幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。
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【鈴木ひろ子の「レスラー妻放浪記 明るい未来」4】世界最大のプロレス団体「WWE」で活躍したKENSO(ケンゾー=46)&鈴木ひろ子氏(46)夫妻による連載「レスラー妻放浪記 明るい未来」の第4回では、11日に16回目の命日を迎える“破壊王”橋本真也さん(享年40)を振り返る。「闘魂三銃士」の一人として、ⅠWGPヘビー級の名王者として、ゼロワンの創設者として、プロレス史に名を刻んだ破壊王を、付け人だったケンゾーとひろ子氏はどう見ていたのか。太く雄々しく時代を駆け抜けた橋本さんの素顔とは――。 橋本選手は大の車好きでした。ケンゾーが付け人を務めていた当時、橋本選手の愛車は最高級のメルセデス・ベンツ。車は常にピカピカで、ちょっとした傷も放っておかない。懇意のディーラーに頻繁に車を入れて、メンテも手入れも欠かしません。 無頓着に荷物をトランクに放り込むケンゾーにはいつもひやひやして、荷物を入れる
高田賢三さん死去、81歳 「ケンゾー」創業者、仏で成功 2020年10月05日12時15分 高田賢三さん 【パリ時事】華やかな色や柄使いのブランド「KENZO(ケンゾー)」の創始者で、世界的に有名なファッションデザイナーの高田賢三(たかだ・けんぞう)さんが4日、新型コロナウイルスに感染後、パリ郊外の病院で死去した。81歳だった。高田さんの広報担当者がAFP通信に明らかにした。 〔写真特集〕追悼 2020~渡哲也さん、岡江久美子さん、志村けんさん~ 兵庫県出身。1958年、男性に門戸を開いたばかりの文化服装学院に入学。翌年進んだ同学院デザイン科には、後に「花の9期生」と呼ばれる「ニコル」の故松田光弘さん、コシノジュンコさん、「ピンクハウス」の金子功さんら日本を代表するデザイナーの卵が集まっており、互いに刺激を与え合う良きライバルになる。 婦人服メーカーのデザイナーを経て、65年渡仏。70年に
高田賢三氏。フランス・パリで行われたフォトセッションにて(2018年11月14日撮影、資料写真)。(c)JOEL SAGET / AFP 【10月5日 AFP】(写真追加、更新)ファッションデザイナーで「ケンゾー(KENZO)」創業者の高田賢三(Kenzo Takada)氏が4日、フランスの首都パリで死去した。81歳だった。新型コロナウイルスに感染していたという。同氏の広報担当者が明らかにした。 広報担当者の声明によると、高田氏はパリ・アメリカン病院(American Hospital of Paris)で亡くなった。高田氏は日本人として初めて、競争の極めて激しいパリのファッション界で注目を集めた。 今年は高田氏がパリで最初のコレクションを発表してから50年の節目だった。高田氏は特に、トレードマークの花柄プリントで知られる。 高田氏は自身の名前を冠したファッションブランド「ケンゾー」を高級
NIGO®「ケンゾー」アーティスティック・ディレクター KENZO ©︎FAIRCHILD PUBLISHING, LLC 「ケンゾー(KENZO)」は9月20日付で、NIGO®「ア ベイシング エイプ®(A BATHING APE® 以下、ベイプ)」創業者をアーティスティック・ディレクターに任命した。ウィメンズ・メンズのデビューコレクションは、来年1月のパリ・ファッション・ウイーク中に発表する。なお、2019年からデザインを率いてきたフェリペ・オリヴェイラ・バティスタ(Felipe Oliveria Baptista)氏の後任だ。 1970年生まれのNIGO®(本名は長尾智明)氏は高田賢三「ケンゾー」創業デザイナーと同じ、文化服装学院を卒業。「ケンゾー」がLVMHモエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON)傘下になった1993年にファ
JINSEI STORIES 滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」 Posted on 2020/10/05 辻 仁成 作家 パリ 某月某日、訃報の知らせは突然、飛び込んでくる。 だから、予期せぬところで予期せぬことが常に動いていたということになる。 それが人生なのだから、受け止めるしかない。 ケンゾーさんはぼくにとって高田賢三でもKENZOでもなく「ケンゾーさん」だった。 ちょうど20歳年上のケンゾーさんもぼくのことを辻さんと呼んでくれていた。 礼儀のある、物静かな、人の悪口を決して言わないし、そういう話しには参加してこない大きな方であった。 いつも笑顔で、寛容のある人で、よく人間のことを見抜いていた。 はじめてお会いしたのは2001年に「辻仁成の貌」という特集雑誌の対談で、パリのケンゾーさんのご自宅で対談をした時…。19年も前のことである。 パリ中心部を一区画も占有する
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