m 48s, −13° 48′ 00.4″ わし星雲[1](わしせいうん、M16、NGC 6611、IC 4703)は、へび座に位置する散開星団と散光星雲の複合した天体である。散開星団の背景に散光星雲が広がっており、メシエ天体としての番号M16は散開星団の方に付けられた番号である。散光星雲にはIC 4703という番号が付けられている[3]。 わし星雲はへび座に属するが、観測する際にはたて座γ星から西へ約 2.5°の位置にあるとして探した方が見つけやすい。M16の南約2.5°には同じように散光星雲と散開星団が重なった天体であるオメガ星雲が存在し、双眼鏡では同一の視野内に見ることができる。赤い散光星雲(HII領域)の中央が象の鼻のような細長い暗黒星雲によって隠されており、全体が羽を広げた鷲のように見えることからこの名前が付けられている。 双眼鏡では星雲状に見えるが、条件がよ

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  • M15 (天体) - Wikipedia

    座標: 21h 29m 58.33s, +12° 10′ 01.2″ M15(NGC 7078)は、ペガスス座にある球状星団。 概要[編集] ペガスス座の顔を形作っているθ星とε星を結んでε星の方向に伸ばした線上にある。双眼鏡等では、すぐ隣の6等星と並んでいるぼやっとした光芒がわかるので比較的探しやすい。 M15 は変光星を多く含む球状星団として知られている。ケンタウルス座のω星団とりょうけん座の M3 に次ぐ変光星の多さである[1]。年々視直径が増大していることも観察されている。また、M15 の中には球状星団で初めて惑星状星雲 Pease1 が見つかっている[1]。2013年現在観察されている球状星団の中で最も密集度の高い球状星団で[1]、最も古い(約120億年前)球状星団である[4]。 通常、球状星団や銀河などの恒星系は中心に向かって密度が大きくなっており、最も中心近くには密度一定のコ

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  • M14 (天体) - Wikipedia

    座標: 17h 37m 36s, −03° 14′ 45″ M14(NGC 6402)は、へびつかい座にある球状星団。 概要[編集] 双眼鏡では暗くはっきりしないこともある。口径5cmの望遠鏡ではまるい星雲状に見える。口径10cmで周辺部の星が見えたとする人もいるが、口径20cmクラスでも難しい。ハーシェルが言うとおり、周囲にはかなりの微星がある。天の川に近いせいであるが、そのためこの星団は元の明るさから減光している。そのためか、視直径を3'と記載している著明なカタログもあるという。星の腕が7ほど見え、それが色々な方向に流れているように見える。中心部には小さなコアがあり、「かすかな花火」と表現する人もいる。中心部には星々のかたまりの部分と空虚な部分がある。コアは星の輪に囲まれており、「花輪」とか「バラかざり」などと表現されている。また、水面に石を投げたときの波紋にたとえる人もいる。 19

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  • M10 (天体) - Wikipedia

    M10 (NGC 6254) は、へびつかい座にある球状星団 。距離14300光年。1764年シャルル・メシエが発見し「へびつかい座のベルトで見つかった、星を含まない星雲。… 美しく円形をした星雲。単純な3フィートの屈折望遠鏡でかろうじて見ることができる」と記している[3]。初めて星団に分離したのはウィリアム・ハーシェルで[2]、「きれいな星団で、ひどく密集している。M53に似る」としている[3]。 直径は約83光年[2]。密集度の高い、小口径望遠鏡で楽しめる球状星団の一つである。星団内部の星は淡いピンク色をしており、外部のハロー部分は淡い青色をしているとも言われる。また、中心部には黄色な「花火」のような光が見えるという[注 1]。周辺部に3つの恒星があり、それが星団をピラミッド状に囲んでいるように見える。 存在そのものは肉眼で確認でき、双眼鏡では容易に確認できる。M10とM12は、双眼鏡

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  • M9 (天体) - Wikipedia

    M9 (NGC 6333) は、へびつかい座にある球状星団 。距離約26000光年。1764年シャルル・メシエが発見し「星を含まない星雲。円形で暗い」と記述している。星団として分離できなかった。NGCカタログでは「明るく、丸く、中心で星が非常に密集しており、よく分解され、14等の星からなる球状星団」としている。 小さい割に明るく密集している星団で、存在そのものは双眼鏡でも確認できる。口径20cmの望遠鏡で周辺の星が分離しはじめる。また、M9の東西には暗黒星雲のバーナード64が広がっている。また、周囲を別の大きな暗黒星雲が取り囲んでおり、そのためM9は宇宙塵の影響を受け、少なくとも1等級は暗くなっているだろうとする人もいる。M9は銀河系の中心部に最も近い球状星団の一つである。 北西と南東の端に帽子のような星の固まりがあり、ウィリアム・パーソンズも黒い帯で体から分離されたその構造を見ている。

