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cognitive scienceに関するmicrotestoのブックマーク (10)

  • 「Bad Acts and Guilty Minds」序章 飛ぶ前に見ることが必要な人たちへ - shorebird 進化心理学中心の書評など

    序章のタイトルがなかなか笑わせてくれる.要するにこれから何について語るのかの概要を示しているのだが,こんなところを見なくてさっさと章を読んでもいいよというわけだ. いくつかの刑法の問題は初心者にとって魅力的だし,そしてそれは専門家にとってもそうだという.多くの人は刑法は「十戒」のようなもので,やってはいけないことを列挙しているだけだと思っているかもしれないがそれはそうではないという.そしてそんな列挙だけではなぜうまくいかないのかを示しているのが書でもあるという.日では刑法総論として語られる部分だ. 書の構成は以下の通りとなる. まず第1章はNecessityの抗弁から始まる.これは日法では「緊急避難」といわれるもので,通常「違法性」要件に当たる.英米法では違法性の問題か責任の問題かであいまいであるらしい.救命ボートから定員オーバーの人間を放り出す行為,共産主義から逃げ出すためにハ

    「Bad Acts and Guilty Minds」序章 飛ぶ前に見ることが必要な人たちへ - shorebird 進化心理学中心の書評など
  • スタノビッチ「心は遺伝子の論理で決まるのか」 - Vox

    上記のがみすず書房から椋田直子さんの訳で来週(12/19)に出版される.これの解説を書くようにゲラが送られてきて,読んでみたところ,大変におもしろい点を含んでいること,また自分が主張したかったことの一部がかなりしっかりと取り上げられて展開されていることに気づきました.そういうことで書いた解説が以下のものです. 書はトロント大学人間発達・応用心理学部教授キース・スタノビッチ氏による「The Robot's Rebellion: Finding Meaning in the Age of Darwin」(University of Chicago Press)の全訳である。スタノビッチ教授は推論や読解の研究で数多くの論文を著し、その業績によりいくつもの国際的な賞を受賞している、この分野のリーダの一人である。さて書は、一言でいえば、これからの時代の合理性のあり方を問う書である。著者のスタノ

  • 消去主義と解釈主義との違い、または政府転覆計画について - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    ときどきデネットを介して一緒くたにされてしまう消去主義と解釈主義との違いについて書こうと思うのだが、その話をする前に素朴心理学その他うんぬんを説明しなければならないという面倒くさい仕事が待っている。知識のない読者には悪いが、面倒なので大雑把な説明で勘弁願いたい(でなければこの記事自体を書く気がしない)。 素朴心理学というのは世間一般の人が信念や意図や欲求などを用いて人の行動を説明する説明方法のことであり、基的に学術的な心理学とは関係がない。素朴心理学でも用いられる信念や意図などは「天狗がいると信じる」とか「酒を飲むのを欲する」などの命題的態度を形作るのが特徴だ(心の哲学の説明を試しに書いてみましたも参照。命題って何とか言う人は記号論理学を勉強してください)。 ここでそもそも素朴心理学が依拠する信念や意図や欲求などが存在するかが怪しまれる。直接に知覚も観察も出来ない信念や意図や欲求などとい

    消去主義と解釈主義との違い、または政府転覆計画について - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • セラーズが示唆するもう一つの道 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    アメリカの哲学者セラーズは知覚の構造と言語の構造との違いを強調する。言語の構造と知覚の構造とが同じであるとするのは、論理実証主義などに代表される古典的な説である。ウィトゲンシュタインが「哲学探究」の最初でアウグスティヌスを引用しながら批判している名づけ説、つまり個物があってそれに名前を付けると言う考え方、はそこから導かれる。セラーズがそれを批判しているのは確かだ。そこでセラーズ人は知覚に関する現象学的な理論の必要性を訴えている。しかし、セラーズ論文に序文を寄せているローティ(およびローティに言及されているブランダム)はそれを否定しており、その結果として採用する説が言語ゲーム一元論であり、その点でローティは相対主義だと非難されることもある。だからといって、主流の進化心理学者みたいに極端な普遍主義(生得主義)に走るのもあまりに真反対すぎて納得いかない。セラーズが示唆したのは別の道ではないのか

    セラーズが示唆するもう一つの道 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 心の哲学に関する解説へのリンク - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    心の哲学・心の科学への十五分ツアー 河野哲也 http://www.jinbunkai.com/html/bun_news_syo.php?info_id=46 http://www.jinbunkai.com/html/bun_news_syo.php?info_id=47 http://www.jinbunkai.com/html/bun_news_syo.php?info_id=48 心の哲学について http://www.kcg.ac.jp/acm/a5024.html いろいろ検索してたら、上にある十五分ツアーのサイトを見つけたのでリンクしておきます。下のリンクも関連ってことでおまけで付けときます。ただ気になったのは、十五分ツアー(3)で脳同一説を代表する哲学的著作として紹介されているアームストロングの『心の唯物論』は、他の心の哲学の著作では機能主義の代表作として紹介されているの

