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建築家に関するnoto92のブックマーク (10)

  • DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 - Wikipedia

    DOCOMOMO JAPAN選定 日におけるモダン・ムーブメントの建築(ドコモモ ジャパンせんてい にほんにおけるモダン・ムーブメントのけんちく)は、DOCOMOMO Japanが現存する近代建築として選定した建築である。2024年(令和6年)6月時点で、290件の建築が選定されている[1]。 DOCOMOMO Japanでは、1999年(平成11年)に日の近代建築20選(にほんのきんだいけんちく20せん)を選定し、2003年(平成15年)9月には80件を加え、日におけるモダン・ムーブメントの建築を100件選定した。その後さらに以下のように随時追加されている。 2005年追加選定(計115件) 2006年追加選定(計125件) 2008年追加選定(計145件) 2009年追加選定(計150件) 2013年追加選定(計164件) 2014年追加選定(計174件) 2015年追加選定(計

  • 渡辺仁 - Wikipedia

    渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日 - 1973年(昭和48年)9月5日)は、近代日の建築家。作品のスタイルは歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命館などがある。記念碑的な建築物を設計した。 年譜[編集] 1887年(明治20年)2月16日 新潟県佐渡生まれ。東京育ち。父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)。 1912年(明治45年)7月 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に務めた。 1917年(大正6年)12月 逓信省入省。大臣官房経理局営繕係勤務。1920年退職。 1920年(大正9年)4月 独立し、渡辺仁建築工務所開設。 1926年(大正l5年) 建築研究のために欧米を視察。 1929年(昭和4年) 渡辺仁建築工務所内に渡辺・久米建築事務所開設。

  • 井手薫 - Wikipedia

    井手薫 井手 薫(いで かおる、1879年(明治12年)5月6日 - 1944年(昭和19年)5月11日)は、日統治時代の台湾で活躍した建築家。岐阜県出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 略歴[編集] 1879年、井手今滋(いましげ)の長男として出生した。父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で、山梨県尋常師範学校長、新潟県尋常師範学校長、岐阜県海西下石津郡長などを務めた。 第一高等学校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学建築科を卒業(岡田信一郎、野精吾、倉田謙らと同期)。同年辰野・葛西建築事務所に入り辰野金吾のもとで建築設計に従事した。1909年(明治42年)、陸軍に入り工兵少尉となった。 1911年(明治44年)10月、台湾総督府技師に就任。森山松之助の依頼を受けた辰野金吾の推薦によるものという。台湾

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  • 森山松之助 - Wikipedia

    森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる。(なお、叔父に五代友厚がいる。)学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、東京帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。大正元年(1

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  • 門司港レトロ - Wikipedia

    門司港レトロ 街並み 門司港レトロ(もじこうレトロ)は、福岡県北九州市門司区にある観光スポット。 JR門司港駅周辺地域に残る外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテル・商業施設などを大正レトロ調に整備した観光スポットであり、国土交通省の都市景観100選、土木学会デザイン賞2001最優秀賞を受賞している。また「門司港レトロ地区の観光振興・地域活性化」で平成19年度手づくり郷土賞「地域活動部門」受賞[1]。平成28年度には同賞大賞受賞[2]。 対岸に位置する山口県下関市の唐戸・巌流島などとの周遊ルートとして多くの観光客で賑わう。 1988年(昭和63年)から整備を開始、1995年(平成7年)3月にグランドオープンした。順調に観光客数を伸ばし、2003年(平成15年)には対岸の山口県下関市にある巌流島がNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の舞台になったことで、年間255万人の観光客を集めた

