可笑しいのは、いろんなポジションの人がみんなそれぞれ勝どきを上げていることだ。 そうなるべくがんばってこねた政治的しんこ細工なんだろう。 まず、オールドスクール系左翼やポリコレ蛮族的な「疑うこと自体が攻撃」「女性を叩きたいだけだろう」と言ってきた「無謬派」には少しはがっかりして欲しいところだが、なぜか大喜びである。まあこいつらは仕方ない。 「コラボ極悪派」にとっては最小限の勝利であった。こんなもんじゃないはずだ、僕らの戦いはこれからだという感じだが、できることはあまりないだろう。 「コラボは悪というよりは雑派」にとっては嫌な意味で予想通りの結果だった。行政のふてぶてしさを見せつけられるという意味で。 「雑」の原因には独善・慢心があるとして批判寄りの人、まあ仕方ないとは言わないが悪意というより能力不足で説明つくだろうと同情寄りの人と、「雑派」の中にも温度差はあるが、都に対するうんざり感は同じ
「黒人はあぶなそうだからあっち行って」 これを差別を認めると、子供に見知らぬ大人を警戒させることもできなくなる こんな意見をみて、なるほど…🤔、と思った。 ぐうの音も出ない。正面からロジックで否定できる人はおそらくいないだろう。 子どもたちに SDGs と多様性を教えていく中で、「他人は警戒するな」と説くわけにもいかない。 だからと言ってウソをつくわけにもいかない。大人がウソをついたり誤魔化したりすると子どもは必ず見抜く。 提案がある。 「警戒に足る経験の積み重ねがある場合に限り」、警戒を差別の例外にする。 ……ってのはどうだ? これならば例えばレイプされた経験から男性恐怖症に陥った少女を責めたりも出来なくなるし、化粧品売り場の女性販売員が寄ってくる男性客に身構えるのも擁護できるようになる。 警戒って実は、本能だと思う。 本能を抑圧して隠したりするのが理性の役割だと思いがちだけど、人間の
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く