タグ

_z0racに関するo_keke_nigelのブックマーク (5)

  • 差別は道徳の皮を被る - z0racの日記

    言及エントリを個別に批判するつもりはないが、同様の主張を何度か見たので言及しておく。 無断リンク禁止がネットの常識になるって? そんなことはありえないんですよ 要約すれば、「無断リンク禁止が常識になることはないんだから、気にせずリンクすればよい。嫌だと云ってきた相手はリンクを削除すればよい」という主張。 頭から相手の主張を聞く気がない上、要求だけは聞き入れることで反論機会すら奪う。差別の典型パターンである。 言及エントリをして即差別だと批判する気はないが、それが差別のパターンであることだけは指摘しておきたい。 また、相手の主張には全く取り合わずに「相手の嫌がることをするのはやめよう」と云うのは、大いなる欺瞞でもある。 差別はこういう形でも「道徳の皮を被る」のだ。

    差別は道徳の皮を被る - z0racの日記
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/09/11
    「正しさ」の主張から始まる「差別」というものもある、ということか。「無断リンク禁止」「反禁止」お互いが他方に引っかかる部分は何か。そこを「マナーだ」「ネットの原理だ」で切断するのはトリッキー。
  • 誤読の可能性は広い - z0racの日記

    私の文章が支離滅裂なのは文才無さの故、言い訳でしかないがご容赦願いたい。駄文をたまにしか書かないブログにはトラックバック自体が珍しいので反応してみたい。 2007-01-16 いや、「支離滅裂」はごもっとも。返す言葉もない。 嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。 どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。 嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。 言及記事の方を読まれていないのだろうか。それによって違うのだが。 ある行為をしている(した)相手に対して「嫌いだ」と云うのは、禁止のニュアンスであろう。タバコを吸っている人に対する「私はタバコが嫌いだ」は「やめろ」のメッセージではないか。 言及記事が「嫌いだ」を繰り返すことで「禁止」のメッセージを強く発している(と読んだ)ので、「そこまで云うなら、ハッキリ「やめろ」と云えばいいんじゃない?」というつもりで前記事を書いたわけなのだが。 これはつ

    誤読の可能性は広い - z0racの日記
  • kyoumoeの日記30歳 - ?

    「社会正義」から逃げることはできない - z0racの日記 何言ってるんだろう、この人。 これらは(勝手に要約してしまえば)、「個人的な「正しさ」を「社会(的)正義」として主張してはならない」という批判であろうが、 これがまず分からない。 この意見が導き出されたのが 4) しかし、自分の考える個人的な「正しさ」を、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」として主張する人がいる。私はそういうのは嫌いだ。 5) また、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」を勝手に想定し、自分ではなく世間や社会の要請として押しつける人がいる。私はそういうのは嫌いだ。 という点なのがさらに分からない。 嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。 どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。 嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。 私の主張は全く逆である。「個人の「正しさ」を社会正義として主張せよ。」但し、社会

    kyoumoeの日記30歳 - ?
  • 「社会正義」から逃げることはできない - z0racの日記

    社会正義が「いやらしい」のは認めるが、だからと云って「個人の正しさ」に逃げ込んでも無責任になるだけである。 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ[絵文録ことのは]2007/01/13 2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ[絵文録ことのは]2007/01/15 言及記事は連作と云えるのでまとめてリンクする。 先の「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」の大きな矛盾は、「2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ」で論点を「2ちゃんねる」の詳細に絞ることにより消し去られている。 が、間接的にでも先行記事で提示された「社会正義のいやらしさ」は解消されないまま、法治主義として棚上げされてしまったのは残念である。個人的には別記事としてそちらを論じて欲しいものだ。 別段「2ちゃんねる」を擁護するのではないが、記事の「2ちゃんねる批判」*1の

    「社会正義」から逃げることはできない - z0racの日記
  • 価値判断が有効なのは自戒のみ - z0racの日記

    野暮で田舎者のおいらが来ましたよ。とでも云うところだろうか。 「善意」「悪意」「野暮」「田舎者」「自分は何もかも分かっている」etc. どんなに言葉を変えようが、結局のところ価値判断でしかないのである。無論、価値判断を反省的に自己に向けることは有効である。 しかし、それを他者に向けてしまうのは、自己正当化でしかない。 自己正当化した行動に対する批判において、価値判断による言説を行うのは単に矛盾しているのである。それは価値競争でしかない。可能性を閉じるのは、他者の価値感の認否ではなく、この自己正当化なのだ。 あえて自己正当化をするのであれば、都会に住んだ田舎者であるより、殺伐とした荒野に一人立つ者でありたい。 それが虚無主義者の心意気である。

    価値判断が有効なのは自戒のみ - z0racの日記
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/12/10
    至言。そういう抽象評価語を実際に言葉にするのは実にトリッキー。リテラシは何よりもまず自らに問うものと思う。
  • 1