高岳親王塔遺蹟(清瀧寺) 高岳親王(たかおか しんのう、名前は「高丘」とも表記)は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、薬子の変により廃された。のち復権され四品となるが、出家して真如入道親王(しんにょ にゅうどうしんのう)となる。空海の十大弟子のひとりで、仏法を求めて老齢で入唐し、さらに天竺を目指して旅立ったのち消息を絶った。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。 名前は「高岳」「高丘」で表記揺れが見られる。杉本直治郎は、新訂増補国史大系本六国史を調査した上で、『日本後紀』(840年成立)の大同3年(808年)6月3日条では「高丘」、『続日本後紀』(869年成立)の承和2年(835年)正月6日条では「高岳」と表記されており、『日本三代実録』(901年成立)は「高丘」「高岳」を混用していることを指摘している[1]。その上で杉本は、成立の最も早い『日本後紀』が「高丘」表記である