    心の哲学に関する解説へのリンク - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • セラーズ「経験論と心の哲学」第3部「見える」の論理 を解説してみる - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    「赤がある」と「赤が見える」と*1はどちらが根底となる命題なのだろうか。伝統的な哲学の議論では「赤が見える」が根底であり、「赤がある」はそこに存在が付与されるものであるとされた。しかし、セラーズはこれを否定する。「赤がある」こそが根底であり、「赤が見える」はそれが疑わしいときに用いられるのであると。どういうことだろうか。 実際に言語を用いる場面を考えれば分かる。目の前に何かがある場面で他者に向かって、「赤がある」と言うときと「赤が見える」と言うときとを比べて考えてみればよい。他の人にもそう認めてもらえると分かっていたら普通「赤がある」と言う。「赤が見える」とわざわざ言うのは他の人にそう認めてもらえるかがあやしいときである(そう見えるのは私だけ?)。そしてこれが私だけでなく一般的な人々の言語の用い方だと認めたうえで、言語を習得する場面を考えると良い。他者が目の前に何かがある場面で私に向かって

    セラーズ「経験論と心の哲学」第3部「見える」の論理 を解説してみる - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 記号主義倫理学の可能性 - 現在思想のために

    記号主義は認識論や存在論などの分野に深い関係があるが、じつは倫理学とも関係がないわけではない。それどころか、記号主義的な倫理学へのアプローチを主として認知意味論者(Johnson、Sweetzerら)が試みて興味ある成果をあげている。 筆者の見るところ、この種の試みには豊かな将来性があるとおもえる。<記号主義倫理学>がいまよりさらに確かな基礎に立って応用倫理学へ寄与することができたら――部分的にはすでに実現しているが――20世紀以降の倫理学の歴史に新たなページを書き加えることになるだろう。なぜなら、記号主義倫理学はその自然主義のゆえに、ムーアの<自然主義的誤謬>という強迫観念にさいなまれている現代の倫理思想を超えることが可能だからである。かつて筆者はこうした問題意識をもって、<自慰>に関する倫理学的考察を書いたことがある。このたび機会があって新たな論点を追加したうえで、コンパクトに筆者の考

    microtesto
    microtesto 2007/02/17
    >>認知モデルはたしかに相対的であるが相対主義的ではない。モデルの変異(variations)は人間性の変異可能性(variability)の表現であり、人間性の違いではない。
  • 言語について素朴に考える (3) 〜インターネット言語そして音楽〜 - 東京永久観光

    言語記号は現実の対象だけでなく他の多数の言語記号とも複雑かつ規則的に結びつく、という話だった。この働きは通常は自分の脳内で起こっている。ところがインターネットの言語に限っては、きわめてショッキングなことが新たに起こる。読み書きしている言語記号の一部が、リンクおよびクリックによって、インターネット上の他の多数の言語記号とも、同じく複雑な関係を勝手に編み上げてしまうことだ。これは脳内とは独立であり、しかも脳内の言語関係が目に見えないのと対照的に、インターネット言語のリンクによる結びつきはモニター上で確実に顕在化する。このことが私は何より面白い。これはまた改めて。 ただし、インターネットの言語「カレーライス」も、やはり実物のカレーライスにはリンクしない。そこは我々がふだん使っている言語と変わらない。ときにはカレーライスの写真くらいは出現するだろうが、それは言語と同じくカレーライスの記号でしかない

    言語について素朴に考える (3) 〜インターネット言語そして音楽〜 - 東京永久観光
  • 心の哲学の説明を試しに書いてみました - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    ネット上で心の哲学について調べていて、日のウィキペデアの記述のひどさに呆れ、そこからリンクされている日語の論文の説明にまずさを感じた(認知科学と人工知能は別でしょ…とか)ので、自分で心の哲学の説明を書く気になった(ネット上でデネットを消去主義とか言う無知もいたし、そりゃあクオリアは消去したかもしれないけどさ〜)。自信はないので、おかしなところがあったら指摘してください。とりあえず分析哲学系の何とか主義はかなり網羅させたつもり。 それにしても、認知科学と関連づけたら書きやすいな。他に意識やクオリアの問題もあるが、私にはあまり整理できてないのでやめておく(チャーマーズが哲学的な意識問題をまとめたとは思っているが…)。 心の哲学(暫定版) 心の哲学とは、心に関する様々な根底的疑問に答えようとする哲学の分野である。 心の哲学での主要な問題として心身問題が挙げられる。心身問題では心と身体とがお互

    心の哲学の説明を試しに書いてみました - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 意識の中心と周辺: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 アイトラッキング調査をしていると、人が見ているものとその人の意識が必ずしも一致していないんだなということに、あらためて気づかされます。 目はWebの画面を追っていても、実際には見ているという意識がないことがあるんです。 調査結果のホットスポット分析の画像で長く注視していたポイントについて、被験者に尋ねても、そこを見ていたという記憶がなかったり。また、何かの記事を読んでもらっていて、視点の移動が時々、前の段落に戻ったりすることが見られますが、そういう場合も単純に読み直したくなったというケースもあれば、他のことを考えてしまって読んでなかったことに気づいて戻るというケースがあったりします。 なので、アイトラッキングの目の動きだけを見て、どこを見ていた/見ていなかったを判断するのは

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