ブックマーク / sz9.hatenadiary.org (8)

  • 物語の連鎖、ひたすら連鎖 - 感情レヴュー

    (例1)作家間、固有名間のオマージュ的連鎖。 マネ『バルコニー』1868 マティス『コリウールのフランス窓』1914 ザオ・ウーキー『アンリ・マティスに捧ぐ』1986 この連鎖においては、マスターピースを軸にした美術史の豊穣な物語が語られるだろう。具象と抽象の間でゆれながら作家の固有名だけはゆるぎないものとしてここにはある。 むろんここに、たとえば藤島武二の『黄浦江』(1938−『幸ある朝』1908)の「窓」を繋げて、もう一つの物語を語り起こすことも可能だ。美術史をさらに上書きするために。しかし、僕たちは、これとは別の連鎖の様態も知っている。 +++ (例2)図像の横滑り、無節操な連鎖、またの名をモンドリアン連鎖。 『コンポジション』1920 『コンポジション』1935 『黄、赤、青のコンポジション』1937-42 『ブロードウェイ・ブギウギ』1942-43 ヘリット・トーマス・リートフェ

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    nemii 2008/04/11
  • 夕方の光と蛍光灯の光が交差する湯気のなかで顔以外の全部を鏡に映してみること/形而上の誘惑と形而中の反映/川上未映子『乳と卵』 - 感情レヴュー

    今回『乳と卵』で芥川賞を受賞した川上未映子の文章には、叙述のあいまあいまに、「あいだ」や「狭間」や「隙間」といった言葉が間隙を縫うようにしばしば現れてきて、そこに立ち止まって注入される言葉の数々は渦を巻きながら叙述を滞留させつつ、途切れる間際に叙述をつなげていく。 こんなことを書くと、川上氏のことを凡庸な構造主義や関係主義者のように言っているようだけれど、それは誤解だ。彼女は、あるものとあるものの間に注意を向けるのではなく、あるものに「あいだ」や「隙間」や「狭間」を見出すことに長けているのである。どういうことか? たとえば、川上未映子はとりわけ「私」について考察する文章で知られているが、彼女にとっては、この「私」は社会的関係の中に生きており、その一項にすぎない、とか、この「私」と「あなた」は相対的な関係にある、というのでは足りない。この「私」を(社会的な関係の中において)「あなた」と相対的

    夕方の光と蛍光灯の光が交差する湯気のなかで顔以外の全部を鏡に映してみること/形而上の誘惑と形而中の反映/川上未映子『乳と卵』 - 感情レヴュー
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    nemii 2008/02/05
  • 現代批評の一分(2) - 感情レヴュー

    純文学をしていると、「東浩紀は文学をわかっちゃいない」という物言いをする人にしばしば出会う。口にしなくとも、彼の話を話題にすると、「ラノベのあれでしょ」的な我関せずの(まあそれはそれで妥当性のある)反応をして話は先に進まない。 今月号の「新潮」にて「小説と評論の環境問題」と題する討論の模様が掲載されていて、高橋源一郎と田中和生にくわえ、東浩紀が参加しているのだが、東氏に挑みかかる田中氏の発言からは、そのような純文学サイドの苛立ちを感じ取れた。ライトノベルを評価することはべつにかまわないが、純文学を軽視しすぎているという苛立ちだ。 その軽視は、たとえば、東氏が純文学の定義を「自然主義的リアリズム」として一括するところに求められる。僕としては、東氏のそのような定義を、べつに大文字の文学とか純文学に崇高な(ジャンルの存立)根拠を見出しているわけではなく、単に事実問題として粗雑だと思っている。 た

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    nemii 2008/02/05
  • 新聞切抜帖 - 感情レヴュー

    1 以下、読売新聞(2007年9月1日)から話題の記事、全文引用。 《奈良県橿原市の妊娠中の女性(38)が相次いで病院に受け入れを断られ、死産した問題で、3度の受け入れ要請があった県立医大病院(橿原市)は31日、同病院のホームページ(HP)で消防とのやりとりなどの経緯や当直医の勤務状況などを公表、院長名で「誠に遺憾」とした上で、「当直医は過酷な勤務状況だった」とするコメントを掲載した。昨年8月、転院拒否のケースで死亡した同県三郷町の高崎実香さん(当時32歳)の遺族は「この1年、何も進んでいない。今後、どうするのかを真剣に考えてほしい」と訴えた。/HPには、当直日誌や当直医らから聞き取りした28日午後7時6分〜29日午前8時半の状況を分単位で記載。最初の受け入れ要請があった時、当直医が「お産の診察中で、後にしてほしい」と事務員に返答したことや、緊急入院の患者が相次いだ状況、当直医2人が一睡も

