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2020年5月30日のブックマーク (4件)

  • 新型肺炎の「終息」? 「収束」? | ことば(放送用語) - 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究所

    新型肺炎の「シューソク宣言」は、「終息」でしょうか、「収束」でしょうか。 この場合は「終息宣言」です。「終息」と「収束」とは非常に意味が近いのですが、 使い分ける必要があります。 まず「終息」についてお話しします。「終」は文字どおり「終わる」という意味ですが、「息」という漢字にも「止<や>む」という意味があります。つまり「終息」は、似た意味の漢字を2つ重ね合わせて「完全に終わる」という意味になっていると考えることができます。 次に「収束」について説明します。これは「収まる」「束ねる」ということから、「(状況・事態などが)ある一定の状態に落ち着く」という意味になっています。ふつう、「(例えば新型肺炎の)問題・感染状況」などについて使うことが多く、「新型肺炎」といった病気自体が「収束する」という言い方(書き方)は、あまりしません(なお、似たことばとして「集束」というものもありますが、これは「光

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    mmsuzuki 2020/05/30
  • 東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>

    このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。 最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。 江戸における花火は、慶長18(1613)年8月3日、徳川家康が見たのが初めてのようです。 花火はすでに天正年間(1573~92)には日に伝来してきていたといわれ(一説には天文10年鉄砲と共に伝来したともいう)、この上覧花火を契機に江戸で花火が流行し始めました。やがて流行は極度に達しましたが、花火は火災の危険があったり、砲声とまぎらわしい音を出したりするので、幕府は慶安元(1648)年以来、しばしば「町中に於て、花火立て申すまじく候、但し、大川筋、海岸の分は苦しからず候」といった町触れを出したりしました。 一方、花火制限令で治まらないのが江戸っ子の腹の虫。当時、御浜御殿のノロシ方をしていた弥兵衛が享保2(1717)年5月28日

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    mmsuzuki 2020/05/30
    “コレラで始まった両国花火 ”
  • 隅田川花火大会

    柳橋で船宿を営まれる舟宿小松屋の佐藤純子さんに、隅田川の花火大会の歴史について、お話しを伺いました。平成29年(2017)10月に取材しました。 隅田川花火大会の由来について Q : 隅田川での花火の始まりについて伺えますか。 佐藤 : 享保17年(1732年)、飢饉と疫痢の流行による死者の慰霊と悪疫退散のために、八代将軍徳川吉宗が両国で花火を打ち上げたことが、両国川開き花火の始まりと言われています。元々、隅田川の川開きの日に水神祭が行われていて、それに併せていたようです。これは施餓鬼と言う催しと思われます。将軍吉宗が催した両国川開き花火以前から、江戸市中で花火が盛んになり、火災も多く発生したため禁止され、隅田川下流の右岸のみに制限されました。 Q : 両国の川開きが発祥だとの話ですが、浅草寺や浅草神社にも縁があるのでしょうか。 浅草寺、浅草神社との繋がりは、あまり無いのではと思われます。

    隅田川花火大会
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    mmsuzuki 2020/05/30
  • 大会について|隅田川花火大会

    実施計画概要 令和6年(第47回)隅田川花火大会実施計画概要(抜粋) 開催日時 令和6年7月27日(土)午後7時~午後8時30分 荒天等のため実施できない場合は中止とする。 ※荒天等による実施可否判断は、原則として当日の午前8時に行う。 実施区域(打上場所)及び打上業者 第一会場: (株)ホソヤエンタープライズ 第二会場: (株)丸玉屋小勝煙火店 隅田川花火大会の歴史 花火大会の歴史と復活について 今に伝わる「隅田川花火大会」の名称は昭和53年からと意外と新しい名称です。その前の名称は、「両国の川開き」という名称で、昭和36年まで打上場所は両国橋上流で行われていました。しかしながら、交通事情の悪化等に伴い翌年以降は開催ができなくなりました。 その後、昭和53年に「隅田川花火大会」と名を改め、ビルで囲まれた隅田川で復活しました。 また、打上場所もさらに上流へ移動し、打上会場も2ヶ所となりより

    大会について|隅田川花火大会
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    mmsuzuki 2020/05/30