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  • 改大鳳型航空母艦 - Wikipedia

    改大鳳型艦型図 改大鳳型航空母艦(かいたいほうがたこうくうぼかん)は、太平洋戦争中に日海軍が計画した大鳳の改良型航空母艦である。 概要[編集] 改大鳳型は改⑤計画で5隻の建造が計画された航空母艦である。計画番号G15[1][2]。当時の文章には「130号艦改」との表記が見られる[3]。130号艦とは即ち大鳳のことである。 大鳳と同様の装甲空母であり、高角砲2基の増備、水中防御の強化、船体・飛行甲板の延長[4]、などの小改良が予定されていた。 搭載機数は大鳳とほぼ同じ61機[5]だが、これは艦上戦闘機烈風や艦上攻撃機流星のような大型機搭載時の場合であり、75機は搭載可能とする資料もある。 飛行甲板の装甲部分は、前後の昇降機の間と最低限発艦に必要な部位のみに留まっている。飛行甲板防御の装甲厚や機関全般のスペックは大鳳と同じである。 建造中止[編集] 1944年(昭和19年)から1945年(昭

  • 大鷹型航空母艦 - Wikipedia

    大鷹型航空母艦(たいようがたこうくうぼかん)は、大日帝国海軍の航空母艦の艦型。 特徴[編集] いずれも原型となったのは商船であるが、建造に際しては、有事の際の空母への改造を前提として「優秀船舶建造助成施設」制度のもと多額の政府助成金が使われており、船体の設計には海軍艦政部の意見が大きく作用していた。船首第一船倉は航空機用の燃料タンクへの改造が織り込んであり、第二船倉は航空機用爆弾・魚雷庫に使うことを前提にしていた。前後の船倉の位置もエレベーターの隔壁位置に合わされている。ただし正規の航空母艦と同様の防御構造はなく、防弾甲板、燃料タンク、爆弾倉の防御などは最低限のものでしかなかった。 改造は遊歩甲板以上を撤去して格納庫甲板とし、その上5メートルの位置に飛行甲板を設けた。主機は客船時のままとしたため速力は21ノットにとどまった。 しかし、ベースとなった船には新田丸級貨客船の3隻に加えて、一

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  • 隼鷹型航空母艦 - Wikipedia

    計画[3] 機関室:舷側 20 + 25 mm DS鋼 弾火薬庫:甲板 25 mm DS鋼 後部舷側 25 mm DS鋼 軽質油タンク:甲板 25 mm DS鋼 隼鷹型航空母艦(じゅんようがたこうくうぼかん)は、大日帝国海軍の航空母艦の艦型。同型艦は「隼鷹」と「飛鷹」。 歴史[編集] 日海軍は、造船業界の不況対処および戦時の優秀船舶確保のために、一部の民間造船所および建造船舶に補助を与えていた。サンフランシスコ航路のために日郵船が1938年(昭和13年)に計画、1939年(昭和14年)に起工した大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」は、商船としてはそれまでの日船舶で最大で、建造にあたり大型優秀船建造助成施設を適用され、有事の際に航空母艦に改造できる設計をとることを条件として、日海軍から建造費用の6割の補助を受けていた[12]。1940年に開催予定だった東京オリンピックのために建造され

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  • 千歳型航空母艦 - Wikipedia

    千歳型航空母艦(ちとせがたこうくうぼかん)は、大日帝国海軍の航空母艦の分類[20]。千歳型水上機母艦から航空母艦に改造されたものを同型艦としている。ただし、この軽空母の艦型名は太平洋戦争中のアメリカ合衆国での報道や[注釈 3]、終戦後の出版物で使用されている便宜上の名称であって、千歳型航空母艦と紹介される「千歳」「千代田」は、日海軍の艦艇類別等級において「瑞鳳型航空母艦」に分類されている[2]。 千歳型水上機母艦については「千歳型水上機母艦」を参照。 特徴[編集] 先に改造された瑞鳳とほぼ同じ要領の平甲板型空母である[5]。ただ飛行甲板の高さは同規模の瑞鳳より1m以上低かった[20]。 また船体に最大幅1mのバルジを装着した。 機関は水上機母艦時と変化はない[20]。煙突は日海軍空母特有の右舷から下方へ向けるもので、1番高角砲直後にある煙突がボイラー用、3番高角砲直前のそれがディーゼ

