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正岡子規に関するmshkhのブックマーク (8)

  • 仰臥漫録 (その2) (正岡子規)

    仰臥漫録 (その1)の続きのエントリである.だいぶ時間が経ってしまった. 私の個人的な話になるのだが,いつも,仰臥漫録を読み終えてしばらくしてから心に残るのは,律という女性の存在なのである.それは,漱石の「坊っちゃん」を読み終えたとき,清という老女の存在が忘れられないものになっているのと似ている. 律は,子規の妹である.律がどんな女性であったか,それは,一方的な観点からではあるものの,子規の写実的な記述が余すところなく伝えている. 律は強情なり 人間に向つて冷淡なり 特に男に向つて shy なり 彼(注: 律のこと)は到底配偶者として世に立つ能(あた)はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人としてなりをはれり (中略) 律に勝(まさ)る所の看護婦即ち律が為すだけの事を為し得る看護婦あるべきに非ず (中略) しかして彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費(つ

  • 仰臥漫録 (その1) (正岡子規)

    正岡子規の作品が好きで,岩波文庫から出ているものはたいてい読んだように思う.中でも,「仰臥漫録」は,今まで繰り返し読んできた.この夏休みにも読み返し,思うところもあるので,ここにエントリにしてみたい.中途半端な長さになってしまったので,二つのエントリに分けてみることにする. 仰臥漫録は,明治34年から,子規が死に至る翌年の明治35年まで,その病床の記録を子規自身が記したものである.明治34年当時,子規は35歳であったが,既にその肺は左右ともほぼ空洞になっており,いつ死んでもおかしくないような状態だったという.自分では寝返りも打てないような重病人の子規が,文字通り仰臥のまま毛筆で記したものがこの仰臥漫録である. 仰臥漫録において,子規自身が赤裸々に語る,闘病時における激痛・苦悶の様子はすさまじい. 前日(註:明治34年10月6日のこと)来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず この日繃帯

  • 子規の旅行とバンカラ旅行 - 山下泰平の趣味の方法

    歴史の中で、偉大な旅人として名を残した人々がいる。 思い浮かぶのは松尾芭蕉か西行か、人それぞれ違うことだろうが、明治時代であれば正岡子規が、旅に生きた偉人とだといえる。 俳人や歌人として活躍し、随筆や評論の世界でも手腕をふるい、近代文学に大きく貢献した正岡子規であるが、かってはただの旅行熱心な若者だった。明治二二年の春休みにも、東京都文京区から茨城県水戸市まで約一〇〇キロを徒歩で旅行している。 偉人になった若者の旅行 バンカラによる夜間遠足 勤労学生の行商旅行 偉人になった若者の旅行 明治時代の若者たちは、多かれ少なかれ無茶な旅行を好んでした。例えば明治の初めにも、断旅行というのがブームになっている。物をべずに名勝古跡を巡ることで、お金をかけずに知見を広げることができる上に、体も鍛えられる……これが断旅行の効能である。断しながら歩き続けたところで強くなれるとは思えないのだが、そこは

    子規の旅行とバンカラ旅行 - 山下泰平の趣味の方法
  • 『子規交流』 - 黌門客

    喜田重行氏の遺著『子規交流』(創風社出版2009)の冒頭に収める「子規と哲学僧」は、晩年の正岡子規の許に届いた書簡が、実は清沢満之(きよざわまんし)からのものではなかったか、と推測したものである。某ネット百科事典にもこの事実は記されているが、2014年刊のに基づいて書いているらしい。そのが喜田氏を参照しているのかどうかは知らないし、喜田氏がこの説を初めて唱えたのかどうかも分らない。 司馬遼太郎は、かつて「正岡子規が満之を知っていたかどうか」を「調べたことがある」が、「どこにもでてこな」かった(同書p.6)と書いた。しかし喜田氏は、『病牀六尺』の四十二「六月二十三日」(明治三十五年)の記事(末尾に「六月二十一日記」とある)にみえる「郷の某氏より来た」の「某氏」こそが満之ではないか、と述べている*1。その根拠については同書を参照していただくとして、ここで驚くべきは、満之の「当用日記」が、

    『子規交流』 - 黌門客
  • 正岡子規:死の数年前の直筆書簡発見 京都- 毎日jp(毎日新聞)

  • イケメンの漱石がイギリスでハンサムジャップと罵られたというシャレ

    夏目漱石はイケメンであり、イギリスでハンサムジャップと罵られたことがあるというようなエピソードが、ネットで流れているのを見たことがある。 これはかなり上手くできたシャレだが、理解するためにはいくつか知っておかなくてはならないことがある。 こういうことを書くのはヤボなのだけど、かなり気に入ってしまったので、解説をしておきたい。 明治期の写真はほとんど修正されている明治期の写真が修正されているというのは、わりと有名なお話だ。 当時は写真を撮ること自体が珍しかった。せっかく撮るんだからと、写真は修正されることが多かったというわけだ。 欧米諸国へのコンプレックスもあって、西洋人の美しい顔を目指し修正していたのだろう。だから明治人の写真は、鼻筋が通っていて、目もパッチリしているものが多い。そんな写真を見て、現代の私たちが、イケメンだと感じてしまうのも当然の話である。 というわけで、『漱石はイケメンだ

    イケメンの漱石がイギリスでハンサムジャップと罵られたというシャレ
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