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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (79)

  • ララビアータ:左翼の保守主義的バックボーン - livedoor Blog(ブログ)

    拙著『読む哲学事典』における「保守主義と左翼」の小文に、コメントをいただいたのをきっかけに気づいたことがあったので、それをここに書き留めておきたい。 私は左翼も愛国的コミットメントを持つ必要を主張してきた。ここでいうコミットメントの対象は必ずしも国家ではなく、むしろ伝統である。たとえばロストロポーヴィッチの言葉を引いて伝統について考察した項では、チャイコフスキーの演奏についての「ロシア的伝統」が、上辺ばかりの効果を狙うものでしかないと批判し、真の伝統に立ち返らねばならないとする考えを紹介している(「歴史と伝統」の項参照)。この伝統は、ロストロポーヴィッチの音楽を培ったものであり、その音楽の表現とその文法を彼に教えたものである。自分自身の音楽的実存の根幹を育て上げた母胎であればこそ、その歪曲を許しがたいと感じるのである。ここに深いコミットメントが生まれる。他の芸術や哲学でも宗教でも、かかるコ

    namawakari
    namawakari 2024/03/20
    “フランス革命の重大欠陥は、その主たるイデオロギーであるルソー主義にあったと言わざるを得ない”/非常に興味深い論点だけど、
  • ララビアータ:美学覚書 - livedoor Blog(ブログ)

    美学のアンチノミー およそ「美学」という分野がはっきりとした形を取るのは、近世18世紀のころだとされている。近代の「美学」とそれ以前のあいだには、大きな亀裂があると考えるのが妥当である。アリストテレスの『詩学』は悲劇について論じたものであり、芸術一般を論じたものではない。そもそもギリシアにおいては、詩人の仕事と彫刻家の仕事が共通する芸術という領域の分枝であるという意識は全くなかった。後者は、肉体労働であるから一段卑しいものと観念されていたのである。ブルクハルトは、彫刻の分野が盛期ギリシアの末期になっても、依然としてその輝きを失わなかった理由として、それが精神にとって重要なものとは見なされていなかったことが幸いしたのであろうと考えるほどだ。(それに対して悲劇の方は、アテナイのポリスの政治と精神に深く依拠するものであったため、ポリスの衰退とともに悲劇の精神もまた衰退せざるを得ず、プロポネス戦争

  • ララビアータ:永井均氏の「批評」 - livedoor Blog(ブログ)

    namawakari
    namawakari 2023/08/29
    “「きれいは汚い、汚いはきれい」というマクベス的世界では、自然にあるがままを受け取ることが、真実の隠蔽に加担する欺瞞的イデオロギーになってしまうからである”
  • ララビアータ:福田恒存の保守主義 - livedoor Blog(ブログ)

    宇野重規氏の『日の保守とリベラル』(中央公論新社)を読んで、そこで論じられた福田恒存と丸山眞男の所論に対していくらか思うところがあるので論じてみたい。 福田恒存の保守主義 宇野氏は書第4章で、福田の独自の保守主義についてやや詳しく論じている。大雑把に言えば、福田氏の保守主義は次の二点に集約される。第一は「反イデオロギー」とでもいえるもの。もう一つは、「政治と文学の峻別」である。 福田に言わせれば、革新派はイデオロギーを掲げるが、保守派にとって重要なのはイデオロギーではない。保守とは生活感情であり、態度であって、決して主義ではないというのが福田の信念であった。p−116 福田は、D.H.ローレンスの研究者としてその『アポカリプス論』を重視していた。言うまでもなくローレンスは、アポカリプス論(『ヨハネ黙示録』論)で、ある種のキリスト教理解(ローレンス幼少期故郷の炭鉱労働者たちに典型的なもの

    namawakari
    namawakari 2023/03/14
    “福田恒存の保守主義には、保守すべきものの中核にそのような規範的原理となり得る概念的テクストが置かれていない。それゆえ、それが何を保守すべきと考えているか自体が、あいまいなままとならざるを得ない”
  • ララビアータ:(3)デリダの『グラマトロジー」 - livedoor Blog(ブログ)

