東京の島々 東京の島々II 写真は八丈島の八丈富士。火山である。この山の火口のふちをぐるりと周ることを、「お鉢巡り」というらしい。僕はこれをやるために、東海汽船に一晩ゆられてこの島にやってきたのだ。結果から先に書いてしまうと、僕は「お鉢巡り」をやりとげることはできなかった。山から転げ落ちることが恐ろしく、途中で引き返してしまったのだ。「お鉢巡り」とは実に適切なネーミングだった。僕が歩くべき道は、まさにお鉢のふちのように薄く、鋭く切り立っていた。お鉢の内側に落ちたとしても、外側に落ちたとしても、よくて骨折、運が悪ければ即死したっておかしくないように思えた。 「ちょっと大袈裟に言い過ぎなんじゃないの?」なんておっしゃる方もいるかもしれない。正直、僕もそう思う。今回載せた写真を見返してみると、明らかに人がかんたんにすれ違うことができるくらいの広さがある……。だが、ちょっと待ってほしい。これはむし
"the jewish pentagram"の文字。でもユダヤの魔法陣ってこんなにトゲトゲ多かったっけ? 謎の詩。字体からすると魔法陣を記した人物の作品だろうか。 謎の詩その2。字体からすると(略)。なぜかid:delete_allさんのことを思い出す。
○牛窓(岡山県瀬戸市) 牛窓を知ったのは、川本三郎「日本すみずみ紀行」(昭和62年刊行)によってである。この書籍は川本の町歩き・紀行もののなかでもいちばん好きなものかもしれない。これにも下の写真にある「ニコニコ食堂」は登場し、川本は「おでんと小さなイカの煮物をさかなにビール」を呑む。その後、遊郭から転業した旅館で一泊した後、広島の大崎下島の町・御手洗に向かう。ここもかつては遊郭の町であった。一泊した後、以下のように川本は〆る。 お婆さんの作ってくれたワカメの味噌汁がおいしかった。朝刊を見ると、広島県でプロ野球のオープン戦、広島と西武の試合が行われたとある。春はもうすぐである。朝食をすませ、船着場まで行く私をお婆さんが見送ってくれた。こんどの旅はなんだかお婆さんにばかり会ってきたようだ。 川本三郎「日本すみずみ紀行」現代教養文庫21頁
世界最大のビール祭「オクトーバー・フェスト」で有名な南ドイツの街・ミュンヘンに、仕事の出張で一週間ほど滞在しました。はじめてのヨーロッパ!はじめてのドイツ!はじめての海外出張!と舞いあがり、時間の許す限り観光してしまった…中でもいちばん印象に残ったのは、あるクレイジーな建築家兄弟が思う存分腕をふるった小さな教会でした。 ミュンヘン街歩きは新市庁舎前からスタート あいにくというか下戸のわたしには折よくというべきか、ちょうどビール祭は終ったばかりの十月下旬。実はミュンヘンの前にはシンガポールに一週間いたので、寒さがひときわ身に沁みました。ミュンヘンの緯度は北海道と同じくらいなのです…。街路樹の紅葉や色づいた実がきれい。 南ドイツの鉄道網は、ミュンヘン中央駅を中心に整備されています。街に出るために、ドイツ人の親切なおっさんに教えられながら一日乗り放題切符を買う。この切符でエリア内のSバーン(都市
○光の教会(大阪府茨木市) 晩夏、あるいは初秋、ペットボトルと文庫、写真機をコンビニ袋にいれて大阪にむかう車中、暇つぶしにケータイメモリの整理をする。イマジカFT窓口なんて二度と用事はなく、キンコーズの店舗の番号がやたらと入っているのに前職の名残りを見たりもする。国立天文台は日没の時間、国土地理院は日没の方位を問い合わせのにメモリに入れていたのだったか。もはや記憶にない。 そこには、その昔、好きだった女の名前があった。 その女を好きになったのは、女がマイノリティだったからである。私のようなどうしようもないニンゲンは、自分に自信など物ごころついた時からなくて、そんな身の上の女に、そうであるがゆえに安心感を覚え、安心して好きになれたのである。女が抱えていたであろう負い目に、私はただ、つけこんでいたのである。 そのような私は、どうかんがえてもニンゲンのクズであるに違いない。 ニンゲン性はとっくに
僕が大学生活を送った寮には、ふんどしになって夜の街を練り歩き、最後には公園の堀に飛び込む――という実に「大学男子寮のステレオタイプ」な寮祭がある。諸事情により今年で45年の歴史に幕を閉じることになった寮祭を淡々とレポートするよ。 『世の中には二種類の男子寮がある。「きれいな男子寮」と「残念な男子寮」だ――』 僕は自分の暮らした寮についてこう書いた。もちろん僕が居たのは残念なほうの男子寮で、汚かったり、苦しかったり、暗かったり、説明しようとするととても3つでは足りないくらいのKが付く。きれいなほうの男子寮の代表格たるイケメンパラダイス的な空間が実在するのか、僕は知らない。まぁ、それはともかく。 僕は同じ寮生だった友人から、「今年で寮祭が最後になる」との報せを受け取った。詳しい事情はわからなかったけれど、ともかく僕は仕事を休み、東北へ飛んだ。そう、魂を置き去りにしてきた、山形のあの町を目指して
