とりあえず、何か別のことを最新エントリページにしたいので、書くだけ。 読み返しはするかもしれないが、今回はあまり校正しないつもり。 ・・・・・・・・ 内心の自由は保証されていない云々のエントリを読んだ当初は頓珍漢な感想しか浮かばなかったが、いろいろフォローエントリーなどを読んで、これはかつて交わされた「表現の自由にヒモ」論議に近いところにあるのだな、と思った。 その流れでいけば、内心の自由を声高に主張するという「行為」は、あくまで行為として、批判対象となるだろう。 だがしかし、かつては少なくとも、「儀礼的無関心」は容認されていたのではないか。 今もそれは容認されているのか。 恐らく容認されてはいるのだろうが、そう取らない人がいないかどうかというのは気になるところ。 私の勝手な用語法では、儀礼的無関心を容認するということは、内心の自由を容認するということだ。容認というか、容認するも何もひとつ