保阪正康『「特攻」と日本人』と、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』を読んだ。 気になった所だけ。 まずは『「特攻」と日本人』。 著者の見解について、幾つか気になる点はあるのだが、それでも賛同できる部分は多かった。 昭和十九年の十月、台湾沖航空戦でのこと。 第二十六航空司令官の有馬正文は、艦隊に特攻して戦死する。 著者曰く、「日本で初めての特攻作戦を行ったのは、実は四十九歳の有馬だったのである。」(171、2頁) しかし、有馬の体当たり攻撃は、一般に広まることはなかった。 有馬は軍事指導層であり、もしこの考え方が一般的だったら、軍事指導者たちが率先して体当たり攻撃をしなければならなかったからである、と著者は書いている。 指導者たちは、特攻しない。 陸軍航空本部は、昭和20年5月末に知覧基地で「特攻隊員の心理調査」を密かに実施している(56頁)。 戦争の最終段階になっても「ますます決心をなす
発見直後の横井庄一さん(c)朝日新聞社この記事の写真をすべて見る 終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さん(享年82)が生誕して100年。週刊朝日では、現地で横井さんを発見した男性を07年8月に取材している。その際にこの男性は、これまで語られなかった“新事実”を明かしていた。年老いた証言者が見た光景とは--。(週刊朝日2007年8月24日号に掲載した記事をニュースサイト「dot.」編集部が再編集しました。年齢は07年8月当時) 「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」 1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。 太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。横井さんが亡くなって10年目の7月末、本誌は横井さんの発見者であるマニュエル・デグラ
加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1本づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。食べるものがない時だったので母は喜んだ。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く