  • ララビアータ:ベンヤミンの政治哲学 - livedoor Blog(ブログ)

    ベンヤミンは、政治について多くは語っていない。その主たる関心は、芸術批評と美学に向けられていた。私は拙著『文学部という冒険』で現代芸術の政治性を強調し、ベンヤミンの美学にも言及したので、その政治哲学的含意について論じておきたい。 もともとドイツ社民に対して深い軽蔑を抱いていたベンヤミンは、俗流マルクス主義に対しても何の共感も持たなかった。アーシャ・ラティスを通じて伝えられたロシア革命には大きな期待を寄せたが、それも公式のマルクス主義理論とかボルシェヴィキの組織に対してではなく、そこに示された新しいエトスやモラール(士気)に対してであったろうと思われる。 結論から言えば、私はマルクス主義をベンヤミンによって刷新することを期待する多くの理論家と違って、むしろマルクス主義から、とりわけマルクス主義の唯物論や自然主義から切り離すことによって、ベンヤミンの政治哲学の革命的意義を生かし得ると考えている

    namawakari
    namawakari 2022/05/07
    “全体知の中に個人の実存が描き込まれているというこのような理論的構図は、ライプニッツからヘーゲルまで、近代哲学の主流を構成するものである。”
  • ララビアータ:神様とは? - livedoor Blog(ブログ)

    以前の学校の元学生さんから、最近お尋ねのメールをいただいた「神様についてどう考へるか?」といふのである。それに対して最近考へてゐることを、かひつまんでご返事してみたので、以下その一部をここにご紹介する。 神についてお尋ねですね。一言で言へるものではありませんが、一般に信仰は理論的に論じるべきものではなく、縁のやうなものが大事です。宮沢賢治の『ビジテリアン大祭』について論じたとき書いたことですが、我々は仏教とかキリスト教とか…の優劣を論じることができる立場に立つことはできません(ビジテリアンのイデオロギーとユトピア 拙著『神学・政治論』勁草書房 所収)。我々は神や仏と、どのやうに出会ひ、またどのやうに出会ひ損ねるかといふことを離れて、いかなる信仰もないのです。その点でそれは、人と人との出会ひに似てゐます。 私の場合、学生の頃カトリックの寮でキリスト教と出会って以来、特に信仰者であったわけでは

    namawakari
    namawakari 2022/03/06
    “私にとって信仰とは、聖書といふテクストの中に、主体が自らの姿のアレゴリーを見出すといふことです。”
  • ララビアータ:マルクス主義 - livedoor Blog(ブログ)

    マルクス主義について、論争史的に論じてみることにする。わが国では、マルクス主義の理論的研究の歴史が厚いにもかかわらず、冷戦終結以後ほとんど顧みられなくなっているという現実がある。一般にこれは、我が国の思想史一般に言える傾向であり、次々になりゆく勢いにつれて流行を追うあまり、伝統とか正統というものが形成されず、以前に論じられた論争も結論も見ずにただ忘却されてしまうことになる。せっかく江戸時代に議論されてきた儒教の伝統が、明治になってほとんど顧みられなくなったようなものである。今日、マルクス主義が再び脚光を浴びつつあるが、そこでも以前に論争の的になった問題圏が忘却されているように見えるので、あらためて論争史的に議論してみたい。 順不同でこれまで論じられたことのある問題を列挙してみよう。 1) 何故「社会主義革命」が、マルクスの予言したように先進諸国で起こらず、後進地域においてのみ成功したのか?