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  • 安藤忠雄 - Wikipedia

    光の教会(1989年竣工) 安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年(昭和16年)9月13日 - )は、日の建築家。一級建築士(登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表[1]。東京大学特別栄誉教授[2]。文化功労者。文化勲章受章。21世紀臨調特別顧問、東日大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。コンクリート打ちっ放し建築を主に住宅や教会、ホテルなど国内外に数々の作品を発表。「住吉の長屋」(1976年)、「光の教会」(1989年)、「ベネッセアートサイト直島」(1992年 - )、「淡路夢舞台」(2000年)、「こどもの森 中之島」(2020年)などの代表作が知られる[1][3]。 大阪大阪市港区生まれ、同市旭区出身。三人兄弟で弟が2人いる。双子の弟は、北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・

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  • 震災、人口減少で加速する東京集中大都市「東京」は東日本をどう支えるべきか――3.11後の都市論(上)建築家・八束はじめインタビュー

    経済のグローバル化が進むなか、都市が膨張を続けている。国連によると、2030年の世界人口は約80億人にまで増え、その60%は都市に暮らすようになると予測されている。ヒト、モノ、カネを巡る都市間の争奪戦が激しさを増すなかで、東日の復興という重い課題を背負ったままの日の都市は、どのようなビジョンと戦略を持って臨むべきなのか。東京と地方都市という2つのテーマに分け、都市に詳しい2人の識者にそれぞれうかがった。 今回は、「東京」をテーマに、建築家・建築評論家である八束はじめ芝浦工業大学教授に話をうかがう。人口減少が急激に進む日を襲った今回の大震災。大都市「東京」は東日の復興において、どのような役割を果たすべきなのか。 (聞き手 フリーライター 曲沼美恵) 人口減少社会で進む東京一極集中 東日大震災によりその傾向は一層加速 ――人口減少のフェーズに突入した日では今ひそかに、大都市圏への人

  • 伊東忠太 - Wikipedia

    伊東 忠太(いとう ちゅうた、1867年11月21日(慶応3年10月26日) - 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日建築を格的に見直した第一人者で、法隆寺が日最古の寺院建築であることを学問的に示し、日建築史を創始した。 また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。 「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地願寺などの作品を残す。 1943年(昭和18年)には建築界で初め

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  • 太田博太郎 - Wikipedia

    太田 博太郎(おおた ひろたろう、1912年11月5日 - 2007年1月19日)は、日の建築史家。東京大学名誉教授。日学士院会員。九州芸術工科大学学長等をつとめた。第二次世界大戦後に中世の寺院建築や民家の研究をリードした。 経歴[編集] 1912年、東京生まれ。武蔵高校(旧制)の頃から建築史に関心を深め、奈良・京都の古建築に親しんだ。東京帝国大学工学部建築学科で建築史を専攻。 1943年、東京大学助教授に就任。1960年より教授。1957年に学位論文『中世建築の基礎的研究』を提出して東京大学より工学博士の学位を取得[1]。1973年に、東京大学を退職し名誉教授となった。その後も武蔵野美術大学教授として教鞭をとった。1974年、九州芸術工科大学学長となった。1978年から1990年3月まで武蔵学園長。また学界では文化財建造物保存技術協会理事長などをつとめた。1997年日学士院会員に選

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  • ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ - Wikipedia

    ベルニーニは若い頃から彫刻に才能を発揮していた。ヘレニズム時代の彫刻に大きな関心を示したベルニーニは、《雌山羊アマルティア》(1615年)のような作品において古びた大理石の質感まで模し、真にヘレニズム時代の作品であると学者たちをあざむくことができるほどであった。 《アポロとダフネ》ボルゲーゼ美術館蔵 サン・ピエトロ大聖堂の天蓋、バチカン市国 シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために制作された4体の彫刻群、つまり《アイネイアースとアンキーセース》(1618年 - 1619年)、《プロセルピーナの略奪》(1621年 - 1622年)、《ダヴィデ》(1623年 - 1624年)、《アポロとダフネ》(1624年 - 1625年)によって、ベルニーニは即座に名声を手にした。現在でも、4体共にローマのボルゲーゼ美術館に所蔵展示されている。 カルロ・マデルノのもとで建築に携わり、1623年、25歳の時に願っ

    ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ - Wikipedia
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