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  • 瑞鳳型航空母艦 - Wikipedia

    瑞鳳型航空母艦 (ずいほうがたこうくうぼかん)あるいは祥鳳型航空母艦 (しょうほうがたこうくうぼかん)は、大日帝国海軍の小型航空母艦の艦型[注釈 1]。 瑞鳳型航空母艦は日海軍の艦艇類別等級表で使用されていた艦型名であり、瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田の4艦を同型艦に分類している(その時点で祥鳳は沈没し、除籍済み)[16][17]。 太平洋戦争中のアメリカ合衆国のマスメディアでは祥鳳が「Ryukaku」と報道されたほか[18][19]、瑞鳳級小型母艦や[15]、瑞鳳級軽空母と報道した事例がある[注釈 2]。 一方で、祥鳳型航空母艦は戦後の出版物で使用されている艦型名であり、計画段階で第一状態(平時)が艦隊用高速給油艦(後に剣埼型潜水母艦)、第二状態が航空母艦への改造が可能なように設計された瑞鳳(高崎)と祥鳳(剣埼)を同型艦としている。 項では剣埼型潜水母艦より改装された瑞鳳と祥鳳を中心に解

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  • 雲龍型航空母艦 - Wikipedia

    ミッドウェー海戦の戦訓として格納庫には「炭酸ガス式消火装置」に代わって、2%石鹸水と空気を混合して庫内を泡で覆う「泡沫式消火装置」が設置された[17]。その他防御力の強化として吸気口の位置の改善、舵取室と舵取機械室の防御強化、格納庫の通風強化など、不燃対策として不燃性塗料の使用やリノリュームの廃止、可燃性の備品を撤去するなどが実行された[17]。またガソリンタンクの周りをコンクリートで囲み漏洩防止を行った[17]。 機関 機関は翔鶴型や大鳳型(蒸気温度350度、圧力30kg/平方cm[25])、隼鷹型(蒸気温度420度、圧力40kg/平方cm[6])で使用された高温・高圧缶の採用が見送られ[18]、飛龍と同じで、鈴谷型重巡洋艦と同一の機関を搭載[26]、蒸気温度220度、圧力22kg/平方cmだった[6]。最高出力152,000馬力、速力34ノットは空母として十分な値だった[18]。ただ初

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  • 冲鷹 (空母) - Wikipedia

    空母改装前の新田丸(1940年) 冲鷹(ちゅうよう)は[19]、大日帝国海軍の航空母艦[6]。 「冲」は高く昇って到達するの意があり[注釈 4]、鷹が大空高く昇っていく様を意味する[21][22]。 概要[編集] 軍艦冲鷹は[6]、大鷹型航空母艦の三番艦である[23][24]。 1940年(昭和15年)3月に三菱重工業長崎造船所で竣工後[25]、貨客船として太平洋航路で運航されていた日郵船の新田丸級貨客船1番船新田丸(にったまる)を[26][注釈 5]、1941年(昭和16年)9月に日海軍が徴用[28][29]。運送船として使用後、太平洋戦争開戦後に空母へ改造した艦艇である[30]。 1942年(昭和17年)中旬より呉海軍工廠で空母改造に着手[28]。同年8月20日の軍艦籍編入および艦艇類別等級表への類別時に[3]、新田丸から冲鷹に改名された[6]。 新田丸級貨客船としては1番船-新

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  • 隼鷹 (空母) - Wikipedia

    隼鷹(じゅんよう)は、大日帝国海軍の航空母艦[23][24]。 艦名は猛禽類のハヤブサとタカに由来する[24]。 隼鷹型航空母艦の1番艦[25]。 飛鷹の建造番号(仮称艦名)は1001号艦、隼鷹の建造番号(仮称艦名)は1002号艦である[26]。一部の資料(文献)では、隼鷹を飛鷹型航空母艦の2番艦とする[27][28]。 概要[編集] 軍艦隼鷹(じゅんよう)は、日海軍の航空母艦。 有事の空母改造を前提に、1939年(昭和14年)3月から三菱長崎造船所で建造中だった日郵船の橿原丸級貨客船1番船橿原丸(かしはらまる)を[29][30]、航空母艦(空母)へ改装した艦船である[31][32]。 1942年(昭和17年)5月3日に特設航空母艦として竣工[26][33]。第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)としてAL作戦(アリューシャン攻略作戦)に従事した[34][35]。 同時期に行われたミッドウェー海