  • ララビアータ:デカルトの読者 - livedoor Blog(ブログ)

    『方法序説』について書いたことに対して、批判をいただいたので、それについての私なりの返答をやや詳しく述べておこう。 デカルトの普通の読者は、思考内容と思考態度を区別し前者を悟性、後者を意志に基づけるデカルトの考えに同意している。フッサールのように、前者を志向的内容として現象学的還元を通しても確保できると見なしている者もいる。しかし常々私は、Bedeutungの存在をSinnの探究の前提とするフレーゲ流の意味理論に共感を示してきた(「悪魔の現象学的還元」をめぐって、シェーラーを批判した若いルカーチの機知を引用したのも『読む哲学事典』p−142、それを示唆するためである。このエピソードは、パトナムの「外在主義」と並置することによって、さらに明確な意味を獲得するだろう)。 だが、デカルト自身に即しても、悟性と意志の峻別などという安易な態度、または現象学的還元などという姑息な手段が、明晰な意味理解

  • ララビアータ:スピノザ解説 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、仕事でスピノザについて少々語る機会があった。それで、以前書いたことをごくかいつまんでまとめてみた。別に真新しいものではない。ただ、スピノザに興味はあるがとっつきにくくて困っているという人のために、以下掲載しておく。 スピノザはどうしてあのように激しい指弾にあったのか? 彼が生前に出版したのは、ほぼ『神学・政治論』だけである。この一書だけで、すでにスピノザは世界中の憎しみの的になっていた。それは、彼が異端的な倫理やエキセントリックな主張をしたからではない。それどころか、彼は聖書のすべての主張が、我々の常識的道徳と少しも違わないことを説いており、その点でその解釈は凡庸とさえいえるほどだ。それがどうして世界中の怨嗟を招いたのか?この点を理解しないスピノザ解釈は、まったく的を外しているのだ。 神の言葉が、もし我々から見て非道徳的なことばかりを含んでいたとしたら、殺人や窃盗や偽証、強姦などを善

  • ララビアータ:勝利の経験 - livedoor Blog(ブログ)

    安倍内閣は、検察官定年法を当面断念したように見える。もちろん油断はできないが、とにかく今国会での成立を断念させたことは、ほぼ間違いないところらしい。このところ、政治闘争には負け続けてきたので、にわかに信じがたいほどのことに思われる。 いかなる説明も議論もせずに無理を押し通すのが安倍政権の特徴であり、そのあまりの理不尽に、有権者はかえって喝采するという卑屈極まりない一種のマゾヒスム体質が習慣になってしまった。あらゆる嘘をつきとおし、どんな反論にも答えず議論を抑圧することが、何か政治的力量であるかのように演出するのである。安倍政権の暴政とムチャクチャが高まれば高まるほど、支持率が高どまるというのを見ても、わが国の法体制そのものが糜爛して、いよいよ来るところまで来た感があった。それゆえ、今般のような勝利が来るとは、なかなか信じることが難しかったのである。 とはいえ今は、わずかばかりの勝利でも、そ

    namawakari
    namawakari 2020/05/20
    “負けが込んでくると、状況を絶望視することがリアリズムであるかのような錯覚にとらわれてしまい、自由な構想力を萎えさせてしまうのである”
  • ララビアータ:「俗情との結託」 - livedoor Blog(ブログ)

    ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。 科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか? と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。 ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。 私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議であ

  • ララビアータ:美術館 - livedoor Blog(ブログ)

    丸山真男は「盛り合わせ音楽会」という小論で、芸術作品をそれが芸術作品であるというだけの理由から、傾向と問題意識においても様式においても価値観においても全くい違う諸作品を、安んじて一緒くたに並べる無神経さを批判している。彼はラートブルフに言及しながら、それぞれの作品をその真の精神性において鑑賞せず、いわば等しく文化財としての価値を証明されたものとして物神化する「精神的文化の無差別的享受性」を批判する(著作集第三巻p−340)。 このような批評も、ある種の文化物神的権威主義に対しては一定の意義を持つだろうが、次のように説くに至っては、さすがに偏狭な文化保守主義という別種の権威主義ではないかという疑いをぬぐい切れないのである。 僕の論法を進めていくと何々アーベントといったふうに同一人の、もしくは同傾向の作品だけを選んだ音楽会以外は無意味だという結論にならざるを得ません。(同P―338) この伝

  • ララビアータ:山形新聞への投稿――マルク・ブロック - livedoor Blog(ブログ)