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    nemii 2007/09/06
  • 純文学におけるエンターテイメントの影響を概説して、東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を論じる : 感情レヴュー

    承前*1 リアルな世界よりもフィクションの世界の方にある種のリアリティーを見出すというか、創作上の可能性を見出した純文学最初の世代が、新感覚派以降、横光利一とかあのあたりだったというのは文学史的に妥当な線だろう。当時は、とりわけ相対性理論などの科学的言説が作家のテキストにしばしば登場したり、創作に影響を与えたりしたわけだが(川端のようにオカルトに流れる作家もちらほら)、そののちにも、たとえば60年代の日SFの勃興期に、三島由紀夫や安部公房なんかがSFの虚構を前提にした世界観に純文学の可能性を見出している。 横光は「機械」で、一人称視点を通して主観(に支えられた文学形式)というものがいかにあやふやでフィクショナルなものかを追求したし、三島は『美しい星』で、「UFOを見た私は宇宙人だ!」というSF的誇大妄想の狂言がひたすら肯定される(つまり、絶対にツッコミを入れない)叙述を通して、常識が通る

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    nemii 2007/09/04
  • 宇野常寛「ゼロ年代の想像力」 - 感情レヴュー

    このテキストで宇野常寛氏は、前世紀の90年代後半と今世紀に入ってからの00年代を区分し、物語の想像力が変化した、と指摘している(「ゼロ年代の想像力 「失われた10年」の向こう側」連載第一回、「SFマガジン」2007年7月号)。前者が、『エヴァンゲリオン』や「セカイ系」に代表される「ひきこもり」的な心性・想像力によって物語が生産・消費された時期だとすれば、後者になって、「「決断主義」的な傾向を持つ「サバイブ感」を前面に打ち出した」物語が注目を集めはじめる、と。 僕は中高生や大学生と話す機会があるんだけれど、確かに、宇野氏が00年代の代表作としてあげる『デスノート』や『バトル・ロワイアル』を好む学生たちの消費の仕方を聞いていると、「決断主義」的なところがある。主人公のライトが決断主義的だとかいうより、とにかく物語の設定が最初から最後まで明確でゆるぎないことが、彼らがその作品を評価する基準になっ

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    nemii 2007/09/04
  • 近代文学が終わるとしたら - 感情レヴュー

    前回の日記で*1、ライトノベルは何よりも物語設定とキャラ設定(のデータベース)が消費対象だと言った。それでは、純文学に、我々は何を求めているか。 その問いに関しては、各時代ごとにもっともらしい解が用意されてはいるだろう。現実の最新風俗を読みたい(自然主義的リアリズム的な消費)とか、「私は何ものか」という命題の真相を知りたい(自我の葛藤云々)とかいった解も、その意味で半ば正しい。しかしけっきょくのところ、否定的にしか語れるものではない。 それはおそらく、哲学的・心理学的に、人間(近代人?)の欲望にまつわる根的な欠如、いわば象徴的な欠如と言い換えてもよさそうなものだ。このジャンルは、そういう意味での「ゼロジャンル」だと言える。 現実を描き出さなくなったから*2とか、内面を掘り下げる描写がいちいちかったるくなったから*3とかいった理由で、純文学が護持してきた近代文学は終わる(終わった?)のだろ

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    nemii 2007/09/04
  • モダニズム以降の表現の可能性 : 感情レヴュー

    博士論文が審査を通過しました。タイトルは、『安吾戦争後史論 モダニズム以降の表現の可能性』です*1。興味のある方は、プロフィール欄のアドレスに連絡くだされば、データを送ります。 +++ ところで、僕が文学におけるモダニズムというときは、1920年代にマルクス主義や横光利一らいわゆるモダニストが参戦した、形式主義文学論争が念頭にあります。 そこで論争の主軸になった横光が試みたことは、大きく二点あります。まずは、作家が文学形式(言語手段)を自明なものとして何かを表現する時代に別れを告げ、そのような自明性にいまだしがみついている既成の文壇を批判したことが第一点。表現なんてそれこそ読者の取りようによって異なった解釈をされてしまうのだから、自分の思う通りに表現するのではなく(表現形式を無視するのではなく)、表現形式に注目せよ、ということが第二点。 この認識のもとに、言葉を駆使した様々な形式的実験がな

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    nemii 2007/09/04
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