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  • 大鷹 (空母) - Wikipedia

    ラバウル方面へ航海中の1942年(昭和17年)8月31日、特設航空母艦2隻(春日丸、八幡丸)は、それぞれ軍艦大鷹(タイヨウ)および軍艦雲鷹(ウンヨウ)と改名された[5][84][85]。2隻は同日附で正式に航空母艦となった[4]。 大鷹は佐世保鎮守府籍に所属[29][86]。艦容に変化はない[87]。 9月2日、ラバウルに到着して航空機輸送任務を終えた[88]。大鷹はラバウルに入泊した唯一の日空母となった[85]。つづいてラバウル方面に進出することになった第二十一航空戦隊と第二十三航空戦隊の内の戦闘機と艦爆の輸送に従事した[89]。9月13日にミンダナオ島・ダバオを出発、17日カビエン沖合で航空隊を発艦、22日ダバオ〜25日カビエン沖合で発艦、これで輸送任務を終了し、第7駆逐隊の護衛下で[要出典]トラック泊地に向かった[90]。 一旦、内地帰投の予定となる[91]。なお艦航海中、大鷹の

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  • 神鷹 (空母) - Wikipedia

    歴史[編集] シャルンホルスト[編集] 写真は1935年に撮影された貨客船シャルンホルスト。 ドイツの大手海運会社である北ドイツ・ロイド汽船(en:Norddeutscher Lloyd、以下NDL)の貨客船として、ブレーメンのデシマグ社(DeSchiMAG en:Deutsche Schiff- und Maschinenbau)にて建造された。1930年初頭、NDL社は大西洋航路に大型客船2隻(ブレーメン、オイローパ)を投入し好評を得てたが、太平洋航路では他社との競争が激化し、特に日郵船は1万トン級貨客船(照国丸、靖国丸、浅間丸)を就役させていた[38]。NDL社はブレーメン号で得た経験をもとに、熱帯海域を通過して長距離航海を行う大型客船3隻(1万8000トン以上、平均速力21ノット、客船数300、大型貨物庫装備)の建造計画をまとめる[39]。これが級3隻(シャルンホルスト、グナイ

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  • 瑞鳳 (空母) - Wikipedia

    3月3日、瑞鳳の零戦隊15機はアメリカ軍陸上爆撃機隊と交戦したが、2人(壇上滝夫上飛曹、牧正直飛長)が戦死、輸送船団の援護にも失敗した[68]。続いて4月2日よりい号作戦に零戦21機・艦攻8機を派遣する[69]。4月18日、同作戦指導のため最前線に赴いていた山五十六連合艦隊司令長官は、搭乗機を撃墜され戦死した(海軍甲事件)。5月3日、第一航空戦隊はトラック泊地を出発し、9日に佐世保に到着、修理と飛行甲板の20m延長、航空隊再編が実施された[70]。6月15日、ドックを出渠すると、18日から瀬戸内海で訓練に従事した[71]。7月9日、呉を出港し15日トラック泊地着[要出典]。9月18日~19日、アメリカ軍はギルバート諸島(タラワ、マキン、アパママ、ナウル)の日軍に対し、アメリカ軍機動部隊(レキシントンⅡ、プリンストン、ベロー・ウッド)と陸軍第7航空部隊による大規模空襲をおこなった[72]

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  • 祥鳳 (空母) - Wikipedia

    12m内火艇1隻、11m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船1隻[20] 祥鳳艦形図 祥鳳(しょうほう/しやうほう、旧字体:祥󠄀鳳)は[14][28]、日海軍の航空母艦[29]。 剣埼型潜水母艦「剣埼」(つるぎざき)として建造され[30][31]、のちに航空母艦へ改造された[32][33]。 太平洋戦争開戦後の1941年(昭和16年)12月22日、航空母艦として竣工[34]。この時に「祥鳳」と改名した[35]。第四航空戦隊に編入される[10][11]。 1942年(昭和17年)5月、祥鳳は南洋部隊(指揮官井上成美中将、第四艦隊司令長官)の指揮下でポートモレスビー攻略作戦に参加[36]。同作戦従事中の5月7日、珊瑚海において米海軍機動部隊[37](ヨークタウン、レキシントン)艦上機の攻撃で撃沈された[38](珊瑚海海戦)[

