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  • 備前・備中・美作戦国史-戦国通史

    戦国通史 争乱の備前・備中・美作 元弘の乱で、後醍醐天皇に忠を尽くし、その後の建武の新政では、後醍醐天皇に謀叛した足利尊氏に与して、南北朝期、播磨・備前・美作の守護に赤松氏が任じられた。しかし、嘉吉の乱に赤松氏が没落すると、播磨・備前・美作守護には山名氏が任じられた。そして、応仁の乱に再興をはかった赤松政則は細川氏に属して、旧領の回復を賭けて山名氏と戦い、ついに宿願の旧領回復を果たしたのである。 そして、美作・備前守護となった赤松政則は、再興とその後の応仁の乱に力を尽くした浦上氏を守護代に任じた。浦上氏は三石城を拠とする赤松氏の根被官であり、赤松氏の宿老として重きをなしていた。さらに則宗は京の治政にも力量を示し、将軍義政・義尚らの信任も厚かった。 備前国の動向 文明十五年(1483)金川城を拠とする守護代松田元成が、備後守護山名俊豊の援助により蜂起。福岡城に拠る赤松氏守護代浦上則宗を

  • 丹波戦国史-割拠図

    ・ 丹波の戦国武将、割拠図 丹波国は京に近く、歴史の節目ごとに小さからぬ足跡を歴史に刻んでいる。 元弘の乱において足利尊氏が倒幕の旗上げをしたのは口丹波の篠村八幡宮、戦国時代末期、明智光秀が主君織田信長を 弑逆する決意をしたのは亀山城(現在の亀岡城)であった。 丹波守護職は幕府管領細川氏が相伝し、応仁の乱の一方の領袖細川勝元はときの管領であり丹波守護職であった。 乱に際して『応仁記』によれば細川氏一族の教春が丹波勢二千余人を 率いて合戦で活躍しており、京の攻防がそのまま丹波に及んで戦場となることも多かった。 波多野氏、久下氏、福住城の仁木氏、北桑田の川勝氏、高山城主大舘氏、位田の荻野氏、物部の上原氏、 上林の上林氏など、当時の古文書に名のあがっている在地領主たちは細川氏について戦闘に参加したものたちであった。 応仁の乱が終息したのち、その余波は全国に及び、世の中は戦国乱世へと推移していった

  • 丹波戦国史-丹波三強

    丹波氷上郡に割拠した赤井氏は、清和源氏頼季流を称している。戦国時代の丹波には船井郡に内藤一族、 多紀郡に波多野氏が割拠し、赤井・内藤・波多野の三家が戦国期の丹波における三大勢力であった。 その赤井一族を統帥したのが黒井城に拠った赤井(荻野)悪右衛門直正であった。 永禄八年(1565)八月、赤井直正は八木城主内藤宗勝と天田群の「和久郷」において一大決戦におよんだ。結果は赤井方の大勝利で、 内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は鬼ケ城に脱出したが、赤井方に走った横山氏らに攻められて貞勝らも戦死した。 この「和久郷の決戦」は、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった合戦であった。三好氏を後ろ盾としていた 内藤氏の勢力は大きく後退して、丹波は三好氏の分国から離脱した。 以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、赤井直正は氷上・天田郡を支配下におく一大勢力となって 威は但馬にまでにおよんだ。永禄十一

  • 武家家伝_波多野氏

    丹波国は北を丹後・若狭、東を山城、南を摂津、西を播磨・但馬に接する大国であった。畿内五カ国に接する山陰道第一の国で、早くから豪族が存在し、大和朝廷ともつながりをもっていた。古代の四道将軍伝説には、北陸に大彦命、東海に武川別、西道に吉備津彦、そして丹波に丹波道主命が遣わされ、多紀郡(篠山市)にある車塚古墳は丹波道主命ともいわれている。丹波は古代より中央政権との関わりが深く、平安京が開かれると都にもっとも接近する国であった。 源平時代になると平宗盛が五畿内・伊賀・伊勢・近江・丹波の惣管となり、平盛俊が丹波国諸荘園総下司に任命され、丹波は平氏政権を支える政治的・軍事的に重要なところであった。やがて平家が滅亡して鎌倉幕府が開かれたが、丹波には皇室・公家領が多かったためか守護が設置されることはなかったようだ。 承久の乱後、執権北条義時の弟時房が守護に任じられ、宮方に味方して没落した公家や武士の旧領は

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