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教師に関するnekosichiのブックマーク (2)

  • 原則的であることについて - 内田樹の研究室

    原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている。 原則的にふるまうのはよいことであると言われるけれど、これは半真理であり、取り扱いに注意がいる。 というのは、原則的であることが必須である局面があり、原則的ではない方がよい局面があるからである。 その見極めがむずかしい。 例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。 無原則な親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。 あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。 子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。 そういう親は「乗り越えやすい」からである。 親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。 それでよいのである。 親はそのためにいるの

  • 自分の身体を中心化した支配欲の現れ、「セクハラサイコロ」 - ohnosakiko’s blog

    仰天!小学校「セクハラサイコロ」事件の真相 作成、行使の教諭「金八以上」と児童・保護者・卒業生が擁護 - MSN産経ニュースという記事につけた自分のブコメ 生徒にとって良い先生てのとは別に、「罰」の内容が全部この教師の身体や行為(する真似だったにせよ)を通したものである点が、生徒への直接的な支配欲を感じさせて気持ちが悪い。罰として掃除をやるとかないし の補足として。 多くの生徒や父兄にはかなり慕われ信頼されていたという報道のように、この教師は別に「変態エロ教師」ではなかったのだろうが、やっていることはセクハラであり、しかもそれを「セクハラサイコロ」と堂々と名付けて生徒たちに受け入れさせている点で、二重の過失を犯している。 その点だけは思慮が足りなかったが、それを除けば良い先生だった、ちょっと不注意だった‥‥という見方もあるかもしれない。しかし、この教師の「良い先生」ぶりと、「セクハラサイコ

    自分の身体を中心化した支配欲の現れ、「セクハラサイコロ」 - ohnosakiko’s blog
    nekosichi
    nekosichi 2010/11/08
    子供の世界に大人目線で入り込んで、物知り顔でコメントすること自体が本質的に間違ってるんじゃないのか?そういう意味では告発したモンペもこのエントリも同じ穴の狢だと感じる。
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