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ブックマーク / talpidae.hatenadiary.org (11)

  • 憲法 - ミズラモグラの巣で

    『憲法』の教科書の定番と言われるこののアタマの部分を読んでみました。まあ、当たり前のことを確認することになるのだけど、私が学生だった頃の当たり前はいまとなっては必ずしも当たり前ではないので。 まず、憲法が押しつけられたものだという話が出て来るとき、完全に抜け落ちているのはマッカーサー三原則のなかには、天皇が元首であり、皇位は世襲されるというという主旨の項目も含まれていたということだ。そして、これは、極東委員会開始以前に、天皇を統治のために利用できるとふんだGHQが残しておきたかったからだと言われている。つまり、現行の天皇制も憲法が押しつけられなければ、極東委員会の意向に従って廃止されていたかもしれないわけである(旧皇族・華族の末路を考えるとどうなっていたのでしょうね)。この点で現行の天皇制も平和憲法も押しつけであることに変わりがない。 他方で問題になるのは、ポツダム宣言の受諾に伴う憲法改

    憲法 - ミズラモグラの巣で
    namawakari
    namawakari 2014/08/14
    “逆に言えば、押しつけであるということを否定する最大の根拠はわれわれ国民の態度である。憲法が押しつけ的性格を含むというのあれば、逆に、われわれがますます現行憲法の価値にコミットしていけばよいのである”
  • 罪のてざわり - ミズラモグラの巣で

    今回は、これまでとはかなり作風が違っていて、暴力をとりあげ、アクション映画のようなエンターテインメント性を感じさせるところもあります。しかし、主題は重い。かつて、この社会にも犯罪者にたいする同情の念というものがありました。犯罪者を犠牲者とみるような視点があったのです。たとえば、永山則夫にたいしてそうでしたし、田勝一の『子どもたちの復讐』なんてもそうです。しかし、いまはそんなかけらもない。この映画をみていれば、そこで起こる出来事は自然と日のことに重なりますが、最後の一言はわれわれが忘れてしまったものをつきつけます。もっとも、他国も似たようなものかのかもしれませんが。

    罪のてざわり - ミズラモグラの巣で
    namawakari
    namawakari 2014/06/21
    “かつて、この社会にも犯罪者にたいする同情の念というものがありました。犯罪者を犠牲者とみるような視点があったのです。…しかし、いまはそんなかけらもない”日本に「社会」があった頃。
  • 情と理 - ミズラモグラの巣で

    まあ、政治家や官僚の言うことを真に受けてはいけないというのは当たり前のことだし、これを「オーラル・ヒストリー」と呼ぶといろんなところから異論が出てきそうな気もするのだが、やはり後藤田の回顧録は面白い。読んでると理屈が立ってるところと立ってないところがあるんだな。生前、かなり交流があったという筑紫哲也があとがきを書いているのだが、そこに出てくる「最後の護民官」という表現はよくも悪くもあたっているように思う。 読んだ感想を思いつくままに書きつけると、内務官僚だって(というか彼らにとってはなおさらだろうが)戦争には行きたくないんじゃんか。しかし、内務官僚やってて徴兵されてしばらくたつまで、日が勝てないということに気づかなかったっていうのはほんまかないな、そのうえ敗戦やそれを契機とした体制の変更については具体的なことを述べてない。ただ「日人は駄目だな」という言葉がしきりに繰り返される。これは、

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  • 昭和期日本の構造 - ミズラモグラの巣で

    維新つながりでこれを読んでみたが、これを読んでも「昭和期日の構造」が何なのかは分からない。が、日陸軍の変遷を追ううえでは、226事件(1936)以前以後、そして226事件そのものについても不勉強な私には役だった。最初に、丸山のファシズム論批判が来て、それから、当時の社会状況が取り出されてくる。興味深かったのは「頂点に位置していた岸信介。彼は1917年に東大に入り、20年に卒業している。人脈的には上杉慎吉に近かったが、学生時代の彼を思想的に捉えたのは北一輝であった」という一節(94頁)。もっとも、最後に『北一輝著作集』のテキスト・クリティークめいたことはしていても、著者自身は「昭和維新」の思想については大したことは語っていない。 次に、陸軍がもっぱらの長州閥からいかにして、統制派と皇道派の対立といった如きに変遷していったかを記述。以前、誰か(福田和也かな)の石原莞爾の伝記を読んだけれど、

