今日、友人がネット上で彼女を募集していることを知りました。 http://d.hatena.ne.jp/Yoshiori/20080630/1214814814 しかし、こんな不特定多数に募集をして「じゃぁ私が」なんていう女性はいないと思います。常識的に考えてここはJavaで実装すべきですよね!彼に早く彼女ができるように仕様や設計を練るのを手伝ってもらえませんか?
はい 死にました 詳細は割愛します。死んだので送別会をしました。 渋谷の北海道ではなく、なんか水の上の良いところでやりました。 これでもし、やましろ先生が 正直、「妹です。」って女装したymsrが出てくる可能性が少しはあり得ると思ってる。— 太一 (@ryushi) 2014, 2月 13 こんな感じで出てきても川に落として殺すことで送別会が成り立って便利、みたいな話をしてました。 思い出 一緒に仕事したこととかないんですけど、それ以外のところにはだいたい彼がいました。 最初に参加した Twitter オフ モンハンオフ/合宿 java-ja との出会い その他様々なオフや勉強会 特に java-ja との出会いはエンジニアコミュニティとの出会いであり、転職のきっかけであり、つまりは年収 2 倍です。まあ会場には ymsr 先生のおかげで 3 倍になった人もいた。 心情 向こうにやましろ先
Takuto Wada @t_wada .@yamashiro と知り合った頃の思い出や最後に遊んだときのことなどを書きました / “#ymsr 送別会に行ってきた - t-wadaのブログ” http://t.co/tMPKmc6C4w 2014-02-16 04:14:55
昨日、山城さんの送別会に行ってきました。 http://ymsr.peatix.com/ ブログに書くまでがjava-jaという訳で、はてブロ作って書きました。 経緯 山城さんが亡くなった事を知ったのは1月のこと。 送別会の参加募集ページの方を先に見つけ、内容からjava-jaの悪ふざけだろうと断定し、山城さん海外にでも行くのかな?くらいに思っていたのですが、その後に太一さん経由で事実を知った会社の同僚から、本当に亡くなったそうだと教えられました。 私は山城さんとは顔見知り程度の仲で、さほど親しかった訳ではありません。しかし、同年代でありながら、java-jaやその他の勉強会で大いに活躍される姿を遠巻きに見ていて、彼に対しては正直なところ憧れを持っていました。 彼の死というものは、私にとっても少なからず衝撃でありました。 親しい方が多かったであろう山城さんの送別会への参加は、多少憚られたの
はじめに 技術的でもなんでもない、俺がymsr送別会に行ってきたという話。区切りを付けるために書く。 ymsr送別会 | Peatix 俺と山城さんが初めて会った日 前からTwitterではフォローしてたし、もしかするとどこかの勉強会で会ってるはずなんだけど、ちゃんと面と向かって話したのはjava-ja温泉だったと思う。1日目の夕食の時間に、芳泉閣の例のご飯部屋で自己紹介タイムになった時に、幹事だった山城さんが「では自己紹介で、名前、id、何をやりたいか、そして童貞かどうかを話してください」と高らかに合図をして、のっけからやばいと思った記憶がある。 それから リアルに会ったのは、他のjava-ja勢から比べたらほんとに少ないし、飲み会なんかでは自分も酒飲んでバグってたから、正直何話したか細かい内容は結構覚えてない。ただ、ついさっきまでゲスい話をしていた10秒後に真面目にエンジニアの生き方み
java-jaの偉大な幹事であり、僕の人生を変えてくれた友人である山城が亡くなった。 今日はその送別会であったので、遺族である妹さんにも了承の上、山城が亡くなったことについて公に話そうと思う。 僕がその訃報を聞いたのは12/4の16時ぐらいだった。ちょうどその日に山城が幹事のjava-ja忘年会が予定されていたので、まさかという思いがありつつ、どうにかしないとという思いで幹事を引き継いだ。 とにかく集まった方に状況を説明し、よくわからないまま泣きながら家路についた。 山城は12月3日に事故にあって亡くなった。最後のツイートが 死ぬかと思った— やましろ (@yamashiro) November 29, 2013 なので誤解を受けているが、このツイートと山城の死因に因果関係はない。彼が亡くなったのはこのツイートの3日後だ。 生前、幹事としてドタキャンを最も嫌っていた彼が、最後の最後で亡くな
LTしたが涙ぐんで、ちゃんと話せなくてみっともない感じになってしまった。 でも、言いたかったことは何となく伝わった感じだったので良かった。 java-ja ymsr送別会 利用したサービスについて amazon.co.jp 今更説明するまでもないけど、検索すれば、かなり無茶なものでも売ってる。 サードパーティが食品売ってるので、もう何でも買える。 スイカ見つけた時には勝った感すらあった(何に勝つのかは分からない) ジャパンネット銀行 ブラウザだけで完結してる銀行口座として本当に便利。 特に使い捨てのクレジットカード番号が使えるVisaデビットがあるお陰で、ちょいと変なサイトでも容赦なくクレジットカード番号をエントリできる。 それから、一日に使える金額をカジュアルに変えられるのも凄く良い。ちなみに、僕は15万に設定してる。 peatix.com 支払い方法が沢山あるのと、売上の受け取り方法が
Java界、PHP界で名を馳せた山城さんが亡くなりました。 java-jaというやんちゃなコミュニティの宴会部長。訃報を聞いた瞬間は「おいおい冗談にもほどが・・」と一瞬思ってしまったくらい。 もちろん死をネタにするなんてことはさすがにないだろうと次の瞬間には本当なんだろうと受け止めたけど、なんともやるせない。 たくさん勉強会で一緒したり、懇親会で飲んだり、お互い欲しい物リストにあるものを送りつけ合ったりした中でした。つい最近はFacebookやLINEで仕事の話もしていたところで、これから一層活躍するはずだった矢先。残念至極。 氏の人徳もあってたくさんの人があつまって送別会をしました。「告別式」みたいなしんみりしたものではなく、みんなでワイワイガヤガヤ楽しんで本当に素敵なお別れ会でした。 写真をパシャパシャ撮っていたけれども笑顔が沢山!整理できていないけれどもひとまずヨシオリさんの笑顔を1
赤毛に青いサングラス――独特な出で立ちのエンジニア庄司さんは25歳からプログラマーに転向した。プログラミングは「泣きながら覚えた」と振り返るが、いまやjava-jaを立ち上げるなど精力的に活動するエンジニアだ。 この企画はokyuu.com編集部が現在のエンジニア像をリレー形式で追っていくものです。 (取材・文=編集部) 庄司嘉織(しょうじよしおり) 1975年7月22日生 34歳 ドワンゴ 研究開発本部 統合情報システム開発部 【略歴】 1996年3月 沖縄大学中退 2009年3月 株式会社ドワンゴ入社 ――ITエンジニアになったきっかけを教えてください。 庄司 プログラマーになる前は、契約社員で4年ほどパソコンのサポートをやっていました。中小企業のヘルプデスク業務を支援したり、プロバイダーの加入者をサポートしたり、仕事は多岐にわたっていました。インターネットが出たての頃だっ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く