    「私はフランスに生まれ、フランス文化の泉から多くを享受した。フランスの過去を自分の過去とし、フランスの空の下でなければ安らげない。だから今度は私がフランスを守る番だと、最善を尽くしたのだ。」   (マルク・ブロック『奇妙な敗北』) ヨーロッパ中世史の碩学にして、アナール学派の総帥としてヨーロッパ中に高名を馳せたマルク・ブロックは、二度の大戦をフランス軍将兵として戦った。そして、自らの経験をもとに、その敗因を、歴史家的分析によって容赦なく暴き出した。それを記したのが『奇妙な敗北』である。そこには軍隊組織のみならず、フランスの社会と文化にまでわたって根を張った脆弱性や敗北の背景が、徹底的に掘り下げられている。愛国者なればこそ、その欠陥を見過ごせなかったのである。 その後、ヴィシー政権が易々とヒトラーの軍門に下り、祖国の自由を敵に売りわたしたのに抗して、ブロックはあえてナチズムとヴィシー政権と闘

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    namawakari 2019/06/13
    “マルク・ブロック『奇妙な敗北』”
  • ララビアータ:ミキ・デザキ監督『主戦場』 - livedoor Blog(ブログ)

    渋谷で『主戦場』を見てきた。 http://www.shusenjo.jp/ この映画は、いわゆる「従軍慰安婦」をめぐる論争を、その主要な当事者にインタヴューしながら、ていねいにたどっていくドキュメントである。あくまでも言論とそのアリーナを信じる点で、いかにもアメリカらしいということができる。 我が国の監督だったら、このような問題では、対立する両陣営があまりにもかけ離れているから、水掛け論になるのは見えているとばかり、早々と「議論」は諦めてしまうだろう。かくて初めからどちらかの陣営のプロパガンダとなり、その結論を説得しようとして、過剰な感情に訴えることになる。そのような態度が初めから顕わだと、対立する陣営は警戒して、率直なインタヴューなどには応じないのが普通だ。ところが、ミキ・デザキ監督は我々から見るとどこまでもタフで、平気で中心部に切り込む。たやすくシニシズムに流れる我が国の政治風土とは

    namawakari
    namawakari 2019/06/10
    “このような作品を創ることができたのは、アメリカ社会の伝統なのであり、残念ながら我々の社会の伝統ではないことを十分にわきまえるべきであろう”
  • ララビアータ:トロツキスト - livedoor Blog(ブログ)

    「トロツキスト」というのは、ロシア革命でレーニンに次ぐ活躍をしたレオン・トロツキー(名ブロンシュタイン)の思想と行動に単に共鳴する人のことを指すのではない。それ自体極度に論争的な文脈と含意を持つ言葉であったし、また今でもそうである。今日、そのような文脈がほぼ消滅している中にあって、それについて論じるアクテュアリティは少ないと思われるが、私自身、一時トロツキストとして活動した時期があるし、今日でも一部そのような運動にある種のノスタルジーを感じる人もいるので、私自身の今のスタンスを明らかにしておきたいと思うのである。 私は、政治的伝統とか政治的権威というものには大きな意義を認めるものであるが、ノスタルジーのような感傷は、政治という領域においては極めて有害であると思っている。それゆえ、特定のイデオロギーの政治的意義とその欠陥を明瞭にしておくことは、今なお重要であると思う。 トロツキストとは、ソ

  • ララビアータ:『マックス・ヴェーバーとドイツの政治1890〜1920』 - livedoor Blog(ブログ)

    ヴォルフガング・J・モムゼンの『マックス・ヴェーバーとドイツ政治1890〜1920』を読んだので、それについて論じてみる。 書は、第二次大戦後ナチズムの清算の下で、民主的ドイツのファウンディング・ファーザーの一人として列聖されてきたマックス・ヴェーバー像を突き崩し、一人の情熱的なリアリストとしてのヴェーバーを描き出した画期的な仕事である。ヴェーバーは、平和的な自由主義インテリなどではなく、徹底的に帝国主義的国民国家の利益を追求した自覚的なブルジョワ政治家であった。 今日ではこのような見方は、むしろ常識的なものとも言えようが、出版当初(1959)は、大きな議論を巻き起こしたものである。我が国では、いまだにヴェーバーを戦後民主主義と平和主義の思想家と見る向きも多いから、それとは正反対の理解を示す書の意義は少なくないと思われる。 我が国のヴェーバー受容史は、それ自体が興味深い問題を含んでいる