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  • 天城 (未成空母) - Wikipedia

    東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。(1923年9月3日) 天城(あまぎ)は、日海軍の未成航空母艦[1]。横須賀海軍工廠で天城型巡洋戦艦として起工されたが[2]、ワシントン海軍軍縮条約にともない巡洋戦艦としての建造は中止される[3]。 条約の規定により、航空母艦へ改装された[注 1]。 だが進水前に関東大震災で損傷、廃棄された[5]。 天城の代艦が[6]、空母加賀である[7][8][注 2]。 艦型[編集] 軍艦天城(あまぎ)は[10]、八八艦隊計画における天城型巡洋戦艦として[11]、横須賀海軍工廠で起工された[注 3]。 艦艇類別等級別表では天城、赤城の順である[13]。一般に「天城型巡洋戦艦/天城級巡洋戦艦」と呼称される[注 4]。 一部資料では、赤城級巡洋戦艦の名前を使用する[15]。 書類上は「巡洋戦艦」であるが、実態は

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  • 伊吹 (空母) - Wikipedia

    伊吹(いぶき)は、大日帝国海軍の航空母艦である[21]。改鈴谷型重巡洋艦の1番艦として起工され、建造中に航空母艦へ変更されたが、未完成のまま終戦を迎え[22]、1946年(昭和21年)に解体処分された。 艦名は「伊吹山」による[23][24]。日海軍では同名の艦艇に、巡洋戦艦「伊吹」(1923年9月20日に退役)があった[24][25]。海軍施設部補給部書記生だった遠藤昭によれば、候補艦名としては他に『鞍馬』があったという[26]。 艦型[編集] 空母「伊吹」完成予想図 空母への改装による重心の上昇に対応し復原力をあたえるため、船体にバルジが増設された[27][28]。また艦載機の大型化に対応するために、船体長よりも長い飛行甲板(長さ205m、幅23m)を設置する[29]。このため、従来の日軍小型空母のように船体前方の飛行甲板下に艦橋を設けることが出来ず[27]、日の小型空母とし

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  • 龍鳳 (空母) - Wikipedia

    海軍は格的な潜水母艦として迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨、長鯨)を保有していたが、八八艦隊の中型潜水艦に対応した能力であった[46]。昭和時代に入って潜水艦の高性能化が進むと、迅鯨型は潜水母艦としての性能が不足するに至った[46]。この状況下、巡潜・海大潜に対応した潜水母艦として建造されたのが[46]、大鯨[38] と、高速給油艦から潜水母艦になった剣埼である[47]。前述のように、有事には航空母艦に改造することを前提とした設計だったが[38]、潜水母艦の能力も迅鯨型より飛躍的に向上していた[46]。 潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて1933年(昭和8年)4月12日に起工された[48]。同年5月23日、大鯨(たいげい)と命名[27]。 大鯨は、日海軍の1万トン級大型艦として初めて電気溶接を多用した[38]。大鯨の計画喫水線長は211.12メートルに達し、これは重巡高雄や妙高より約10m長

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  • 鞍馬 (空母) - Wikipedia

    鞍馬(くらま)は大日帝国海軍が建造を予定していた、雲龍型航空母艦。艦名は京都府北部にある鞍馬山による[1]。海軍省達号で艦の命名にかかるものは存在せず、記事で標題とした艦名はあくまでも候補艦名の一つに過ぎない。他の候補名として開聞(かいもん)があった[2]。戦況の悪化により建造中止。 計画[編集] 1942年(昭和17年)策定の改⑤計画による雲龍型航空母艦の7番艦で、同計画による仮称艦名第5008号艦。 予定建造所は三菱長崎造船所。1943年11月に起工し、1945年12月の竣工を予定していたが[3]、1944年5月5日の建造線表の改訂により建造取りやめとなった[4]。 同型艦[編集] 雲龍 - 天城 [III] - 5002号艦 - 葛城 [II] - 笠置 [II] - 5005号艦 - 阿蘇 [II] - 生駒 [II] - 5008号艦(鞍馬 [II]または開聞) - 500