ひがし茶屋街ではボランティアらしき男性がお座敷文化のことをいろいろと説明してくれたのだけど、何と言うかこう、独特な雰囲気を持った人だったね。良くいえば貴族的、悪くいえば高慢な感じでさ。「本来であれば一般人は絶対に入ることはできませんよ」ってフレーズを十二秒に一回は話に織りまぜてくるわけよ。おれなんかは、ほら、労働者階級に属する若者だからさ。そういう話をきくとだんだんイライラしてしまったりするわけよ。でも、一方で、「もし家を建てることがあったら、この中庭の造りはぜひとも真似したいもんだなあ……」なんていうプチ・ブル的な心性を発揮してしまったりもして。 そんな日和った態度をプロレタリアートとしてのおれは許さないよね、当然。貧乏人が金持ちの文化に憧れたって空しいだけやろ的なことまでいいだしはじめるわけよ。そしたら、小市民のおれもさ、綺麗なもんを綺麗と言って何が悪いんやって反論するしね。お互い一歩
巨大な食虫植物に消化されるブロガー 今年の夏休みは、父・長姉・次姉といっしょにボルネオに家族旅行に行ってきました。お父ちゃんをはじめての海外に連れて行こうという企画でしたが、ついでに昆虫の写真なども、フフフ…との欲目がたたり、上の写真のようにとんでもないことになりました(メレ山メレ子は、死んでもブログを書くのをやめませんでした…)。 家族旅行なんて小学生のころのキャンプ以来のメレ山家。ボルネオで謎のガイド「どうぶつ先生」に翻弄される一家の珍道中をごらんください。 テングザルリバークルーズ 「ボルネオってどこにあるんだっけ?」と訊かれすぎ、最終的には「南米です」「最果てです」となげやりに答えていましたが、ボルネオはマレーシア・ブルネイ・インドネシアの三国に分かれる島です。スケジュールの都合で、わたしと大分から来るお父ちゃんが羽田で集合し、長姉子と次姉子が待つボルネオに向かうことに。手前の灯は
今となってはもう、廃墟を訪れても何の喜びも感じない。三十近くになってもまだこんなことに興じている自分の愚かさが身に染みるばかりだ。年齢的な問題は置いておいたとしても、あれほど恐ろしい大破壊のあとに、このような呑気な写真が許されるはずもない。 地震のあとに浪江町を闊歩した牛や豚の写真、ロンドン暴動のさなかにAmazon.ukで金属バットがバカ売れしたというニュース、これらをたとえば10年前、ティーンエイジャーだったころの僕が目にしていれば、きっと初めて廃墟に足を踏み入れたときのようにわくわくしていたはずだけれども、サラリーマンとなった今の自分にとっては、ひたすら気を重くさせるだけのニュースでしかない。 今週なんか、ずっと医療保険とがん保険の検討をしていたんだぜ。メットライフアリコと東京海上日動、あとは共済系、この辺りがいいんじゃないかと思っているのだけど、なかなか決めることができないでいる。
初めての国外旅行に出たとき、自分はDTだったし、当時の自分の観測する世の中の決まりの中では、国外に出ることなしにきちんとしたPLAYBOY誌を合法的に読む方法はなく、きちんとしたPLAYBOY誌を合法的に読む以外には、ウーマン(すばらしい神様が創造されたこの世で一番すばらしいあちら側の生き物)の2本の足のあいだの付け根にあるものの姿かたちを知る方法がなかった。のちにK子園で華麗なプレーを見せつけて「Dリーグで活躍」することになるクラスメイトとその仲間たちが、クンニリングスをすべきか否かを熱く語り合う夏の日の男子校の昼休みの教室で、俺は机にうつ伏せたまま、旅行会社に電話をかけて、まずなんと言えばいいのだろうか、いつだったら家族の人に詮索されずに電話機を使うことが出来るだろうか、パスポートはどうやって取るのだろうか、それを忘れたら飛行場でどうなってしまうのだろうか、などと、いろいろ考えていた。
2006年ぐらい?からはてなに写真を載せるようになったのだけど、一度過去ログを全部消してしまうことがありました。その後、人に会う度に「もったいない」と言われるので、過去の写真をまとめたものをここにアップすることにします。 ここに載せる写真は2010年に行われた第3回 1_WALL[写真]というコンペに応募したポートフォリオと全く同じ構成のものです。このポートフォリオは一次審査を通ったのですが、二次審査のプレゼンが全くふるわなくて落選しました。 僕にとってこのコンペに受かることは人生の目標の一つなので、このポートフォリオに改良を加えてふたたび1_WALLに挑もうと思っていました。 しかし3.11を経験したことによって、ここにある写真のうちの何枚かはすでに意味を失ってしまった、と感じます。ものが打ち棄てられいる写真、ものが水没している写真、etc…。東日本大震災が起こる前、僕はこうした風景を求
May 11, 2011 / Topics Tags: interview Photo:Mitsuaki Iwago/Edit&Text: Madoka Hattori 川崎市市民ミュージアムで開催中の『岩合光昭どうぶつ写真展』で催された、トークショウ「ネコの撮り方」をレポート。猫に対する愛情たっぷりの岩合さんが、猫の撮影方法の秘訣を教えてくれました。 猫とのコミュニケーションが大事 「沢山の動物を撮影していますが、僕が一番最初に作ったのは猫の写真集です。だから、猫についてはとても強い思いがあるんです。一般的に野良猫といっても地域によって、猫の表情や動き方は全く異なります。人が穏やかな場所では、猫も穏やかな表情をみせてくれます。特に坂道の多い場所では、人の動きがゆっくりとなるので、猫の動きもゆっくりしている。また、道が細く車が入れないような所は、道の真ん中に寝っころがってくつろいでいてます
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