    昭和期日本の構造 - ミズラモグラの巣で
  • 公人か私人か 阿呆くさ - ミズラモグラの巣で

    最近はめったに読まないのだがふと目がとある字をおってしまい久々に「天声人語」を読んでしまった。靖国の公式参拝のつど「「公人か私人か」が問われる」、「「個人の心の問題」というのはその通りだろう」。で、云々いろいろ留保をつけていくのだが、まず、私の記憶が正しければ「公人か私人か」を問い始めたのはマスコミである。はっきりいえば、そのせいで「公的参拝」は許されないが「私的参拝」なら許されるみたいな阿呆な言い分がまかりとおりかねなくなってしまった。祈るというのは決して内面の問題に回収しきれない行為である。 そもそも、内閣総理大臣をはじめとする閣僚他は基的に「公人」である。その「公人」が衆人環視のなか靖国参拝して「これは私的な参拝です」などという言い草が通用するはずがない。これは誰がどうみたって「公的な参拝」である。おそらくこんな理屈が通用するのは、公的参拝/私的参拝という区別を作って政治家の問題発

    公人か私人か 阿呆くさ - ミズラモグラの巣で
  • 和辻哲郎論 - ミズラモグラの巣で

    なかなか書き進めずたまたま手近にあったこのを手に取ったら、困ったことに私が取り上げたいと思った論点の少なからずがこのの中で指摘されている。これまで読んできた和辻がらみのでここまで踏み込んだものはなく、また、この議論にまともに言及しているものもない。とすれば、私としては別の視点から同様の議論を再構成し、新しい知見を付け加えるべく努力すべきなんだろうな。戦後になり、 そのときの和辻の見解は、天皇主権から国民主権への国家体制の根的変革にもかかわらず、国民全体性の表現者としての天皇の地位にはなんらの変更も生じない、そしてこの天皇によって示された教育勅語の内容は、国民国家の立場にふさわしい道徳要領として、戦後社会にもそのまま通用する、というものであった。和辻の『倫理学』および『日倫理思想史』はこの見解に立つことによって完成されている(13頁)。 何もいうことはない。両方読めばふつうそう思う

    和辻哲郎論 - ミズラモグラの巣で
  • 『教師と学生のコミュニケーション』 - ミズラモグラの巣で

    先週には読み終わっているはずの積み残しを片付ける。西洋の近代化を前に非西欧諸国がそれに追随しようとその知識の導入をはかるとき、いずれか二つのやり方で対応しなければならなくなる。すなわち、科学知識等々を母(国)語に翻訳して導入するか、それとも西洋語(英語)のまま導入するか。翻訳できればそれだけ学習も容易になり、近代化も早く進めることができるわけだが、グローバリゼーションが進むと言語まで輸入してしまった方が都合がよくなる。いずれにせよ、どちらもある種の二重言語体制を作りだしてしまうことには変わりがない。 日は前者を選択して、膨大な翻訳語の体系を作り上げていったわけだが、いくら学習が容易になるとはいえ、日常生活とはかけ離れた専門用語体系を学習することは、やはりそれほどたやすいことではない。こうして、一言語のなかに二つ(あるいはそれ以上の)言語体系ができあがることになる。翻訳して導入しなければ、

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  • 証拠の改竄だけが問題ではない。 - ミズラモグラの巣で