  • 生駒 (空母) - Wikipedia

    生駒(いこま)は日海軍の未成航空母艦。雲龍型航空母艦の6番艦(第5007号艦)[2]。 特徴[編集] 艦名は奈良県と大阪府にまたがる生駒山にちなんで命名された[15]。艦名は装甲巡洋艦(のち巡洋戦艦)「生駒」に次いで2番目[15]。他の候補艦名に妙義があった[16]。 第5007号艦(生駒)から第5015号艦の9隻は、計画番号はG16と第5006号艦までの雲龍型と同一ながら、若干の計画変更がされている[7]。電源は、第5006号艦までは「飛龍」と同じ直流220Vだったが、艦以降は当時の新造艦と同じ交流440Vとされた[17][18]。これは機器の調達の関係での変更とされる[17]。 生駒は、『艦艇類別等級表』では雲龍型航空母艦である[2]。一方、『一般計画要領書』では、「第302号艦型(飛龍改)(5)」(第302号艦は「雲龍」のこと、(5)は建造数または計画数)とは別に「第5007号艦

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  • 阿蘇 (空母) - Wikipedia

    阿蘇(あそ)は日海軍の未成航空母艦[16]。雲龍型航空母艦の5番艦[3]。 概要[編集] 艦名は九州の阿蘇山による。艦名は装甲巡洋艦の「阿蘇」に次いで2番目。他の候補艦名は身延[17]。終戦直前、特攻兵器の標的艦となった。 艦歴[編集] 1942年(昭和17年)度策定の改⑤計画により第5006号艦として計画された[18]。主機の生産が間に合わず、「葛城」と同様に駆逐艦用の主機を2組搭載した[19][注釈 1]。そのため出力は104,000馬力、速力は32ノット(雲龍は152,000馬力、34ノット)に低下する計画だった[9][20]。 1943年(昭和18年)6月8日、艦は呉海軍工廠で起工[1][21]。 1944年(昭和19年)9月5日に「阿蘇」と命名[22]、雲龍型の5番艦とし[2]、籍は呉鎮守府と仮定された[23]。同年11月1日に進水[1][16]、同日附で呉鎮守府籍[5]。

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  • 笠置 (空母) - Wikipedia

    笠置(かさぎ)[16]は、日海軍の未成航空母艦[17]。雲龍型航空母艦の4番艦[3]。第5004号艦[8]。 特徴[編集] 艦名は京都府の木津川に望む笠置山地の山の一つである笠置山に由来する[18]。 この艦名は、明治時代の笠置型防護巡洋艦1番艦「笠置」[19][20]に次いで2番目。他の候補名として乗鞍があった[21]。 工事簡易化のため煙突の形状は変形六角形になる予定だったが、実際は従来と同様の楕円形状になっている[22]。飛行甲板は前端の左右が斜めに切り落とされていた[23]。機関建造が予定通りに進まず、改鈴谷型重巡洋艦(伊吹「第301号艦」)用の機関を流用し搭載している[24]。 25mm3連装用の機銃座は葛城と同数の22基分が用意されている。形状は当初計画のものは角が丸く、増備のものは多角形と混載になっていた[25]。また防煙盾付の3連装機銃は葛城では煙突直後の2基のみだったが

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  • 鳳翔 (空母) - Wikipedia

    1919年(大正8年)10月21日 - 仮称船名第七号特務船を特務船鳳翔と命名[33]。 1920年(大正9年)4月1日 - 海軍特務艦艇類別標準の制定[130]に伴い特務船が廃止されたため、船は特務艦鳳翔と改名[131]。12月16日 浅野造船所にて起工[注釈 1]。 1921年(大正10年)10月13日 - 軍艦に編入[131]、軍艦鳳翔に改名[132]、航空母艦に類別[133]。11月13日 進水[6]。以後の艤装工事は横須賀工廠で行う。 1922年(大正11年)12月27日 - 竣工[7]。 1923年(大正12年)2月 - 元イギリス空軍大尉ウィリアム・ジョルダン(英語版)が、鳳翔に世界初の着艦に成功。ジョルダンの報酬は1万円。3月、吉良俊一大尉が日人で初めて着艦に成功。吉良大尉は海軍大臣加藤友三郎から表彰された。 1924年(大正13年)- 改装工事に入る。 1925年(大

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