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茨木のり子に関するpita-goraのブックマーク (11)

  • 人生を変える“言葉” 韓国で出会った茨木のり子 | NHK | WEB特集

    生き方に迷う時。自信が持てない時。大きなものに流されてしまいそうになった時。 多くの人の背中を押してきた詩があるのをご存じですか? その詩人のことばは、韓国でも愛され、広がっています。その理由とは? (ソウル支局 ディレクター 長野圭吾) 11月中旬。 韓国の観光名所、ソウルタワーのふもとにある小さな書店で、日を代表する詩人・茨木のり子の朗読会が行われました。 今年で没後15年となった彼女の詩は、日で世代を超えて愛されてきました。 実は茨木の詩は、数年前からハングルにも翻訳されるようになっています。 この日も、20代から30代の若者たちが集まり、自分の好きな詩を選んで朗読し、感想を語り合っていました。

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  • 女がひとり頬杖をついて。 - kananaka's blog

    今週のお題 病院に行くときは、必ず数冊のを持参する。自宅に在庫がなければ、必ずゆく道のどこかで書店に寄る。楽しいでなくてもよい。悲しいを選ぶ必要もない。ミステリーでも、恋愛小説でも、ルポルタージュでも、お伽話でも、何でもかまわない。けれど、どうしても譲れないものがある。それはある程度の分厚さがあること。膝の上に鎮座するの重さが、ともすれば粟立ち浮足立つ自分をどっしり地べたに根づかせてくれる、そう頑なに信じている。 公衆の面前で涙が流れてしまうとき、それを隠す方法は読書する姿を装うこと、それがもっとも自然で適切だ。目を伏せ、うつむき、を読む。その瞬間、周囲の光景やざわめきがすっと遠のいて、外界は薄絹の向うに分かたれる。見開きのペエジの中で私が追うものは、見知らぬだれかの身に起きた架空の物語などでなく、私自身の忘れがたい思い出に他ならない。冷静に見つめなおしてみたい過去や、目を背けた

    女がひとり頬杖をついて。 - kananaka's blog
  • あのひとの棲む国。 - kananaka日和

    神無月も半ばを過ぎた頃、小さな包みが我が家に届いた。差出人欄をあらためると、学生時代にお世話になった今は亡きN先生のお連れ合い、S夫人の端正な筆跡が目に入る。茶色の包み紙をほどくと、はたして中から現れたのは、茨木のり子の『歳月』という詩集であった。 『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。 伯母は夫に先立たれた一九七五年五月以降、三十一年の長い歳月の間に四十篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。 何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。 ――p128, 宮崎治「Y」の箱, 『歳月』(2007)花神社 詩人の一周忌に合わせ誕生した遺作集のあとがき―「Y」の箱―を読み、私はこの小さな贈り物の意味を理

    あのひとの棲む国。 - kananaka日和
    pita-gora
    pita-gora 2011/01/18
    "彼女のやわらかな感性と、しなやかな気概や志、そして、それらを口にした者にだけふわりと香り立つウィットや羞じらいの一行に、何度励まされてきただろう。"
  • 茨木のり子・感動の詩

    茨木のり子さんは1926年に大阪で生まれた。名は三浦のり子。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で終戦を迎えた。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感受性を育んだ。敗戦の混乱の中、帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。 1950年(24歳)に結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。 1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受

  • 茨木のり子展はすばらしかった!! - 館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

    フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ! こんな所に、ベーベー2人を連れて、行ってきた。 目的はこれ! 戦後の女流詩人・現代詩に見事なまでに鮮やかに足跡を残した「茨木のり子」さんの催しである。 僕の信じる3大巨星、茨木のり子・石垣りん・新川和江・・ その石垣さんは、2004年12月に亡くなって、その悲しみ消えない2006年の2月に茨木さんが亡くなった。 新川さんのみ、ご健在である。 僕がまだ、紅顔の美少年だった高校1年。新聞に掲載されたこの詩を読んで、如何に生きるべきかという哲学と、1つの理想を貰ったのだった。 今も、何がしかの結節点に、この「詩」を抱くのであった。 驚くほど、資料が集められている。見事! 直筆原稿など、垂涎。 自身の朗読で、9編ほどの詩を聴くことが出来るサプライズ。 茨木さんの詩は、かの大戦を詩

    茨木のり子展はすばらしかった!! - 館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト
  • http://homepage.mac.com/hisashit/ibaraginote.html

  • 詩人・茨木のり子さんの死 - my daily life

    先月、茨木のり子さんが亡くなられたんだな・・・ということは知っていたが、山形にゆかりのある人だとは知らなかった。 日の山形新聞夕刊の記事により知った。書かれているのは、鶴岡市在住の元高校教諭、戸村雅子さん。茨木さんと親交があった方だ。 茨木さんは、お母さんが庄内の三川町の出身、旦那さんも鶴岡市出身と言うことだそうだ。詩にも随筆にも庄内が出てくるという。「ご夫君の三浦家の菩提寺は鶴岡市加茂にあります。茨木さん、ご夫君のそばで安らかにお眠りください。」と文章は結ばれている。 茨木のり子さんの詩と言うと、私も思い出すものがある。 「けものの涙」は確か高校の2年生の国語の教科書にも載っていた・・・はず。 一番覚えているのは、これまた高校2年のとき、合唱部の全日合唱コンクールの課題曲のひとつに、「六月」があって、練習したことだ。 この曲は、作曲家高嶋みどりの女声合唱曲「女の肖像Ⅰ」に収められてお

    詩人・茨木のり子さんの死 - my daily life
  • http://homepage.mac.com/hisashit/page10/page10.html

  • 茨木のり子さんの逝去日に・・・(語り8) -     弥々*とはず語り   :楽天ブログ

    2006.02.19 茨木のり子さんの逝去日に・・・(語り8) (59) テーマ:表現者、集まれ~(263) カテゴリ:語り日記 鋭い批評精神とヒューマニズムに裏打ちされたみずみずしい表現で 戦後女性の生を歌い上げた詩人の茨木のり子さんが 東京都西東京市の自宅で死去していたことが 19日分かった。79歳だった。 (asahi.com抜粋) この訃報を知ったのは、V.I.P takenokoisyaさんの日記だった 吾の大好きな詩人である ショックだ・・・ もっともっと彼女の詩を受け取りたかった またしても語るに足りない吾ではあるが お許しを頂き、ここに哀悼の誠と共に 一篇の詩をおかせて下せーまし 【いつものように下記下線のタイトルをポチッとしていただくと、語りBARに飛びまする】 【手記よりも聞いてみてにゃ】 自分の感受性くらい ここを↑ポチッとしてにゃぁ~ (音声聞こえんかったら、PC

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