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    namawakari 2017/10/24
    “政治におけるリーダシップの観念こそ、旧来、左翼に決定的に欠けていたものであり、それこそが一方ではヒトラーの独裁に道を開き、他方ではスターリンの盲目的支配を準備したのである”
  • ララビアータ:ライプニッツ再論(G.Evansと共に) - livedoor Blog(ブログ)

    カルチャーセンターでライプニッツについて講義することになり、改めて考えてみた。ライプニッツに対する共感は、若い時ほどではないが、それでも半端なものではない。ただ、それを厳密に考えてみるとなかなか難しいというのが実態だ。以下、以前に論じた点と重なるところもあろうが、重複をいとわずできるだけわかりやすい形で論じてみよう。 ライプニッツについて語るにあたって、まず第一に述べなければならないことは、ライプニッツが際だって偉大な哲学者であるだけでなく、おそらくは古今東西のあらゆる哲学者の中でもっとも偉大な哲学者であるということである。当然、それに対しては異論もあるかもしれない。アリストテレスの方がより偉大とは言えないか?彼こそは、一人で論理学という学問を打ち立て、以後の哲学の一切の基を敷いた人物ではないのか?ここでは譲っておいてもいいだろう。とはいえ、それ以上に譲歩することはできない。アリストテレ

  • ララビアータ:レヴィナス再論 - livedoor Blog(ブログ)

    レヴィナスは形而上学の中に宗教的洞察を大胆に取り入れ、従来の倫理学にない論点を導入して、倫理的考察を一新した。 従来倫理学は、形而上学の中に組み入れられ、人間存在の特殊な問題領域にかかわるものと見なされ、とりわけ、人間の理性的判断に基づく考察とされたため、人間実践における普遍妥当的な価値判断やその基準を与えることに重点が置かれていた。 たとえば、カント流の義務倫理では、自己の行動規範が普遍的道徳律と合致する限りにおいて正当とされたが、他方、功利主義では、「最大多数の最大幸福」に寄与する限りでの行動が普遍的に正当と見なされた。いずれにおいても、万人に普遍妥当な説得力を持つべきであり、今ここを超えて妥当するものであるべきであった。 そうであれば、「一般に〜を為すべきである」と言えたとしても、何ゆえ私がそれをせねばならないのかを教えるものではない。 また、しばしば多様な価値と複雑な状況においてな

    namawakari
    namawakari 2017/08/17
    “レヴィナスは、 急迫の決断を、さながら最後の審判のように見ている。あるいは、直接最後の審判の法廷に登録されたものであるかのように。しかし、最後の審判の前にも、まだ我々にやるべきことはあるのだ”
  • ララビアータ:右派の方への返答 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、拙論「井上達夫氏の新著と憲法論」2,015 7・7に対して批判をいただいた。 http://eumajapan.blog.fc2.com/blog-entry-150.html ありがたいことである。これに似た立場の方がほかにも多数いると思うので、いくつかの論点について応答してみよう。 もとより、政治的判断については非常に複雑な多数の要素を考慮したり、前提にせざるを得ないため、数学のような確実性は期し難く、また私自身も経験による免れがたいバイアスもあるだろうため、容易に相手を説得できるとも思わないが、自他ともに対して、ある程度の議論の整理や明晰化には資するかもしれないので、以下ざっくばらんに、またラプソディックに論じてみることにする。 批判者は「国民の生命財産を守る国防をどう構築すべきかが最優先の問題であって、…人権や自由や平和主義を守って国土を侵略され国民が死ねば元も子もない」と論