    たしかに、検察が証拠を改竄したら、そんな恐ろしいことって話になるのだが、ちょっと待ってくれ。新聞報道によれば(日付『朝日』夕刊)、この主任検事、検察のエースと言われながらも、その手法はかなり問題があったようだ(どんなパーソナリティなんだろうとちょっと考えてしまう。言い訳もすごいし)。でも、検察はそれを容認してきたわけで、いわば立件できればそれでも---ってことでこの検事をこれまで活用してきたんじゃないの?それから、もともと事件のシナリオを描いて取り調べるという検察の手法がまかりとおる背景があるうえに、起訴したら必ず有罪(99%でしたっけ)というシナリオもあるわけですよね。そうすると、ある意味、この主任検事は検察のシナリオ通りに取り調べを「進めようとした」いわば《優等生》だといっていいんじゃないかしら。なんだかこのままだと、このえん罪事件が、検察のやり方そのものではなく、捜査にかかわった検

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  • 認識論的誤謬 Furlong & Cartmel, "Young People and Social Change" - ミズラモグラの巣で

    仕事用のを読了。ホントは去年買ったなのだが必要な時期に届かず今年度回し。これを買ったのは、ジル・ジョーンズ&クレア・ウォーレス『若者はなぜ大人になれないのか』というがあるが、このの続きにあたるような議論を知りたいと思ったからだ。広田照幸『教育』(岩波書店)で紹介されていた。ちょっと古いなのだが、私のようにここら辺の知識を教養的に仕入れたい人間にとってはとても参考になった。もちろん、日でこの話がそのままあてはまるわけではないのだが、日の状況を考える比較対象としていまでも使えるんじゃないだろうか?誰か訳せばいいのに。簡単に流れを紹介してみよう。 まず、その『若者はなぜ大人になれないのか』だが、タイトルだけ見るとありゃりゃという感じで、またイマドキノ若者は幼稚で云々とかいう話がでてくるのかと思ってしまうのだがそんなことはない。原題は、Youth, Family and Citiz

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  • 勝俣鎮夫『一揆』 - ミズラモグラの巣で

    このが名著であるということは学生時代から聞き知っていたはずなのになぜかこれまで読まずに来ていた。あの頃、網野は散々読んだのに何でこのは読まなかったんだろう。ともかく面白いし、いろいろと分かった(つもりになった)ことがある。 このに冒頭にはこんな話が出てくる。鎌倉幕府が執権泰時の時代に「幕府を構成する個々の構成員の私的利害から相対的に独立した公的機関を創出して、公権力の基盤をかためることを目的」として、財務および評定の最高意志決定機関として評定会議が設定され(1225年)、さらに御成敗式目が制定される(1232年)。このとき評定衆は起請文を書いて「一味同心」する。つまり、御成敗式目は一揆を介して制定されたのである。 評定衆のメンバーは、現実には将軍の家臣として、また強固な族縁的集団の一員として、その社会規範にしたがって日常生活を営む存在である。その同じ人間が、評定衆のメンバーとして、

    namawakari
    namawakari 2009/03/04
    “「公」の観念をつくり出すためには「一揆」が必要だったのだ”/“こうした一揆は一面において「身分形成の論理」として社会のヒエラルキーを再構成する役目を果たしていたといってよい”
  • 勝俣鎮夫『戦国時代論』 - ミズラモグラの巣で

    『一揆』と同じ著者による戦国時代論。これまた名著であろう。大変面白く、教えられるところ大。いや、斎藤道三の油売りから一代で戦国大名になったという話はもはや伝説のうえでの話にすぎなくなってしまうのですね。とりあえず、さしあたり知りたかった部分だけをメモにまとめてみると、 下克上の思想というのは、単に成り上がり者が大名になるというだけの話ではなく、「家」の観念と密接に結びついており、いわゆる「役の体系」という話につながっていくような、一つの職分を果たすという発想ととても近いものがあるというか、それの前駆形態というべきであろう。その意味では、下克上と主君押し込め話は、同じ思想的背景を持っていることになる。 それは、鎌倉時代の親の継嗣決定権に優越する従者の協議決定園という、旧来の武家の通法にかわる新しい価値観の登場と、それを基礎づける政治思想にもとづいた新しい政治領域観の定着であった。すなわち、十

    勝俣鎮夫『戦国時代論』 - ミズラモグラの巣で
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